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藍色マフィン

「好きですねぇ、ブルーベリー」
「あなたはチョコが好きですねぇ」
「チョコはさぁ、みんな好きでしょ」
「んー、まぁそうか」

 三人息子が立派な髭をぼうぼうに生やしながらチョコマフィンをむさぼる絵面を思い出し、納得する。

 8月の暑い土曜日、夕方。
 コストコから帰宅し、長男と私はせっせとマフィンを冷凍庫へ詰め込む。きゅうきゅうと並ぶ圧巻の姿を眺めながら吐き切る息は、満足の温度をしている。

「なんでいつもブルーベリー?」

 何気なく飛ばされたその問いかけに、私の瞳から熱が徐々に奪われていった。視線は所在無さげに漂って、最後は滲むブルーベリーの上に静かに乗った。

ーーー

 止めどない涙と鼻水を拭いながら、必死に嗚咽を押し込んでいた。
 薄暗い機内の中、灰色のパーカーのフードを深く被って。隣の席は一つ空いていたが、その隣には誰かが座っていた。男だったか女だったかも分からない。後ろにも誰かが座っていた。彼らに気づかれないようにしなくてはと喉の奥を締め続ける。
 両手の中におさまる英字の手紙に目を落とすとみぞおちの辺りが苦しくなる。現実逃避をするかのように小窓の外に顔を向ける。

 どこまでも藍色だった。機体は今、時空を飛び越えようとしている。時空の壁を突っ切って、終わりのないような藍色を突っ切って。
 藍色は駄目だ。いとも簡単に心と一体化する。簡単に彼らの顔を浮かび上がらせる。嗚咽が零れそうになる。無遠慮に私の中に入り込もうとする藍色を、灰色の分厚いフードで拒絶してみる。

ーーー

 叫び声とフライパンを叩く音が家中に響く。夫婦喧嘩が始まると、ラブラドールはよく私の部屋に入り込んできた。そっとドアを閉め、彼の黒い毛並みを撫で続けた。
 パンと肉ばかりの生活で、舌の邪魔になるほどの口内炎が出来たとき、悩んで悩んで「野菜を食べたい」と小さく伝えた。ホストマザーは憤慨し、派手な効果音と共に食べきれないほどのサラダを私の目の前に置いた。全部食べた。
 ホストシスターとマザーが揉めた一週間もあったし、シスターとブラザーが揉めた夜もあったし、同棲中のガールフレンドとブラザーが揉めた日もあった。
 他の家がよく見えて、留学プログラムの説明書を引っ張り出してきてホストチェンジの箇所を何度も読み返したりした。その癖、ハンガリーからの留学生に途中で出ていってもらったのだという彼らの過去に、自分も排除されるのではと怯えたりした。互いの不満や我慢が混ぜ合わさった一年だった。
 8月、白く光る雲を見下ろした16歳は、8月、藍色の海に浮かぶ17歳になっていた。
 神経質で細かい割に、暴れる様にうねるホストマザーの癖字を指で撫ぜる。その四角い便箋のなかには様々な私が入っていた。

 飛行機が嵐で欠航になり、高速バスとタクシーを乗り継いで真夜中に玄関の扉を叩いた私、ハグしようにもシャイで固まってばかりだった私、MTVばかり観ていた私、朝方まで辞書を引き続けた戦う私、友達とビーチやモールに忙しい私、女子サッカー部と陸上部で走り回る私、海を挟んだ恋を大切に守り抜いた私、11年生なのに英語力不十分で9年生に入れられた私、最後は12年生のクラスで成績優秀の賞状をもらった私、力強いハグをするようになった私、そして、毎朝ブルーベリーマフィンを欠かさなかった私。

 最後、彼女の文章は、まるで実の母と同じ体温を灯してこう言った。
「旅の途中でお腹が空いたら食べるのよ」

 渡された袋を開ける。こんもりと膨らみ、ずっしりと重いブルーベリーマフィンが3つ。
1つそっと取り出して、涙が混じった藍色の太平洋の上で頬張った。つい今朝、キッチンカウンターで食べた味だった。もう戻れないほど遠くまで来てしまっていた。泣きながらブルーベリーマフィンを食べ続ける若い旅人を、誰も凝視したりしなかった。
 
ーーー

 ピー、ピー、ピーーー。

 冷蔵庫のドアアラームで目が醒めた。慌てて冷凍室のドアを閉める。隣に居たはずの長男は、弟たちに呼ばれたかいつの間にか子供部屋へ行ってしまったようだ。賑やかな声が聴こえている。
 さて、と立ち上がろうとして、もう一度冷凍室を開けた。こんもりと大きなブルーベリーマフィンに、そっと手を添える。深い藍色の点々が滲んでいるのを少しの間眺めていた。 

やっぱり、1つ食べようかな。

ずっしり詰まったそれを手に取ると、私は立ち上がった。



こちらの企画に寄せて。

ヒトミさんの言葉は大きく温かいだけでなく、深く響きます。私自身、これまで何度もヒトミさんの言葉に揺り動かされました。この企画にも、共鳴するように温かい物語がたくさん集まっています。

いつかお腹いっぱい食べてみたい、ヒトミさんのいちまいごはん。素敵な企画をいつもありがとうございます。


 

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!