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和歌山県串本で「蘆雪の犬」に会ってきた。

今年の8月の末のことである。東京での仕事を綱渡りのように終わらせて羽田から飛行機に乗って、和歌山県の南の果て、南紀まで来た。ちょうど夕まぐれ。眼の前に濃紺の太平洋が広がり、オレンジの光が水平線を突き刺す。もとい、和歌山だけにみかん色の光が水平線を突き刺している。およそ2ヶ月後に放送する美術番組のためのロケハンで、同番組のディレクターと一緒に和歌山まで来た。ディレクターの案内でホテルに到着したのは、夜の帳がすっかり落ちきった頃だった。

濃紺の海にみかん色の夕日が突き刺す、何期の夕まぐれ

夕飯を食べてからそのまま翌日の打ち合わせをしたのち、午後10時頃、ホテルの露天風呂へと向かった。風呂場には誰もいない。ちょうど無人のタイミング。位置的に考えると目の前には大海原が広がっているはずだが、なぜか無音。波の音さえ聞こえない。真っ暗闇の向こうに無音の海。時おり沖合がオレンジ色に明滅する。雷鳴も雨音も風音もないが、沖合に雷が落ちてるらしいことだけはわかる。ハリウッドの特撮技術みたいな雲が、時々遠くに見える。でも、音はない。ただただ静か。とっても静かな、そして不思議な夜の露天風呂だった。

ホテルのビュッフェ夕食で食べた、小丼の和歌山ラーメン
翌朝の太平洋はとっても穏やか

翌朝は、朝食も食べずにディレクターの車で、さっさとホテルを後にした。現地に向かいながら朝ごはん。ロケハンも兼ねて「とれとれ市場」なる巨大施設へ。地元の堅田漁協がやってる海鮮のテーマパークみたいな施設。それが、地元の幹線道路を走ってると、山間部を切り開いた巨大な空間に突然現れる。あとで地図を確認したら、眼の前に見えてた低い丘のすぐ向こうに海と堅田漁協があったらしい。この巨大施設で朝ごはんを食べた。もちろん、海鮮なヤツ。

とにかくデカい、とれとれ市場
蘇鉄が見える、南国風情の無量寺境内

そのまま東に向かって30kmほど走ると、和歌山の最南端、串本に出る。まずは、今回のメインディッシュへ。「蘆雪寺」の別名でも知られる、紀州串本・無量寺へ。虎関禅師が開いた、臨済宗東福寺派の別格寺院。境内に大きな蘇鉄が生えている、独特の南国感がある古刹。門を入る手前、左手のあたりにコンクリート製の<収蔵庫>がある。ここには、襖絵「龍図」「虎図」など、もともと本堂にあった円山応挙や長沢蘆雪の作品が収蔵されている。代わりに本堂には、そうした襖絵のレプリカが本来オリジナルが置いてあったと同じ場所に設置されている。さらに、境内にある<串本応挙蘆雪館>を名乗る建物には、二人の作家の他、白隠や若冲らの作品が展示されている。

町並みの中に突然現れる、無量寺収蔵庫

ところでなぜ、この和歌山最南端のこのお寺に、円山応挙や長沢蘆雪の作品があるのか?由来は1707(宝永4)年の宝永地震に遡る。この地震による大津波で全壊・流失した無量寺が、およそ70年後の1786(天明6)年にようやく悲願の再建を果たしたことを機に、臨済宗白隠和尚のお弟子さんで禅僧・愚海和尚が、当時京都で飛ぶ鳥を落とす勢いの人気絵師・円山応挙に襖絵を依頼。応挙はこれに応えて襖絵12枚を描いたが残りは弟子の蘆雪に任せ、彼を南紀へと向かわせた。

そして蘆雪は南紀へと向かった。

この結果、現在の無量寺には、応挙の襖絵とともに、芦雪が当地に来て描いたたくさんの襖絵が残っている。その代表作が「龍図」と「虎図」である。なお、それまでは応挙の優秀な弟子に過ぎなかった蘆雪だが、南紀に来た途端、生まれ変わった。それまでの師匠譲りの緻密な画風から、凄まじい勢いと生命力溢れる新しい画風へと蘆雪は突然進化した。

蘆雪は南紀の地に都合半年ほどいたが、その間に、この無量寺以外にもこの地に数百の作品を残した。しかも、その絵は京都時代と画風とすっかり変わっていた。蘆雪はこの南紀の地で、完全に覚醒した。このあたり、それぞれ場所は違うが、ゴーギャンとかゴッホにも似た地政学的なドラマを感じる。

さて、「龍図」と「虎図」である。これはもう傑作である。現物を見れば、この作品がいまだ国宝になっていないことに驚く。それほどのパワーとテクニックに溢れている。まず「龍図」。凄まじい高速の筆さばきが瞬間冷却されたような、つまり、たった今、凄まじい勢いで描きあげられたような筆致のままその絵は完成している。筆のかすれっぷりや、墨のしたたりっぷりが本当に乱暴に、だけど完全なる精度で描かれている。風音や雷鳴まで聞こえそうな激しさを表現しながら、この作品にはどこか楽しささえある。ポイントは龍の瞳。その方形の瞳が、鳥山明誕生の240年ほど前の作品とは思えない輝きと楽しさを放っている。そう、のちに浮世絵に続いて世界に羽ばたいた漫画キャラクターの原点がここにあるかのような、ポップで力強い方形の瞳がここにある。

その真正面に「虎図」がいる。江戸時代までの日本画家の虎の絵はある意味、「実物の虎を一度も見たことがないけど、実物の猫と虎の毛皮なら見たことある画家が、虎なる生き物を想像で描いてみた選手権」の様相を呈しているのだが、実際この絵もその一枚である。これらの絵の共通点は、猫のしなやかさと虎の獰猛なイメージの間で揺れる葛藤に満ちていることだが、蘆雪の「虎図」はそこから一歩、おかしな方向に踏み出している。

もっとも特徴的なのは、まるでふぐりのように、あるいは、ハートマークのように膨張したその頭部である。まるで、虎の皮をかぶった猫が激しく跳躍した結果、虎の頭部の皮だけが風圧で伸び切ったような、あり得ない一瞬を切り取っている。そのせいで虎の耳がどこに行ったかわからない。とにかく、不思議すぎる生き物の頭部がそこにある。しかもその四肢は激しく動きながらも、重力的にはどこにも向かっていない。飛びかかっているようで、静止した不思議な虎である。

さらに、四肢の動きだけじゃなく、その表情も大きな矛盾をはらんでいる。威嚇するような鋭角に飛び散った髭とは対象的に、その瞳は丸く大きく見開かれており、勇ましさとともにどこか愛嬌が感じられる。真っ白な口元もまるまるとしてどこか愛らしい。そう、すべてのベクトルが矛盾だらけにはじけているこの虎は、もしかすると200年ほど早すぎたキュビズムにさえ見える。そして、楽しい矛盾がいっぱい詰まったこの虎は、真正面にいる龍と同様、複合的な魅力が詰まった「キャラクター」に見えてしまう。そんな2つの魅力的なキャラクターが対面するこの収蔵庫にいると、ある種のテーマパークにいるような気分になる。

この収蔵庫には、この2枚の他にもいくつかの印象的な作品がある。「虎図」の裏側には、「薔薇図襖」がある。これは、本来本堂の中でも「虎図」の真裏に描かれている8面の襖絵である。向かって左側には乾ききったタッチの薔薇と鶏が二羽、向かって右側には池の周りに猫が三匹いる。迫力も可愛げもない静かな絵面だが、このうち、猫の一匹が有名である。池の中の魚を狙っている。で、この狙われた魚目線で見ると、真裏にある「虎図」の虎に見える。これは蘆雪の遊び心である、と言われている。実際、言われてみるとそんな気もする。が、よく見ると、この猫と「虎図」の虎、似ているようにも見えるが、前足の置き方がぜんぜん違う。後ろ足はわりと正確だし、尻尾も強調された図と言われればわからなくはない。やっぱり前足だけ気にかかる。あと、逆に言うと、この「実はね」という逸話がなければ、「薔薇図襖」という名前のわりには、それほどワクワクしない襖絵ではある。

一方、「龍図」の真裏にある「唐子遊図」には、いきなり私はワクワクした。寺子屋の子供たちが好き勝手に遊び呆けている姿が、もともと好きだったというのもあるが、現地でこれを見ていて、あることに気づいていきなりワクワクした。この襖絵は8面もので、しかも全体的に筆線が細いため、図書で小さな図版に焼かれると、ディテールがよく見えない。が、現場でオリジナルを見ると、そのあたりがよくわかる。そして、この襖絵の左端にいる犬たちが途端に気になった。まず最初に驚いたのは、8匹ほど子犬がいるのだが、これらは間抜けさが前面に出た、いわゆる「蘆雪の犬」系の子犬なのである。これまで聞いた話だと南紀に来るまで蘆雪は「蘆雪の犬」系の子犬は描いていない。しかも、蘆雪がこの南紀に来て最初に襖絵を描いたのは無量寺だと聞いている。ということは、この眼の前にいる子犬たちが、蘆雪が「蘆雪の犬」系の子犬を描いた最初の子犬なのではないか?

さらに私はもうひとつの発見に驚いていた。8匹ほどいる子犬たちの中に、「蘆雪の犬」ではなく、蘆雪が南紀に来るまでコピーしていた師匠・「応挙の犬」と「蘆雪の犬」の混合タイプが混じっている!ということは、この襖絵を書きながら蘆雪は、だんだんと「応挙の犬」から「蘆雪の犬」を生み出していったのではないか?と思った。勝手に思い込んだ。のちに、番組にも出演してくださった府中市美術館学芸員の金子信久さんによると、この襖絵の中には「応挙の犬」と「蘆雪の犬」の両方がいて、この襖絵を描きながら蘆雪は「蘆雪の犬」を生み出していったのではないか?と仰っていた。微妙な違いはあるとは言え、なんかちょっと嬉しくなった。

ちなみに、この絵にも「薔薇図襖」的な逸話が残っている。この襖絵のちょうど真ん中あたりに特徴的に置いてある花瓶は、そのデザインとして龍が巻き付いている。これが裏面の「龍図」だというのが、この襖絵の逸話だ。実際、寺子屋の中にはちゃんとお勉強をしてる子なんか一人もいなくて、みんなよそ見ばっかりしているのだが、そのうちの誰かがこの花瓶を見ながら妄想したのが龍図の龍だったというのは、「薔薇図襖」で魚が見た猫が「虎図」だという話とはつりあっている。ま、どっちにしても、この襖絵、左右のバランスも微妙だし、名画の貫禄はこれっぽっちもない、修復が甘いのか墨色もちょっと薄すぎるが、個人的にとっても好きな作品だ。

あと、この建物には、円山応挙の描いた「波上群仙図」がある。本堂に設置されているレプリカ襖だと色が淡すぎるのだが、コチラのオリジナルの墨色はしっかりしている。キャラクターとその配置が面白いが、テーマも地味だし、この寺で開花した蘆雪の「虎図」や「龍図」のパワーにはどうしても負けてしまう。

さて、この収蔵庫にある蘆雪や応挙の襖絵は本来、無量寺の本堂に設置されていたものだ。そこで、現在本堂の方には、これら襖絵のレプリカが設置されている。先程も書いたように応挙の「波上群仙図」などはレプリカの墨色が薄いために、あまり見る価値を感じなかったが、「虎図」や「龍図」のレプリカの出来は悪くない。もちろん、オリジナルとは別物だが、本堂の中で実際にこれら襖絵がどんな風に存在してたのか?どんな狙いで描かれたのかは、この本堂のレプリカを見ることによって再発見できる。とくに「虎図」はデッサンが結構崩れているのだが、本堂の廊下から襖越しに低い位置からこの部屋に入ると、まさに「虎図」を一番インパクトのある画角から楽しむことが出来る。そして、そんなことより何より、仏間を望む本堂のお経を上げる部屋は、左右から「虎図」と「龍図」が睨みを利かしており、めちゃくちゃ楽しい空間である。これはもう間違いない。

そして、この無量寺には、もうひとつ、絶対に忘れてはならない施設がある。「串本応挙芦雪館」という、まあ、簡単に言うと「宝物館」である。ここには、長沢蘆雪、円山応挙、その他の作品がこれでもか!と詰まっている。これは絶対に見逃しちゃいけない。

門をくぐってすぐ右手に串本応挙芦雪館

応挙に関しては、たぶん蘆雪が応挙の名代としてこの寺を訪ねてきた時に持ってきたのかな?という代物が、掛け軸など数点。中でも面白かったのは、「無量寺再建祝三ツ組杯」という杯のセット。杯の一つは中が「応挙の犬」のデザイン。これ、絶対人気があっただろうなと思う。軸絵では、「豊干寒山拾得」の構図が楽しい。

蘆雪に関しては、これはもうすごい作品がゴロゴロある。まず、「布袋、雀、犬図」がたまらない。右から、差し出したお菓子を食べに来た雀、巨大すぎる袋に乗って人形遊びをしている布袋、竹の下で戯れている3匹の子犬。とくに、企んでないおかしさのある布袋の操る人形を、左の子犬1匹と右の雀1羽が楽しそうに見ちゃってる、という構図が楽しい。竹に犬はいわゆる「w」である。巨大な背中越しの虎を描いた「酔虎図」は昔から大好き。酔っ払ってヤバい表情になっちゃってる虎を適度な距離感から観察してる面白さ。画面からはみ出しまくってる「鱈図」もいろんな展覧会で気に入ってた作品。はみ出し方のトリミングが最高な上、目と口で鱈にとんでもない顔つきをさせちゃってる。七等身か、下手をすると八等身はありそうな「寒山拾得図」も面白い。二人に、アンガールズ的な抜け方をさせちゃってる斬新さ。他にも「牡丹雀図」「揚柳観音図」なども楽しい。

でもって、なぜここにあるのかは不明だが、若冲まである。デザイン性が抜群で今すぐTシャツにしたい「髑髏図」と「蕪図」はそれほど著名な作品ではないが、とにかく印象的。

さらに、応挙に声をかけた愚海和尚が白隠さんの弟子だったことから、こちらはあって当然でもあるが、白隠慧鶴の作品もいくつか。「大燈国師像」「達磨像」など、白隠感たっぷりだ。

なお、この「串本応挙芦雪館」は、「収蔵庫」とセットで入館料がかかる。一方、「本堂」の方は普段は入ることができず、たまたま条件が揃った時だけ入ることができるそうだ。要相談。この無量寺では、住職のお話なども聞きつつ、作品群をしっかりと見た。心ゆくまで見た。しゃぶりつきたいぐらいに見た。

その後、串本の周辺を回った。今回の番組では、蘆雪が南紀の風景に心が大きく動くことがテーマの一つでもあるので、そんな南国感のある風景を探すためだ。台風でおなじみ潮岬から、BSの番組「魚が食べたい!」の記憶が濃厚な紀伊大島に回ったり、橋杭港から南紀の名物・橋杭岩に回ったりした。橋杭岩の手前の和菓子屋さん「うすかわ饅頭 儀平」に入ったら、蘆雪の落款をあしらった「芦雪もなか」を見つけたり、あと芦雪ゆかりのお寺「円光寺」でお話を伺ったり、ロケ当日に泊まる宿を探したり。

串本鰹茶漬けの店「満口」、美味
潮岬から紀伊大島へと向かう「くしもと大橋」
橋杭港がなんとも味わい深かった
「芦雪もなか」を橋杭岩の前でたべた

夕方、飛行機の時間が迫ってきたので、ディレクターの運転する車で慌てて南紀白浜空港へ。そして、羽田空港へ。短時間だったが、いろんな蘆雪を堪能することができた。そして何より、蘆雪が蘆雪として覚醒した南紀串本の空気をたっぷりと味わうことができた。これが最高の収穫だった。

2023-08-24〜25

夕景の南紀白浜空港にアダムスキー型のUFOが2機(ヒント:窓越しの照明)
橋杭岩の前で

2023/11/19
                               ■■■

追伸:和歌山とは関係ないけど、蘆雪の作品で個人蔵の『菊花子犬図』が展示される山種美術館の『癒やしの日本美術―ほのぼの若冲・なごみの土牛―』(2023年12月2日(土)~2024年2月4日(日))は、必ず行きたいなぁ。



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