アイドルタイムいとぶろ④
2020年5月6日(水)晴れ、滅入る。
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目が覚める。目を擦ろうとして、手足が痺れて動かない……のではなく、存在しないことに気づく。左手も右手も左足も右足も、僕は全てを失い、眠っていたのだ。どれだけ経ったのだろう?時計を求めて視線を彷徨わせるが、それらしきものはどこにも見当たらない。僕の部屋だ。まさか、デジタル機器全盛期のこの時代に、アナログ時計を本気で必要とする日がやってくるとは。迂闊だった。手足を失い一人取り残されることになるだなんて、全く予想もしていなかった。
時刻の確認を諦めて、僕は改めてあたりを見回す。失ったはずの手足はどこにも見当たらない。かつて手足があった場所からはゆっくりと血が流れ続けている。赤い。鉄の腐った臭いが充満していた。
いや、それよりも、
僕の手足を切断した張本人の姿がない。
いちごちゃん。
名探偵。
無謬の存在。
唯一無二の指針。
僕はこれからどうすればいいのだろう?
頭の中は相変わらず真っ白で、ここにきても未だに僕はいちごちゃんの次のアクションを待ち続けている。うす暗い。血液と一緒に身体から体温が抜けていくのを感じる。寒かった。凍えそうだった。
「おお、こりゃ大惨事だな」
聞き慣れない声がして視線をあげると、どこから入ってきたのか2メートルはあろうかという大男が僕を見下ろすように立っていた。
「まあ、はい」
大男の隣にいるのは僕だった。
僕?
「あの、」
誰ですか?と口を動かして、動かそうとしてはじめて、僕は僕の声量がひどくヨレ、掠れていることに驚く。
「あ?なんて?」
大男が訊き返す。
「誰ですか、と云ってるんだと思いますよ、僕は」
「よく聞き取れたな」
「いや、想像ですけど」
僕はなんとか首を立てに振って、肯定の意を示した。
「当たってるみたいだな」
「ですね」
と、僕が満足したように笑う。大男が「やっぱ自分のことは自分が一番よくわかるんだな」と感心するが、しかし二人とも僕の質問に回答する気はないようだった。
もう一度声をあげようとして腹に力を込めた途端、咽せた。咳き込むたび、喉の奥から真っ赤な血液が飛び出る。血を流してばかりだ、僕は、と情けなくなった。
いちごちゃんはどこだろう?いちごちゃんがいないと僕は何もできないのだ。いちごちゃんがいないと僕は何も決められないのだ。もう声をあげることもできないのだ。
「そうか」
大男が納得したようにつぶやく。
「あんた、ここで死ぬんだな」
「はい。手足を切られて、死にます」
僕が云う。
そうか、と僕は思う。
僕はここで死ぬのだ。手足を切られて、ゆっくりと死んでいくのだ。
僕たちこれからどんどん酷い目にあうんだぞ。
いちごちゃんの言葉が頭をよぎる。
その通りだった。そして、酷さには必ず底があり、僕はようやく、その底に到達したのだ。いつか、奈津川三郎が到達した絶望の淵に、僕もようやくたどり着いたのだ。しかし、僕は奈津川三郎のようにこの場所に希望を見出すことはできそうにない。とにかく寒いのだ。失ったはずの手足が痺れて、僕の思考をこれでもかと邪魔するのだ。
ここには希望などない。
あるのはただ、もういいや、という諦めだけだ。
もう踊ることのできないただの肉体が転がっているだけだ。
「で、目当てのものはどこだ?」
大男が僕に訊く。
「この部屋にあるんだろ?」
「たぶん」
僕が答える。
おいおい頼りねーな、と文句を垂れながら大男が僕の部屋をガサゴソと探索しはじめる。他人が自分の部屋に存在する、というだけで拒絶反応を起こす僕にとって、大男の蛮行は到底許せるものではなかったが、残念なことに今の僕には大男を止めることはおろか、文句の一つも云う体力すらなかった。
お前がなんとかしろ、と僕は僕に目線を送るが、しかし、さっきから僕は僕と視線をあわせようとしない。僕はただ黙って、大男の動向を見守っていた。
「相変わらず汚い部屋だな、俺には耐えられん」
「うるさいな。この部屋が汚いのは僕のせいじゃないですよ。文句はそこに転がってるやつに云ってください」
それもそうだな、と大男が納得する。空のビール瓶が飛んできた。ビール瓶は僕の頭上すれすれにぶつかり、小さく割れる。殺す気か、と思う。
「あれ、死んだ?」と大男が訊く。
「まだ生きてますよ」と僕が僕のかわりに答える。
「あっそ」
大男がクローゼットを開け、無造作に衣類を放り投げはじめる。スーツやシャツ、コートが宙を舞い、キッチンの上に無様に積み上げられていくのを、ただ眺める。
なぜか僕は泣きそうになる。
「ないぞ」
空っぽになったクローゼットに首だけ突っ込んだ状態で、大男が叫ぶ。
「ほんとにこの部屋にあるのか?」
「たぶん、って云ってるじゃないですか」
「しっかりしろよ。あんた自身のことだろ」
そんなことはわかってますよ、と云い、それからようやく、僕が僕を見下ろす。はじめて視線がまともにぶつかり合う。
「まだ聞こえてる?」
問いかけられる。僕は答えられない。答えたいが、声にならない。ヒューヒューと息が漏れるだけだ。頭がカチカチする。
「僕たちは切断された僕の、つまりお前の手足を探している」
だから、と、声を、
だから、お前たちは誰なんだよ、と、僕は懸命に声に、言葉にしようとする。
僕の意図を汲んだのか、僕はゆっくり頷き、それから、
「僕たちはここより少し先の未来からきた」
と答えた。
未来、とおうむ返しに口を動かす僕のそれはやはり言葉にはならない。
「お前の手足を手に入れるために、未来からきた」
未来はある、と僕は思った。少なくとも、今、ここに。目の前に。
「どこにある?お前は覚えてないか?切断された手足が、一体どこにあるのか」
首を横に振ろうとする、が、満足に首を動かすことが果たしてできたかいまいち自信がなかった。情けなかった。
なんで、と訊きたいのに。
なんで、僕の手足が必要なんだ、と。
いちごちゃん。
いちごちゃんがいれば、きっと全ての解答を与えてくれるはずなのに。
いちごちゃんに会いたかった。
僕の手足を切り取ったいちごちゃん。
決して間違えることのなかったいちごちゃん。
才能に満ち溢れ、輝かしい価値を恥じることなくまっすぐ発揮させていたいちごちゃん。
「……何も知らないか」
僕が、諦めたように顔をあげる。
「あんたは何にも知らないんだな、今も、昔も」
大男が呆れた様子でクローゼットから顔を出した。うるさいな、と僕は返すが、僕が大男の言葉に正しさを感じていることが僕にはわかる。そうだ。僕は何も知らないのだ。ずっと、何も知らないように生きてきたのだ。色々なことを曖昧にしたまま、ただ、疲れないように、衝突しないように、ひたすら消極的に生きてきたのだ。
「そういうのってほんとに情けないぜ。あんたがそのことを自覚してるかは知らないけど」
だから、大男の云うことはきっと正しい。
「ロフトの上、見てこいよ」大男が、頭上を指さす。
「僕がですか?」
「当たり前だろ、あんたも少しは動け。イライラするんだよ、指示待ちでぼーっと突っ立ってるだけのやつ見てると」
僕は云われるがまま、ロフトへ伸びる階段を登っていく。ガシャンガシャンと、階段の軋む音が部屋中に響く。
大男はロフトへ登る僕ではなく、手足を失い肉のカタマリと成り果てた僕を見つめる。
切実に。
「あんたのブログ、読んでるよ」
大男が云う。
何か云い返したくて口を開いて、でも僕はここで一体何を云うべきなのかわからなかった。結局僕はただ曖昧に口をあけたまま、大男の言葉を待つことしかできない。
「応援してるんだ、あんたのことは、本当に。あんたはきっと信じないだろうけど」
頭上から、あっ、と声が聞こえてくる。
「ありましたよ、僕の手足」
「よし、持って降りてこい」
「云われなくても……」
ロフトの上から降りてきた僕の腕の中には、たしかに僕の手足が4本、きちんと収まっていた。うす汚れた、でもまだ血が通ったように生き生きとした僕の大事な大事な手足。
「あんたはさ、ちゃんと考えるべきだよ」
大男が僕の右腕を持ち上げ、ぶらぶらと眺めながら云う。
「考えて、考えて考えて考えて、それで、あんたがそうだと思ったならそうすべきだったんだ。名探偵は間違えない、なんて、そんな一般的でつまらない思想なんて放っておけばよかったんだ。そりゃ、たしかに名探偵は間違えないよ。でも、正しいわけじゃない。正しさってのはもっと相対的なもので、だから、誰かがこう、と云ってそれで全部決まってしまうようなものじゃないんだ。正しさってのは、一人一人の、こうあってほしい、という祈りなんだよ」
だから、今度はちゃんとあんたが考えろ、と、大男が僕の右腕を使って僕を指差す。距離感を見誤ったのか、僕の右腕はそのまま僕の額をぺちりと叩きつける。
「いたい……」
「そりゃいたいさ」
僕が額を抑える。僕が目を瞑る。僕が何かを考えている、と僕は思った。僕の、足りない脳内で、それでも僕は何かを考えようとしている。なぜだかとても羨ましかった。失ったはずの手足がビリビリと痺れた。無性に眠たかった。血液が流れすぎた。どれだけ時間が経ったのだろう?僕は死ぬし、死んだし、今も死んでいるのだ。
ここは暗い。そして寒い。
身体が勝手に震える。
頭皮がきゅう、と萎んで、頭蓋骨をキリキリと締め付ける。鼻の奥から脳汁の臭いが抜けていく。呼吸をするのがつらい。はぁ、はぁ、と生きるために酸素を吸い込もうと胸が勝手に膨らんでは萎んでを繰り返す。だけどちっとも僕の肺は満たされない。苦しい。苦しくなっていくばかりだ。一体いつになったら僕は幸せになれるんだろう?
まったく思い通りにならない肉体。
唯一、まだ自由に動かすことのできる眼球を、僕は必死に僕自身へと注ぐ。未来の僕へと。切実に。誠実に。
やがて、僕が顔をあげる。
「僕はまだいちごちゃんが大阪へ向かった理由を書いてない」
僕と大男をまっすぐ見つめ、そして、
「僕が主役です」
宣言する。
迷いはない。
覚悟した者の目だ。
決断した者の声だ。
考えて、考えて考えて考えて、自分で決めた者の言葉だ。
眩しい、と僕は思った。
そうか、と大男が云った。
それから、大男は僕のほうへ振り返って「よかったな。あんたはここで死ぬけど、あんたはちゃんと自分で決めたんだ。未来はある。あんたがそう祈れば、それがあんたの正しいことになるんだ」と笑った。
僕はそれを見る。
✳︎
誰かがいるような気がした。
枕元に誰かがいる。
ぼんやりとした意識で、僕は目を瞑ったまま、その誰かの気配を感じている。
それはとてもあたたかいものだ。
それは言葉を喋ることができる。
「死ぬのか、お前」
僕はその声を聞くために、耳を澄ませている。耳に意識を集中させている。身体に体温はもうほとんどなく、意識は常に曖昧だった。枕元に感じる誰かの気配が、かろうじて僕の意識を繋ぎ止めていた。
「このまま、死んじゃうのか」
たしかに聞き覚えのある、懐かしいその声を、しかし僕は誰のものなのか思い出すことができない。
「俺はさ、これでも結構感謝してるんだぜ。伝わってないかもしれないけど。ほんとに嬉しかったんだ。俺に居場所をくれて。虹も吐けないような俺なんかに」
声を聞いている。
ずっと聞いてきた声だ。いつも僕のそばにいた言葉だ。
ずっと。
いつも。
「楽しかったんだ」
それが、今、僕の頭上から降り注ぐ。
「俺は充分もらったよ」
それでも、
未来はなかった。
夢は叶わなかった。
価値を稼ぐとはどういうことなのだろう?
何をもってして魂は価値を獲得するのだろう?
僕は未だに何も答えられていない。
「だから、今度は俺が与える番だ」
あたたかな、
口内に苦い味が広がるのを、僕は感じた。その何かは喉を通って、僕の体内へと侵入してくる。
「お前の夢を俺に見せてくれ」
踊り出すんだ、今すぐに、と。
声が聞こえている。
その声はひどく掠れていて、僕は今以上に耳を澄ませようとする。
そして、暗転。
✳︎
踊り出せよ、今すぐにな、と五十嵐が云った。
もちろんだと僕は答える。僕の腕のなかには僕の手足が4本ある。うす汚れた、でもまだ血が通ったように生き生きとした僕の大事な大事な手足。
準備は整った。
今すぐ踊り出さなくてはいけないのだ、僕は。
奪われたもの全部奪い返すために、僕は大阪へと向かった。
いとうくんのお洋服代になります。