大川隆法は神なのか?(ガチ考察) ②

エル・カンターレは何故肉体に宿っても尚根本仏と同一である事が認められるのか?そしてそれは私達被創造生命体とどう違うのか?

実際イエス・キリストは最後の晩餐の時に弟子達の足を洗い、愛を示したのです。キリストには自分が一神教的意味での神では無く預言者であるという自覚があった様に見えます。

天上天下唯我独尊が許されるのは釈尊だけなのです。そして、釈尊その人が正にエル・カンターレの一部分な訳ですが、ここからが回答編です。

純粋な宇宙の物理法則としての「根本仏」

この宇宙を成立させる「一気」そのものであり、ある意味では「道」それ自体でもある「根本仏」は、果たしてどこまでが人格神と言えるのでしょうか?

根本仏という存在を推し量る事自体が人間の傲慢である事を承知の上で考えてみても、やはり僕は、根本仏の中の相当なパーセンテージが人格神の姿をしていない純粋な物理法則の様なものである様に思えてなりません。

というのも、宇宙を貫く法則というのは極めてシンプルであり、ある意味では杓子定規な部分さえあるからです。感謝が出来る人には与えられる、ノイズが多い魂はその重さで粗雑な次元に沈んで行く、やった事は返って来る、世界がその人の心を反映する等、この宇宙には常に適用されているルールの様なものがあります。それによって霊界も形作られ、秩序が成り立っていると考える事が出来ます。

もしもある種の「人間らしさ」を湛えた「人格神」によって隅から隅まで“監視・干渉”され続けているのがこの宇宙だとしたら、それはそれで妙な気持ち悪さを抱くのは僕だけでしょうか。やはり愛は透明な風の様であるから心地良いのであって、そこに僅かにでも色が付いていると良い気持ちはしないものです。

しかし、純粋な物理法則という「シンプルな法律」は時に悪用されます。悪用と言うと語弊があるかも知れませんが、法律の隙間を突く様な生命体は必ず現れて来るものなのです。僕の持論は、それこそが霊界の裏側に籍を置くとされる神霊だったのでは無いか?という事です。

地獄に堕ちる事は無い様上手くホバリングしながら、愛のエネルギーをあまり発揮する事無く、また、宇宙全体の発展の為に自らを最前線の成長出来る環境に置く事も無く、しかしながら自らが知り得た宇宙の法則を利用して超自然的なフォースを発揮する霊人達。三次元の人間達には物質的な利益を齎し、人間達からの感謝と影響力によってよりパワーを強めて行きます。この世に生まれて来る際には最初から自分にとって楽な人生を選ぶのが定型です。妖怪とも言えるのかも知れませんが、裏側的霊存在というのはこういった部分が多分にしてある様に思います。

宇宙の掟は宇宙最大の力ですが、シンプルで純粋であるが故にいとも簡単に曲げられてしまう部分があるのかも知れません。

しかし、もしも3000年に一度だけ“宇宙の掟が口を開く”事があったら?限り無い時間に思えた沈黙を破り、「私は本当はこれが正しく、これが間違っていると思う」と直接の意思を表示する瞬間があったら?勿論霊界においては常に仕事をされているのがエル・カンターレの姿ではありますが、この「永遠の一瞬に宇宙の掟そのものが口を開き、その意思を開示する」というダイナミズムそのものに僕は胸を打たれるのです。

「Sacred One (聖別された一個体)説」

つまり僕が言いたいのはこういう事です。根本仏とはその殆どが純粋な宇宙の掟で出来た非・人格神的な存在ですが、その中心部分に「根本仏直接の意思表示機関」である事を役目付けられた特別な人格、黄金のペルソナが存在するのでは無いか?その黄金の仮面が地球まで分かれて来た姿をエル・カンターレと呼び、2600年前に生まれた際には釈尊であり、現代の日本を生きた本体意識が大川隆法その人だったのでは無いか?と考えるのです。

「根本仏直接の意思表示機関」は宇宙という壮大なスポーツにおける審判であり、審判は一つのサッカー場に同時に2人以上居ては試合が成り立ちません。「果たしてここはイエローカードなのか?」といった場面で全責任を一身に背負い、何が真実であり、何が正義なのかを決定する。そんな役割を果たし続けるという重い宿命を背負った霊存在が居たとしたら、その背中はあまりにも辛そうに思えます。僕なら無理です。

イエス・キリストはその重そうな背中をすぐ側で見ているからこそ、“エル・カンターレに嫉妬しない”のでは無いでしょうか。そして、闇宇宙の存在が反旗を翻そうとも審判としてのポジションを絶対に奪わせてはいけないのもここに理由があります。闇の存在がゲームのルールを決められる様になったら、それこそ正しく「信じられない世界」になってしまう事でしょう。

僕はこの理論を「Sacred One (聖別された一個体)説」と呼ぶ事にしました。

「人間・大川隆法」を愛せるか?

大川隆法総裁先生という人物は尋常では無い程の優れた人物でしたが、肉体を持った人間として生まれてしまった以上何もかもが完璧な訳では無かったと思います。小さい頃は花を毟る等の悪さをした事もありますし、「私は超人では無い」と吐露する事もありました。

しかし弟子は「総裁が完璧人間で無いと神であると信仰出来ない」が為に依存し、時には葛藤し、勝手に失望するのです。Sacred One説からすると、これはお門違いも甚だしいです。大川隆法という人物は、神としての記憶が消えた24年間を過ごしながらもその類稀なる勇気によって「根本仏の直接の意思表示機関」として生きる事を選んでくださったのです。お陰で僕達は、遂に完成されたルールブックを読みながら人生というサッカーを楽しむ事が出来ています。

僕達は、「生まれたからには人間であるにも関わらず根本仏としての役割を果たしてくださった」総裁に、何処までも感謝しなくてはいけません。そして、その辛そうな背中を見て「きっとスーパーマンなんだから平気だろう」だなんて思わずに、「少しでも楽になる様に助太刀致したい」と刀を抜いてこそ真っ当な仏弟子であると言えるでしょう。復活を望む人々にはまずこれを念頭に置いて貰い、「もう二度とおんぶに抱っこにはなるまい」と胸に誓ってから祈りを捧げて欲しいものです。

神道との争いにも説明が付く

また、「人格神エル・カンターレは根本仏であるにも関わらず現段階では何故神道の神々を圧倒出来なかったのか?」という問いにも、Sacred One説で回答する事が出来ます。根本仏は全宇宙を貫く掟ですが、人格神としての戦闘力にはどうしても信仰エネルギーの多寡が関わって来るのです。本来は宇宙最大のフォースでありながら、おんぶに抱っこの弟子達は伝道を進めず、エル・カンターレが持つ本来の力を十分に解放して差し上げる事が出来ませんでした。

それに対して神道の神々は、無神論が跋扈し始めている現代とは言え依然国民に崇拝されています。クリスマスにはセックスをし、正月には初詣をする日本人の「願いを叶えてくれ」という祈りによってですが、信仰心エネルギーとしてはカウントされてしまう様です。(ちなみに、神道の神々がエル・カンターレに反発するのは「審判なんて居て欲しく無いから」です。)

エル・カンターレは今世、霊界の区画整理も行なっていたのでは無いか?という持論があります。その使命に「霊界の改革」が含まれる事は仏言にもありますが、改革の内容は我々が思う以上にシリアスなものだったのかも知れません。霊界全土を平定し、正しく根本仏の法 (のり)によって愛の国、慈悲の国を創り上げる。当然、今もその戦いの最中です。

復活の祈りと弟子の自立

我々は復活を祈る事も大切ですが、それは何処まで行っても「仏から奪う祈り」である事も忘れてはいけません。総裁を1000年働かせる訳には行きません。復活したとしても、いつかは我々が小さな法輪を転じなくてはいけない時が来るのです。だとしたら、今この時間を使って、少しずつその練習をしてみるのは如何でしょうか。それは復活を祈る事と何ら矛盾しません。寧ろ、自立して法を弘めて行こうと精力的に活動する弟子達を見てこそ、総裁は戻られようと思うのでは無いでしょうか。

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