決意表明ではないが、たとえ駄文しか書けんのだとしても、駄文しか書かんと書いてみただけであら不思議。「なんかそうした意図があってこの人は駄文を書いているのだろうか」と思わせそうな雰囲気があって趣深い。いや、正しくは趣深いと言ってみたかっただけ。

タイトルってつくづく重要なのだなと思う。今日この駄文を見て、誰かが釣られてしまっただろうか。釣られてしまった人には申し訳ない気持ちもあるけれど、駄文しか書かんと言っているのだから、その人が仮に「ほんまにこの人・・・駄文やん」ってなったとしても、こっちが申し訳ない気持ちになる必要があるだろうか、いや、ない(反語)。

だって駄文だと書いてあるのに、趣深いのかもしれないと思って釣られてしまった人にとって、「本当に駄文なのかな、本当は違うのかな」と思って、見に来てみたら「え、本当に駄文じゃん。え。」ってなったとしても、それって仕方が無いんじゃないか。例えば、ホルモン専門店だと書いてあるのに「でも、ホルモン専門っつったって、ちょっとくらいあるでしょ、肉も?」と思って、本当にホルモン以外置いてなかったとして、「え、本当にホルモン以外ないの?」って客が怒ったら、「いや専門店って書いてますやん」ってお店側もちょっと強く言える気がする。お店は間違ってない。

ただ、その店がリピートされるかは別ではあるが。

・・・あ、そうか。

「駄文しか書かん」と言って、本当に駄文しか書かんことがきちんと分かってしまったら、明確に「うん、あいつは本当に駄文しか書かんよな。うん、ぼくは知ってる。」と思って、もう二度と見に来なくなるってことなのだ。

つまり、駄文しか書かんと書いてはみたものの、本当に駄文を書いたとしたら読者は「ですよね」っつって去っていくのだな。

さようなら。中身ある記事をお求めの、眼の肥えた読者の皆様。

でも、気が向いたらまた明日も駄文を見に来てください。(未練)

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。