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みぞおち

「……。」

私は一人、テレビの前で突っ立っていた。
画面の中には、真剣な眼差しの奥に轟々と炎を燃やした男性が真っ直ぐに立って、真っ直ぐに話していた。向けられたマイクにではなく、質問を投げかけてくる記者達にではなく、カメラのレンズの向こうに向けて。画面の向こうのこちらに向けて。

ガタタンッ。
電車が急に揺れて目が覚めた。いつの間にか眠っていたようだ。目を力なく開けたまま。虚ろな夢をみていたようだ。
西日が目にしみて、くっと下を向く。
なんで今頃あの場面を、あの人の眼を思い出したんだろう。
電車はゆっくりホームに滑り込んでいく。
きつい西日が陰に乗っ取られていく。

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その人は突然、全てを失った。
妻と、幼い娘を殺された。
捕まった犯人は10代の少年だった。
ひとり残された夫は、スーツを着て、鋭い眼光を放っていた。あれは裁判後の取材だったのかもしれない。
虐待を受けた幼少期─。それが少年の犯行理由の一つだと伝えられ、確か彼はこのような言葉を放った。

「虐待を受けて育った方の中でも、努力して真っ当に生きている方々はたくさんいらっしゃいます。」

真っ当な一言だった。

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私の日常生活からずっと遠く遥か彼方で起こったこの事件が、なぜか私のこの胸に残っている。
私とは無関係のような彼のあの言葉が、なぜかずっと残っている。
そう、会社帰りの西日のきつい電車に揺られてふと思い出したりするくらいには。

琴線に触れる、という言葉がある。
私の心の中の琴線に、誰かの言葉がそっと触れてそれを振動させ、私の中に音を鳴らす。
はっと目を覚ました感覚になる。
じんわりと涙が滲み出すこともある。

しかし彼のあの発言を聞いたとき、私はこの胸の中に琴線どころか太い縄が存在していることに気づかされた。
私の心につながれた太い縄をぐわんと引っ張られたような衝撃があった。まるで、こっちを向けよと言わんばかりの強い力で。
その感覚が一体なんだったのか、探ろうとしたことが幾度かあった。あったけれど、やめたのだった。
途方もない旅のような気がして、もう、とっくの昔に、やめたのだった。

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生成り色のカーテンがふわぁっと膨らみ、しゅしゅるとしぼむ。暖かく爽やかな初夏の風に吹かれながら、高校3年生の私の目は虚ろだった。シャーペンは長い間、ノートに突っ伏している。教師の声はただ流れている。何もかもがゆっくりとしているのは、これが昼下がりの午後だからだろうか。
脳の中の時間軸は、自然にゆっくりと幼少期へと移ろいでいく。

5人家族だったが、4人だった。
母と子供3人。
父は東京に出稼ぎをしており、年に2回、盆正月だけは私達の住む青森の家に帰省した。
それがたまらなく嬉しくて、たまらなく悲しかった。
幼い私の心の拠り所は父だけで、年に数日の帰省はまさに逢瀬だった。何日も前から興奮して指折り数え、共に居られる時は至福の喜びで、父が東京へ戻る際には何日もひれ伏して泣いた。

物静かな私が父親の前でのみ愛にまみれた顔をするのは、母からしてみれば面白くなかったと思う。自分にそこまで懐かない娘との間にはどうしても距離が生まれただろうし、そんなことよりも、母は末っ子の弟に夢中でべったりだった。
弟は私と違って天真爛漫で可愛らしく、上手に甘えられたのだから、当然のことである。
母と弟の笑い声が染み込んだ布団に入ろうとした私に、あなたはあっちでしょうと言った母の目を覚えている。
父を思う涙が染み込んだ一人きりの布団の冷たさを、よく覚えている。

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太ももに振動が伝わり、はっとした。シャーペンを持つ指がぴくっと反射して、ノートに不格好な線が短く走った。
静かな教室内に漏れないように、さっと制服のスカートを手の平で抑える。
ウー、ウー、2回。
カレシからのメール。

このメールを開くのは一体いつになるだろう。鐘がなったら、だろうか。それともずっとあと、昼休憩の辺りだろうか。
以前は授業中だろうがすぐさまポッケから取り出して、教師の目を気にしながら机の下で開けていたケータイを、そのままにするようになったのは、いつからだろうか。
少し経つとまたそれは、ウー、ウー、と2回振動し、私はそれもそのままにした。

私はこの人をもう好きではなくなったのだろうか。
あんなに燃え盛っていた火は、どこに消えたんだろうか。
燃え続けられなかったのは私のせいだろうか。

その時、すっと線が一本につながった、気がした。
横暴な恋愛ばかりを重ねる自分と、あの布団の冷たさがつながった、気がした。
父の影を埋められずに、今も欲しているのだと気づいた。
だからこんな私なのだと気づいた。
男の人に与えてもらうことだけを渇望する、こんな私なのだと気づいた、気がした。

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相手には特段なにも望まない。
顔だって背だって声だって、特になにも望まない。
ただ、私と真逆であれば良かった。

親の愛を知っている人が良かった。
愛情をたっぷりと注がれて育った人は、他人を疑ったり試したりなどしない人間に成るらしく、それが私の幼稚な部分の幼稚な欲望を掻き立てた。
私はそんな人の愛や情を幼子のようにごくごくと飲み干した。底をつく頃には、彼はもうぼろぼろの状態になっていた。

そしたら次に移れば良かった。
一人が終わればまた一人。
一人で足りなきゃもう一人。
ぼろぼろになりながらもなお、まとわりつこうとする人を置き去りにして、私の足は軽やかに次へと移りゆく。

当たり前のように去ろうとした時だった。
呼び止められて振り返ると、その人はみぞおちを押さえていた。
痛そうに歪む表情に、ごめんね、とだけ言って、彼の手の甲にそっと、自分の手の平を重ねた。
彼はさらに痛そうにしくしく泣いた。
人間のこころは、みぞおちにあるのかも知れないと気づいたのはその時だった。

あれは恋愛だったのだろうか。
そう信じて疑わずにいたが、今思い返すと、あれはちっとも恋愛ではない。
恋愛の姿をした、暴行や殺人だったのかもしれない。


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どんな境遇だろうと、どんな過去を持とうと、どんな傷を抱えていようと、努力して真っ当に生きている人はたくさんいる。

あの日のテレビの画面、眼の奥の温度に、ただの一言も出てこなかった。

両手を広げて絶えず与えてくれたあの笑みが、虚ろな目で無視し続けたケータイの振動が、みぞおちを覆う手の甲の弱々しさが、
身勝手に飛び回り続けたこの体に重くのしかかる。

十字架を背負うとはこういうことなのだろうか。
肩が重い。胸が苦しい。いや、ここが、みぞおちが、痛い。

この痛みを感じながら、私は生きていくのだろう。
気休めだと言われようと、真似事だと言われようと、私は私なりに、この痛みと共に生きていく。

あの頃の身勝手な私自身に、呪いのように付きまとわれながら、
乱雑に傷つけた人達の痛みを、このみぞおちに埋め込んで生きていく。

もうそれくらいしか、私に出来ることは無い気がしている。

      
定期券を改札でかざす。
明るいだけで中身の無いような、寂しい電子音に見送られながら、歩き続ける。

一歩、駅から出る瞬間に、きつい西日に襲われた。
思わず閉じたまぶたの裏に、朱色だけが強く光った。
目にしみる眩い痛みの中で、柔らかなみぞおちがしこりと化していくのを感じた。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!