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畳縁 #冒頭3行選手権の続き


 へばり付いた睫毛と目尻の隙間から延びる一本線が、朝日に照らされている。涙というのは軽やかに零れたりせず、ただただ染み出していくものだと知った。
 奥深くまで体液に冒された畳縁は、あたしをこんなにも満たしてゆくーー。

 付き合った男(ひと)は五人だ。忘れられない男は一人。二番目の男だった。そのあと三人付き合ったがどれも駄目だった。いや、厳密には最後の男とはまだ完全に切れていない。一応は彼の彼女だが、まっさらなあたしに戻るのはもう時間の問題だろう。
 この人も駄目だったか、と虚ろな眼が呟く。何が駄目だったのか、その原因はあたし自身にある。

 体を重ねられなくなるのだ。初めはいい。初めはいつもいい。炎はちゃんと立ち上がり、ちゃんと燃える。しかし、いつしかそれはどんなに木を焚べようと扇ごうと、うんともすんとも言わなくなるのだ。男たちは燻り続ける。あたしの中の炎は既に灰と化し、どう足掻こうと元には戻らないというのに。
 好きだとか大切だとか、そんな気持ちを持っていることが何より重要な筈なのに、男たちは体を重ねることでそれを証明しろという。そして証明できないあたしを欠陥品でも見るかのように見やるのだ。
 そんな目をされても困る。何が困るって、自問しても自問しても、粘膜を許せなくなった理由が、私自身突き止められなかったことである。故にあたしを責めてほしくはなかったのだが、それならば男たちの燻りは一体どこにやればよいといのだろう。結局あたしがゴミでも回収するかようにそれらを巻き取る形で別れてきた。
 曇天のような湿った溜息が出る。
 
ーーー

 智成は違った。炎が、あたしの中の炎が、途絶えることなく揺らめき続けた唯一の男だった。
 特別な男なんかではなかった。初めての男でもないし、故に初めての特別感もなかった。見た目だってそんなに良くなかった。とはいえ、あたしだってどこにでもいる普通のOLだ。人のことは言えない。
 彼は穏やかで、でも喧嘩をするととても頑固だった。おばあちゃん子だという智成は、目をかけられずに育った世間知らずのあたしが聞いたこともない常識を、事ある毎に披露した。例えば、夜に笛を吹くと泥棒が来るとか、体の真ん中の無駄毛は抜いちゃいけないとか、畳の縁は踏んではいけないとか。言い聞かせようとする真面目な顔に、あたしはいつも吹き出した。根拠の無い迷信を、疑うことなく信じ続ける姿が滑稽でいじらしかったのだ。

 二年後、あたしには他の男が密かにくっついていた。
 智成は頑固だ。喧嘩をすると鉛のような無言が始まる。いくら話しかけようと、メールや電話をしようとそれは解けない。彼のアパートの玄関前で凍えながら立ち尽くす夜も、彼はドアを開けなかった。
 あたしの目移りなどバレでもしたら彼の一生から締め出されると思っていたのに、彼の部屋で口走った一言で全てが明るみになった夜、彼はあたしを放らなかった。彼は決断したというよりも、諦めたようだった。あたしを共有すると言った。根拠のない迷信すら破れずに生きてきた常識的な彼が、初めて選んだ非常識だった。
   
 いつか観たドキュメンタリー番組を思い出す。
「旦那さんの不倫、奥さん本当に納得してるんですか?」
インタビュアーは、“夫の不倫公認”という夫婦に向かって訝しげだった。画面右上には、「新しい夫婦のカタチ」と白い文字が光っている。
 綻びを目ざとく見つけ出し、一瞬の隙を見てその縒れ出た糸を引っ張ってやろうとするような物言いが気に入らない。しかし、あたし自身、どんなに彼らの「当たり前」をそのままに受け止めようとしても、その糸の端がこのささくれ立った心に引っ掛かるのだった。
 二人がどんな事を言おうとも、もっともらしく正当化しようとしているように思える。とりすました表情すら、何かの上塗りに見えてしまう。それはべつに彼らの問題ではない。私が、彼らの中に、あの頃のあたしたちを見ていたのだ。
 あたしたちは破滅した。三人でなんとか回していた日々は長くは続かなかったのだ。智成は壊れ、浮気相手は潰れ、あたしだけが残った。


 二十一だった。それが今や二十九だ。そして智成の命が三十一で尽きたことを昨日知った。

「若いと進行早いって、あれ本当なんだね」
二人になったり三人になったり一人になったりと、目まぐるしく移ろいだあの恋を側で見続けてきた友人はそう零した。だみ声や金切り声が飛び交う安い居酒屋で、か細いナムルと一緒に智成を反芻する。彼は、数年前から別の女性と付き合っていたのだそうだ。社内恋愛でとても穏やかなカップルだったらしい。結婚の話もでていたのでは、と友人は付け加えた。

 駄目。
 あたしは自分の腹に念じた。あぁ駄目よ、ともう一度強く念じる。
 ぐるぐると渦を巻きながら一気に膨れ上がる炎。社内恋愛、と聞いた瞬間に発火したそれは、あたしを内蔵から焼き尽くしていく。

 愕然とした。もう亡き男に欲情している。今、とても彼を奪いたかった。
 あの頃、智成の眉間の皺や重たい溜息を目にする度、あたしの炎は勢いを増した。彼の常識をぶち壊した満足感か、それを彼にさせたという優越感か、苦しみながらも縋り続ける彼への同情心か。智成は私をよく燃やした。そして亡くなった今ですら、天地がひっくり返るような衝撃のなか躍り出た職場の女で私の炎を扇いでいる。

 やはり彼だけだった。私に燃料を焚べられるのは彼だけだった。ナムルの皿がいつの間にか空だった。いつしか私の周りには甘美な煙が立ち込めていた。

ーーー

 鼻腔に充満するアルコールの匂いでさらに酔いが回る気がする。玄関にハイヒールが散らばり、廊下の壁にバッグがぶつかる。半ば体当するようにドアを開け、狭いキッチンで水切りかごの中のグラスを取る。水道水を一気に腹の底まで流し込む。炎はびくともしない。真っ赤に燃え盛っている。空になったグラスをシンクに放る。派手な音。割れたかもしれない。よろめきながら振り返り歩く。テーブルの縁に思い切り脛がぶつかる。もう何年も置きっぱなしの風化したそれに、家具店で吟味する智成の横顔が重なる。鋭い痛みの中を突き進む。開けっ放しの引き戸レールの僅かな段差に足を取られた。は、と間抜け声が出て、次の瞬間畳の上に全身が打ち付けられた。腹や鼻や脛の痛みが激しく脈打つなかで、呼吸が徐々に乱れていく。うつ伏せのまま、何とか顔だけを左側にずらした。左目の目頭から結露のように垂れ落ちて右目の上を滑っていくのは、涙だった。


ーー畳縁。

 左手の指が固い布地をなぞる。漆黒の線は指の下から延びてきて、ちょうど右目の下を通過していた。私の体から滲み出た涙がその線にじわじわと染み込んでいく。

「畳の縁は踏んじゃ駄目だよ」
懐かしい声。
「なんでって。とにかく駄目なの」
呆れたような。
「おい笑うな」
君の声。

 汚したかった。愛にまみれて育った君のことも、守られ続ける神聖な畳の縁も。
 完全に壊したと思っていた君がその奥底から湧き上がる愛情で復活し、別の誰かと愛を育んでいた。どこまでいっても無垢な君。無垢なままで遠くへ飛び立った君は、今夜なおさら真白に光っている。
 潔いほど真っ直ぐな畳縁の奥の奥まで私の体液で汚したら、やっと立ち上がれそうな気がした。やっと腹が空いて、自分の足で立ち上がれそうな気がした。


ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!