小さくつくるほうが楽しい

小商い塾の群馬県2カ所目を立ち上げられないかという提案を受けて、伊勢崎市での説明会をさせてもらってきた。11名の方が参加してくれて、あっという間に2時間ぶわーっと話をして、そのあとご飯を食べて質疑応答をして合計4時間があっという間に過ぎていった。ほんとに、なんにも疲れない。

頭が回転しすぎるからこそ、自分がそのまま口に出せるっていうこと自体はほぼ快感と言えるのではないかと思う。なにかを意識して話すというよりもただ、その空気に合わせ、反応に対して、いま必要な情報を察知し、自分の中にある情報を引き出しからサッと取り出して、そのまま言葉にしていく。


コンテンポラリーダンスという分野にはとても興味があるが、それは自分の特性にとても合っているような気がするからだ。計画することはなく、ただいま感じたことをそのまま動きにして表現とすること。運が良ければ、それもまた美しいという印象を誰かが感じてくれるかもしれないが、知らない。

本当に大事なことは、自分がしたいようにして、それが誰の評価も気にすることなく満たされるまで活動し続け、エネルギーを使いつくせること。

本当に幸せなことは、そうした活動がたまたま、求めている人に刺さって、場所を用意してもらって、そこで踊って、食い扶持となっていくこと。


仮にそうなることがあり得るとしても、まずは恥ずかしくてそれをなかなか実践することはできないし、少しは動き出せたとしても、そんなことは生活をまともに続けることを優先しようとすれば、怖くて続けられない。

そうだというのに、それをもし続けたいとすれば、僕は「小さくやる」ってことがいちばん現実的な方法じゃないかと思っている。そして、ひたすら地道に心地よく続けて、やめることなく生涯をかけて続けていくってこと。

そこで偶然だれかの目に留まって、「あれ、なんかいいぞ?」って思う人たちがすこしずつ増えて、いつのまにかじんわりと数が増えていったりして、いつかなんか無視できないくらいの大きさになって、それが自分の気持ちを支えてくれたり、自分の生活を支えてくれることになるかもしれない。

いつかそれを周りの人が見たとき、「いいなあ、すごいラッキーだよね」と言うかもしれないが、確かに間違いなくラッキーなことだ。ただ努力なしにラッキーを手に入れたのではなくて、勇気も必要だったし、ひたむきさも、粘り強さも必要だったけど、それを続けた先にラッキーな環境が生まれる。


なんかドーンと成果を出す人を見るとすげえな、と思うけど、そんな風にはできる気がしないし、ドーンと上がってドーンと下がることを恐れるような臆病な自分には、「あ、ども、先月はじめてました」くらいの感じで始めてから、「なんかうっかり5年経ちました、へへへ」って続けていって、そのうち「なんか続けておくもんですねえ、10年やっていると色々ありますね」なんて言えるようになって、自分の心と生活を支えてくれるものをしたい。

で、そういうものを個々人が持っている状態を実現したいから、長く続けることができることに向き合えるようにしたい。うっかり過ごしている時間のなかでちょっとだけ意識を傾けて、ちょっとだけ他のことよりも優先して、ちょっとだけ他の人よりも詳しくなって、ちょっとだけ他の人がしないことを年に数回でもいいからやってみて、いい経験したなって毎年積み上げる。


長い関係性を保つのが苦手なんじゃないかと思ったことがあった。それは、法人の営業担当の時に著しく担当変更されるケースが多かったからだ。いろいろと理由はあったが、ちょっとした折り返しをうっかりと忘れてしまっていたり、言葉に配慮がないなど、ADHDっぽさと空気の読めなさだろうか、なんかもうそういうことがあるたびに、自分の情けなさに直面させられた。

いまでこそ、なんかいろいろとたくさんのことを、よくごっちゃにならずにやられてますねーなんて言われるが、ごっちゃになってないわけでもなく、ただごっちゃになってしまってダブルブッキングとかしたり、すっぽかしたりしてしまっても、「そういうところもあるけど、いいところもあるから」って思ってくれて一緒にやってくれる人たちとだけやれているだけだ。

上手にお客さんとやりとりできる、いわゆるまともな社会人になってみたいと思っていたが、ハッキリ言ってそれは実現したためしはないと思う。いまみたいな生き方がうらやましいという人もいるが、僕はこれしかできなかっただけで、もっとうまくやれて、いらない欲を持たずにひたむきに毎日を過ごせたとしたら、まったくそれがいいよなあって思う。できないんだから。


だけど最近になって、貫いていた生き方の中に、再びご縁が戻ってくるようなこともあって、とても嬉しくなってたりもする。

そしてまともな社会人をやりたいけどできないころに比べれば、もう開き直ってしまって、こんなやつですけど、よかったらお願いしますねーって生きている中で関わってくれる人たちとの付き合いは、相手のしょーもないところをもちろん引き受けるぶん、自分のしょーもなさをなるべく見てもらい、それで関われるようにしていってるから、なんだか無理がなく続いている。


得意じゃない関係性を長く続けることはできないけれど、自分にとって無理がない人間関係を続けることはできるかもしれないと、最近すこし思えてきたような気がする。メリットデメリットだけをお互いに求める付き合いは、僕はもうあんまりやりたいと思わないし、僕はそういうのでは迷惑をかける気がするので、ほかの人とやってくださいねーっていう気持ちになる。

そうじゃなく、ただもともとあった性質そのままで本当は生きていたいんだよねーっていう気持ちでいる人たちを、本人が心地よくいられる場所でぜひ生きていってもらえるように支えていけたらいいなと思うし、そういう正直な気持ちを通わせあえた人たちとは一生にわたって関われていくと思う。


いつも一緒にいないとどうしようもない関係ではないけど、大事なときには力になって支えられる距離にいて、普段はそれなりにそれぞれで生きてる。そんな関係がお互いの寂しさと孤独をゆるやかにやわらげ、不安なときにもふとその弱さを受け止められるような、そんな感じの関わりを続けたい。

小さいところから始めて、ゆっくりと関係性をつくるなら、そういうことが続けていける気がしている。自分に対する自分のイメージも変わってきた。


いろんなことを小さく始めるのは早く、いろんなことに手を出すから、すぐ飽きているように見えてもそうじゃないんじゃないかと思う。常に小さく、それが続けられるものなのかつくって試し、育つものを見つけようとする。

そんなことをやっているんじゃないのかという気がしてきた。そして、それはけっこう得意なことだし、それを一緒につくるためのサポートをすることも得意なんじゃないのかと思えてきた。


ノートもまあまあ続いているしな。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。