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生理の貧困と「性」

直方バプテストキリスト教会で「フリーナプキンプロジェクト」を始めて間もなく一年になります。
きっかけは「生理の貧困」という事柄を知ったことでした。生活の苦しさのために生理の時、生理用品の交換の頻度を下げたり生理用品を使わなかったりという方が多くおられるという事実。生活保護受給率の高い筑豊地区でもきっと見えないところでこの「生理の貧困」に苦しむ人はいるだろう、という事でこの取り組みを始めました。
このプロジェクトを始め、生理用品を教会で購入し、設置し、生理についての知識を得ようとしました。そして生理について知れば知るほどお金がかかる事柄だと知らされました。生理痛の時の痛み止め購入費、生理の時に身につける物の購入、重い人なら婦人科にかかられるその医療費、その他。決して、生理用品を設置してOKというものではない事も知りました。生理を経験したことのない私がどれだけ無知であったかを知らされました。そして、その無知が生理の貧困を生み出している事を感じました。今、ほぼ全ての公共施設のトイレにはトイレットペーパーが設置されています。しかし、生理用品が設置されている事は稀です。どうしてか?それは全ての人に必要ではない物だからです。そして、「全ての人に必要ないから置かない」と考えるのは、私のように生理で辛い思いや突然の生理に困った経験がない人です。だから、私はこの「生理の貧困」は「女性差別」の問題であり、(私を含めた)男が悪いのだ、と思いました。
でも、更に取り組みを続け考えてゆく中で、話はそれほど単純な問題ではない、という事に気付きました。女性=生理のある人、男性=生理のない人、とは言えないからです。勿論、年齢による体の変化という事もありますが、それ以上に考えなくてはならないのは、出生時に割り当てられた性と自覚する性が一致しない人たちの事です。生理のある男性もおられるのです。それなのに「生理の貧困は女性の問題ではなく男性の問題だ!」と声高に言ってしまったら、そのような方はどこにも立場が無くなってしまう、そう思ったのです。その時から私は「生理の貧困」の問題に「男性」「女性」という言葉を使うのをやめました。
「男性優位社会からの脱却して女性にスポットを当てる」とか「男性と女性は人数的に同じなのだから同等、同数であるべきだ」いうのではいつまでも二元論から自由になれません。ただ力関係、数の問題でしかないのです。大事なのは、そういう力関係や数の問題からの脱却です。そして弱さに目を向ける、少数者に心を向ける、それが必要なのであり、それが出来て初めて多様性を重んじる社会となるのだろうと思います。
「生理の貧困」についても同じです。生理のある人はマイノリティと言っても良いのではないか、と思います。今、生理のある人の割合は平均寿命から考えても高齢化社会から考えても総人口の四分の一にも満たないでしょうから。でも、そのマイノリティが当たり前に生きられる社会となるという意味で全ての公共施設に生理用品が置かれるというが事が大切なのではないか、と思っています。
これからも私たちの教会の取り組みは続きます。生理があるという事で苦しむ人が少しでも減るように。

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