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葉桜が散った

 17歳になってはじめて小説を書くことができた。それは同時に、今まで書いてきたものは全て小説ではなかったということでもあるが、しかし、そんなことは最早些事だ。これこそが小説。これでこそ小説。単純な僕は、これで就職も大学受験もしなくてよくなると、本気でそう信じた。僕は選ばれたのだ、僕は夢を掴む側の人間なのだと確かに実感した。
 だから、25歳の僕が、
「え、今?会社で働いてるけど?」
 と云ったときはかなり衝撃だった。
 ええ、マジかよ……。 これでダメとなると、もう、とても、僕には未来など無いじゃないか。
「ああ、いや、ダメってのじゃなくて。あともう少し頑張りましょう……みたいな?」
 と僕は僕に慰められるが、僕の言葉はなんだか何処となく何かを取り繕うような気配でとても素直には受け止められない。
 未来からやってきたという25歳の僕は間抜けな顔でヘラヘラとしていて、確かにとても作家のようには見えないので余計ショックだ……。ていうか、僕、見た目、17歳から何も成長してないじゃん。8年も時間が過ぎてるのに……。こういうのって、社会経験や対人関係から少なからず貫禄、というか、大人っぽさ、みたいなのを身につけていくもんじゃないのか?僕は僕の外観から、僕が8年もの時間をロクな体験もまともな人間関係も無いままただ無為に過ごしてきたのだと察する。
 そんなショボい見た目をした25歳の僕は、恥知らずにも勉強机の引き出しから出てきた。あまりにも、あまりにもな登場の仕方に、僕は呆れを通り越して、ただただ悲しくなった。自分で自分が恥ずかしかった。
 で、しょっぱな放った一言が、「うわ、なんだこの精液くせぇ部屋。そんなだからお前、25まで童貞なんだぞ」なのだから、なんだか……もう、なんだか、ねぇ?

 僕は25歳の僕と僕の部屋で対峙して、17歳からの僕の人生を大まかに聞かされる。
「大学は行くよ。大阪。一人暮らし。でも、引っ越す先はここよりはマシってくらいの田舎だけど。大学は……まあまあ楽しい。一人でいられる時間が単純に増えて、それが嬉しかった。一年目は……確か、古本屋に通い詰めるな。二年目は、どうだっけ、でも、明確にミステリじゃなく現代文学を読むようになったのはこのあたりだったと思う。三年目あたりでヒップホップとか聴き始めるよ。あ、笑ったな?でも、本当のことなんだ。で、四年目は競馬にハマるね。そこで自分自身だと思える馬に出会う。もちろん、小説は書くよ。でも、また逆戻りなんだ。17歳のときに青春汁を全て出し切った僕は、なんだかよくわからないダラダラとした文章しか書けなくなる。切実さを失ってしまうんだな。
 それで何者にもなれないまま、僕は社会人になる。東京だぜ。あれだけ憧れた東京。夢の街。東京での暮らしは……GWが終わらなかったり、沖縄に行ったり、動物園から逃げ出した殺人パンダと暮らしたりはするけど、どうも、なんだか、ね。すでに僕は、とても、とても輝けないところまで堕ちてしまっていたみたいなんだ。17歳の僕は東京に行けば全ての答えを得られると考えていたと思うけど、あれは本当だ。そして僕に突きつけられた答えはNOだった」
 僕が語る僕の人生は、全て僕が望んだ方向のちょうど真逆を行くような、とにかくひどい有様だった。ここに来るまでに自殺しなかったのが不思議なくらいだ。
 20歳までにデビューできないやつは才能がないウンコ製造人間だと思っている。思っていた。だけど、こうして現実を(本当の意味で)目の前に叩きつけられると、どうも、切ない。僕は小説を書き、これで自分の価値を完全に完璧に稼いだつもりでいた。でも、実際はどうだ?僕の魂は価値を獲得することなく、25歳になっても腐ったままでいるのだ。
 25歳の僕が、ビールをぐびり、とあおる。それは僕が家の冷蔵庫から勝手に持ってきたもので、僕は25歳の僕が美味しそうにビールを飲む様子を眺めながら、ああ、一丁前にお酒は飲めるようになったんだな、と思う。しかし、だからといって、僕はそのことにまったく何の価値も見出すことはできない。
 ただ、老いているんだな、と感じるだけだ。
「で、なんだよ。僕がこの8年間、どうしようもない人生を歩んできたことはわかった。正直、絶望的だ。最早徹底的にワンワンちゃんだよ。そんな25歳の僕が、四捨五入すれば30代の惨めな僕が、一体全体、何の目的でこんなところまでやってきたんだ」
 25歳の僕はすぐには僕の質問には答えず、ビールの缶から口を離すとゲップを一つした。最悪だ。本当に最悪だった。缶ビールを飲んでゲップをするような大人にだけはなりたくなかった。そんな醜悪な存在にはなりたくなかった。しかし、その醜悪な存在が25歳の僕なのだ。
 それから25歳の僕は、僕をチラリと一瞥してから、気まずそうに云う。
「あのさぁ、お前、小説書いたじゃん?あれ、パクらせてくれない?」
 それを聞いて僕は25歳の僕を本気で殴る。
 人を殴ると殴った方も痛い。殴ったのも、殴られたのも自分であれば尚更だ。
「いてぇ……。本気で殴ることないだろ……。まじいてぇ……。生まれてはじめてだ、こんな直接的な暴力は……」
 冷凍庫から持ってきた氷で頬を冷やしながら、泣きそうな声で25歳の僕が云う。僕は何も云わない。僕は本当に怒っているし、本当に悲しいのだ。
 25歳にもなって、それで、もうこれ以上どうしようもないところまで堕ちて、思い浮かんだ最後の手段が、過去の自分の模倣なのだ。
 過去を振り返り、昔はよかったなぁ、なんて呟くのは老人の仕事だ。
 昔の杵柄を使い、自分の存在を誇示するのは終わった人間の仕事だ。
 僕はずっとそう考えてきたし、そう信じてきたはずなのだ。
 だけど今、25歳の僕は平気でそれをやろうとしている。老人の仲間入りをしようとしている。終わった人間になろうとしている。
 僕はもう一度、今度は足で25歳の僕の背中をおもいきり蹴りつける。25歳の僕は、うげ、と情けない声をあげ、顔面から床に転がった。
「ひ、ひどい……」
「酷いのはそっちだ」
 僕は認識する。
 25歳の僕はゴミだった。カスだった。ウンコだった。
 現に25歳の僕は、僕に殴られ、蹴られるという、あからさまな敵意を向けられているにも関わらず、相変わらずヘラヘラと間抜けな顔をしていて、自分とすらまともに向き合おうとしないのだ。心底ヘナチョコの腰抜け野郎に成り下がってしまったのだ。
 僕は違う。
 僕は向き合った。
 過去の自分達と。
 僕は過去の自分達と向き合い全員殺して食べて吐き出したゲロカスを原稿用紙に叩きつけることで小説を書いた。そうすることでしか小説を書くことはできないのだと僕は悟ったのだ。自分を殺さずに書かれた文章の連なりなどは所詮小説未満のゴミクズでしかなく、そんなものをいくら量産したところでそれは排泄行為と何ら変わらないのだ。
 8年の間、何もせずただボンヤリと暮らしてきたせいで、僕はそんな単純なことすら忘れてしまっているのだ。
「大体、なんでじゃあ、それで僕のところに来るんだ。パクるなら勝手にパクれよ。やるなら勝手にやれよ。そこに僕の許可なんていらないだろ。お前が一人で自分の魂の価値を下げてればいいだろ」
「ち、違うんだって」
「はぁ?」
「無いんだよ、いくらパソコンのなかを漁っても。あのとき書いたはずの小説が」
 どうやら僕はついに自分で書いたはずの文章からも見放されるらしい。
 終わってる。終わっていたのだ。
 小説を書いて、ようやく自分の人生が始まると思った矢先、僕は終わった。夢は叶わない。働くしかない。その先に待っているのは、ブザマにも床に項垂れるこの情けない物体なのだ。

 かといって、僕は僕の書いた小説を易々と渡す気にはなれず、25歳の僕は僕でこのまま何も得られないで帰るわけにもいかないらしく、そのままズルズルと25歳の僕は僕の家に住みつき始める。世話を焼く羽目になれば面倒だな、と思っていたが、25歳の僕は基本的に部屋の隅っこに縮こまっていているし、お金だけは持ってきているので、お腹が空けば勝手にこっそり部屋を抜け出し、片道15分のところにあるコンビニまでカップ麺や弁当を買いに出かける。その存在さえ無視しておけば、僕の生活が必要以上にかき乱されることはなかった。
 とはいったものの、たまに「なぁ、僕、ここ数年の競馬の結果とか全部知ってるんだけど……この情報あったらお金持ちじゃね?」とか、「あ、佐藤友哉の本、全部ちゃんと並べてるじゃん……。えらいなぁ。お前、23の冬に佐藤友哉と飲みに行けるぞ」とか、「お小遣いあげようか?お前に足りないのは教養だったと思うんだよ。もっと、古本屋で100円じゃない本も読んでおけば……と後悔してるよ。まあ、100円以上出したところで、この街で得られる小説なんてたかが知れてるけどな」とか、「もうさ、これから出版される小説のネタ、パクろうよ。引きこもりの息子が虫になる小説書いてみない?」とか話しかけてきて、正直に云って不快だった。何か話しかけられる度に、僕はムスッとした顔で「死ね」とだけ返した。しかし、25歳の僕は怯むことなくその後も延々と喋り続けた。曰く、あの小説のこの展開はすごかった、だの、あのネタは今思い返すと最先端だった、だの、今のうちにあれ読んどいた方がいいぞ、だの。本当に気が滅入った。それでも僕が何の反応もしないと、ようやく諦めて、25歳の僕はションボリと部屋の隅でまた縮こまるのだった。
 僕の未来の姿をまざまざと見せつけられるのは堪えるものがあった。唯一救いなのは、そうは云っても、あと一年も我慢すれば僕はこのクソみたいな、文化のカケラもないゴミダメから抜け出せるということだった。看板の電光が剥げたパチンコ屋や、開いているのかどうかすらわからないエロビデオ屋や、店の奥に申し訳程度に古本の棚があるだけのリサイクルショップや、アイスクリームの匂いと死臭とが同居するショッピングモール、そんな風景とは決別することができるのだ。
 その結果、僕はズルズルと腐ってしまっていくのかもしれないが。
 切実さが足りない、と25歳の僕が云った。
 東京行かせろ、とただそれだけでここまで書いてきた僕が、では、本当に東京に行ってしまったとき、一体何を書くことができるのだろう?
「この時代のコンビニ飯ってあんま旨くないな……」
 25歳の僕が、コンビニで買ってきた唐揚げ弁当を食べながら呟いた。

 25歳の僕の時間がどのように流れているのかは知らないが、とにかくそんな生活を続けているうちに、一ヶ月半ほどの時間が経った。
 学校から帰ってきて、机に座ってボンヤリとパソコンを眺めていると、急に思い出したように25歳の僕が話しかけてきた。
「今日って何日?」
「カレンダー、あるだろ」
 壁を指差す。
「あ、そっか」
 25歳の僕は部屋の壁に飾られた、父親が会社からもらってきたカレンダーを確認して、それからまた口を開いた。
「やっぱり、今日だぞ」
「何が?」
「結果が出るの」
 はぁ?という疑問が口をついて出る前に携帯電話が鳴った。
 僕は慌てて電話に出る。電話口で話を聞いている間、25歳の僕はただ黙って、何を話ても声が上擦る僕の様子を眺めていた。
 それは何かを諦めている者の表情。
 それは何かを求めている者の表情。
 それは何かを提出するための表情。
 それを僕は見る。
 そして、耳元で鳴る編集者の声を聞きながら、僕は25歳の僕が本当は何を求めてここへやってきたのかを直感で理解する。
 僕はきっともう、本当に疲れてしまったのだ。僕はきっともう、本当に絶望してしまったのだ。何もかもが中途半端で、何かを掴めそうになったと思ってもそれは全部嘘で、何かが変わりそうになってもそれはフリだけで終わって、少しずつ色んなことを諦めて、少しずつ妥協することを覚えて、少しずつ執着が薄れることに恐怖して。たまに誰かに話かけても無視されて。たまに何かを想っても次の日には忘れて。たまに祈ったところでそれはどこにも届かなくて。
 だから、きっと、もう、いいや、と思ってしまったのだ。
 夢の裏は地獄と地獄と地獄なのだ。
 
 25歳の僕は17歳の僕に殺されたがっている。

 夜が明けて、朝になった。
 僕はいつも通り学校に行く。25歳の僕はあの後結局、おめでとう、とも、ざまあみろ、とも、ご愁傷様、とも、何も云わなかった。ただ、黙って、僕を眺めるだけだった。不愉快な視線に晒されながら、僕も同じく誰にも何も云わず、そのまま眠った。
 自転車を漕ぐ。まだ少しひんやりした空気が僕の顔面を直撃する。痛い、と思った。
 いつものように学校へ行って寝て起きて、で、また寝て。そんなふうに、ほとんど気絶している間に僕の一日は終わる。これまでも、そして、これからも、きっと、ずっと。
 いつもの最悪な気分で家に帰ると、25歳の僕が倒れていた。
 さぁ、刺してくれと云わんばかりに胸を大きく開いて、僕は僕のベッドの上に倒れていた。
 微かに、寝息が聞こえる。
 僕はこうやって、生きているはずの時間すら殺していくのだ。
 東京行かせろ。
 そう、切に願っている。願っていた。だけど、東京に行ったところで僕に突きつけられる答えはNOで、着弾点をわざと外されたような気分になってしまった僕は困惑したのだろう。
 僕は25歳の僕の胸を突き刺す代わりに、作為的に大きく広げられたその手足を、物置に放置されていた縄で丁寧にベッドに縛り付けていく。
 動けないように。
 しっかりと、きっちりと。
 僕は僕の仕事を果たす。
 最後に残った右腕を縛り終えるのと、25歳の僕が目を覚ますのは同時だった。
 25歳の僕は、自分が置かれた状況をゆっくり把握し、そして、ようやく安心したように笑い、云った。
「……今まで、ありがとうございました」
「違う」
「え?」
 僕は動けない25歳の僕の左腕を掴み、こちらも物置にあったノコギリの刃先をその付け根の部分にあてがった。
「このノコギリ、覚えてるか。中学生くらいだったかな。僕が本棚がほしいってあまりにもうるさいから、何処かから調達してきた木材を使って、お父さんが本棚を作ってくれたんだ。その時のノコギリだ」
 25歳の僕はしばらく何事かを思い返そうと励んで、しかし、結局、残念そうに首を横に振るだけだった。
 それを引き金に、僕はノコギリを握る腕に力を込める。
 ぎぃぃぃぃいいいいいと、25歳の僕の歪んだ叫びが部屋中に響き渡る。しまった、こんなことなら口にガムテープでもしておけばよかった、と僕は軽く後悔した。
「ま、まって、せめて、せめて……麻酔とか、いちごちゃんは麻酔、してくれたぞ……。ネットで簡単に買えるから……!ていうか、ほんとに、……ぎぃぃぃぃぃぃぃぃ」
 僕は僕の言葉を待たずに、ノコギリを上下にギコギコと揺らす。僕は熱中している。熱中する僕の口から、自然と言葉が吐いて出る。
「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫……」
 ぎぃういいいいいいいいいいい……。
 25歳の僕の苦痛に歪んだ表情を僕は見る。舌がだらしなく垂れ、右目が光を失い、左は白目をむいている。まぶたはピクピクと痙攣し、鼻の穴は生きるため空気を吸い込もうと必死に開閉を繰り返している。耳が真っ赤で猿みたいだ。
 異臭がする。見ると、25歳の僕の股間が濡れ、湯気を立てていた。
 僕は思う。
 僕に足りないのはきっと絶望だったのだ。
 どこかで必死さが足りなかったのだ。自分は切実であると勘違いしてしまっていたのだ。
 なら、もっとひどいところまで堕ちればいい。
 四肢を失い、もうこれ以上は悪くならないというところまでたどり着いて、そこからまた始めればいいのだ。なぜなら、絶望して、絶望して絶望しきった後には、もう希望しか残されていないのだから。
 だから、きっと、大丈夫なのだ。
 僕は間違っていない。
「大丈夫大丈夫大丈夫。大丈夫だ……」
 間違いっていない僕は、まるで何かに取り憑かれたようにずっとその言葉を口ずさみ続ける。
 悲鳴は止まない。

いとうくんのお洋服代になります。