土台
『若気の至り』という言葉がある。
なんて無鉄砲で無責任な言葉だろうか。この言葉を好きかどうか、この概念を許すか許さないかは別にして、『若気の至り』とは、人生に欠くことのできない過程だと考えている。
『若さ』とはまるで未熟なトマトのように青い。熟していない実は、太陽をも跳ね返すほどに固く締まっている。青い実は自在に動き、恋をしたり友人と出会ったりする。そして体当たりでぶつかったり派手に転けたりする。傷ができたり潰れて変形したりする。ちょっと汁や種も出ちゃうかもしれない。しばらくは痛々しく滴っているかもしれない。
けれどそのうちまた立ち上がって転がり始める。まるで痛みなど最初からなかったかのように。残ってしまった傷跡など気にならないかのように。青い実は若くて速くてタフなのだ。
真っ先に欲望が迸り、体が遅れて付いて来る。振り回される肉体は、欲望を傍観するほど大人じゃない。なだめすかすほど成熟してない。肉体は謂わば欲望の思うがまま。二人は絶好のパートナーだ。
大きな声では言えないことも色々としてきた。時効とか、恥はかき捨てとか、そんな言葉で片付けられたらラクだろう。しかし思い出すたびに細い針で執拗に突かれる思いがするのは、そこにいつも『誰か』がいたからだ。
十年、二十年経った今でも、欲望のままに、誰かにもたれかかったり振り回したり傷つけたりしたことを後悔している。
思い返せばあの頃、誰かが私の若さの犠牲になっていたし、私も誰かの若さの犠牲になっていた。噴き出す感情や欲望が、私や彼や彼女の体を突き抜けてぐるぐると循環していた。
思い出す。
後先考えずに太平洋を渡ったこと、ニューヨークでカツラを被ってオペラに行ったこと、未成年の冷蔵庫にはいつもお酒が入っていたこと、女子会で特定の配達員を呼びたいがためにピザを注文したこと、友人の失恋にそれぞれの思いを重ねて皆で泣きながら歌ったこと、貪るように恋をしたこと、歪な三角形をそれぞれの熱量で保っていたこと。
そこにはいつも誰かがいた。笑い合った、傷つけ合った、求め合った、誰かがいた。
浅はかだった。馬鹿げていた。不安定だった。揺れ動いていた。止められなかった。濁流のようだった。そんな日々を、青い体で、青い心で全力で駆け抜けた。
あの滅茶苦茶な日々が、今の私を支えている気がするのだから本当に私は頭がおかしい。滅茶苦茶で混沌とした日々が、土台となって私を支えている気がするのだから。
ちゃんと青くてちゃんと馬鹿でちゃんと酷かったあの頃が、今、なんとか真っ直ぐ立とうとする私の両足を支えている気がしてならないのだから。
ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!