2022年01月09日 直方バプテストキリスト教会礼拝メッセージ「お大事に。これからも一緒に抱えてゆきましょうね。」
聖書:マルコによる福音書2章13-17節
先週の礼拝のメッセージの最後にこんなことをお話ししました。
「イエス様に従うということの本質が、一切を捨てるということではなく、土台を変えるということだと分ります。今までは仕事、家族を中心に据えていたけれど、そのもっと深いところに中心を支えるものとして信仰があるのです。例えば、自分の家の畳を替える、もしくはフローリングの上に絨毯を敷くとします。そうしたらその部屋の家財道具、タンスとか、本棚とか、テレビ台とか、一度その部屋からどかさなくてはなりません。そして新しいものをそこに据えたらまたその上にタンスや本棚をまた置きます。それと同じです。土台を据え直すために、一度上に乗っているものを別の場所に置き、土台を据え直してその上にまた置く、そういう事です。それがイエス様に従うということです。別に捨てる必要はありません。新しい土台の上に生きるのです。新しい土台、それが共におられるイエス様です。このイエス様の伴いによって新しい生き方をするのです。」
こう言いましたら、「もっと早く聞きたかった。イエス様を信じる事って全てを捨てる事なんだろうか。それなら私は出来ない。そう思っていました」って言われた方がおられました。そう聞いて、良かったな、って思いました。これまで以上に自由になることが出来たのだな、って思いました。これからです。これから自由に信じて行ったら良いのです。
こんな事を思いながら、今日の聖書の箇所を読んでおりまして、一つ私の中に疑問が生まれました。収税所で座っていたレビもそうだったのではないか、イエス様が「わたしに従いなさい」と言われ、立ち上がってついていったレビも徴税人を辞めていなかったのではないか、という疑問を持ちました。その前に少し徴税人について説明しますと、徴税人というのは、イスラエルを支配していたローマがイスラエルからお金を取り立てるために通行税を設定し、そこを通った者から税金を受け取る仕事をする人です。この取り立てられたお金はローマに入るお金ですが、この仕事をするのはイスラエル人でした。それは怒りの矛先を変えるためでした。「ローマ憎し!」という感情を「この裏切り者!仲間のくせに!」という感情へすり替えるのです。聖書の中で徴税人は悪い者、嫌われ者とされていたのはそのせいです。イスラエルとローマの板挟み、罪人、嫌われ者、そんな彼はどこにも行き場も逃げ場もなかったのです。
レビもそうでした。そしてこのレビはイエス様から招かれて、本当に徴税人を辞めたのか、と思い、そして二つの理由からレビは辞めていなかったと思っています。一つはレビが十二弟子の一人となっていない、ということです。先週の聖書の箇所には「四人の漁師を弟子にする」というところがありました。その四人の名前はそれぞれ「シモン」「アンデレ」「ヤコブ」「ヨハネ」です。この四人は3章でイエス様が選んだ十二人の弟子の中に名前があります。ところが、今日の聖書の箇所の「レビ」の名前はこの十二人の中にはありません。もう一つはレビの家での食事の席について書かれている事柄。15節に「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである」とあります。ここには徴税人がいた事が書かれています。そしてその書き方は「徴税人だった人」とか「元徴税人」という書き方をしていません。それはつまりそこにいたのは現役の徴税人達だったということになります。そしてイエス様はそれを知っていて、そのまま従う事を許されたのです。それは、変わらなくても、今のまま従っても良い、という事です。お話ししたように信仰とは土台を変えるということであり、自分の部屋に新しくカーペットを敷くようなものです。ただ、新しいカーペットにしたら、部屋も少しずつコーディネイトしたくなるものです。それは強いるものではなく、自らその違和感に家具を変えよう、とかもっとシンプルにしようとか、そんな風に自分で思うだろうと思います。それが新しい生き方です。でも、すぐに変えることなんて出来ないし、これは変えることが出来ない、と思うものもあると思うのです。イエス様に従ったから、これまでの徴税人の仕事を辞めよう、って簡単に出来ませんよ。家族がいればなおさらです。私達ってそういうところで悩むんじゃないでしょうか。クリスチャンとしてこんな生き方が出したいのにいろんなしがらみで出来ない。「なりたい自分になれない」って。でも、大丈夫です。イエス様はこう言われています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」これは、そういう私達に語られている言葉なのではないでしょうか。「病人」つまり病気の人です。病気には様々なものがあります。急性や一過性の通り過ぎる病もありますし、慢性の抱えて行かなくてはならない病もあります。
私の妹は看護師をしているのですが、以前妹とこんな話をしたことがあります。それは私が高血圧だという話をしていたときのことです。私が「高血圧だけど、薬を飲み始めたら一生飲まなくてはいけないから飲みたくないんだよね」というと「じゃあお兄ちゃん、薬を飲まずに血管が破裂して突然死ぬのと、薬を飲んで安定した血圧で生きているのとどっちがいいの?」と言われました。思い切りの正論に「生きる方を選びます。高血圧と付き合って生きます」って答えるしかありませんでした。私が高血圧を受け入れた瞬間でした。生きて行くためには一生上手に付き合ってゆかなくてはならない病というものもあるのです。
伝道者パウロもそうでした。パウロも身体に何らかの病を抱えていたと言われています、そのことについてパウロはコリントの信徒への手紙2の12章でパウロはこう言っています、「離れさせてくださるように、わたしは三度主に願いました」。きっとパウロは「こんな病気がなかったら私はもっともっと伝道が出来るのに、あっちにもこっちにもイエス様の事を伝える事が出来るのに」と思ったのでしょう。それで三度祈ったのです。この三度というのは何度も何度もという意味です。それに対してどうだったか。神様はその病を癒やしてくれたのか。聖書の続きはこうです。「すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
話を戻しましょう。「なりたい私になれない」「理想の自分になれない」「また罪を犯してしまった」そんなことが私達にはあります。新しく敷いたカーペットにあった生活が出来ない、って。でもね、イエス様はそんな私達をそのまま食卓に招いて下さるのです。おいで、そのままでいいから。一緒に食事をしよう、って。それは慢性の病気を抱えている患者さんに対するお医者さんのようです。「今の調子はどうですか?…そうですか。薬を変えてみますか?それともこのまま様子を見ますか?わかりました。じゃあ、お大事に。これからも一緒に抱えてゆきましょうね」って言ってくれる、伴ってくれる、一緒に抱えてくれるお医者さん。治すだけがお医者さんの仕事じゃありませんよね。それがイエス様。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」ってそういう事なんじゃないかなぁ。これこそがパウロの言った「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」って事なんじゃないかなぁ。私はそう思います。
そして、この食卓が今日の聖書の箇所の食事の席であり、それが教会の姿なんじゃないかな、って思います。「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。」という姿が教会。この「弟子たち」だって、トンチンカンだし、イエス様が捕まった時には逃げ出した弟子たちです。
ここでもう一つ、考えたいのは、この食卓には徴税人が徴税人のままこの食卓にいて、同時に民衆もそこにいたということです。それはつまり、イエス様の食卓には税金を取る側と取られる側の両者がいたということを指します。その両者がイエス様の食卓で一緒に食事をしている、そういう風景を私は見るのです。
かつてのアメリカの公民権運動、つまりアメリカの黒人の自由と権利を得るための運動の中心にいたマルチン・ルーサー・キング牧師が1963年8月28日に「私には夢がある~I have a dream~」という有名な説教でこんな言葉を語っています。
「私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、兄弟愛のテーブルに仲良く座ることができるようになるという夢が。私には夢がある。今、不正義と抑圧の炎熱に焼かれているミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わるだろうという夢が。私には夢がある。今は小さな私の四人の子供たちが、いつの日か肌の色ではなく内なる人格で評価される国に住めるようになる夢が。私には夢がある。悪意ある人種差別主義者や、『介入』とか『無効化』という言葉で唇をぬらしている州知事がいるアラバマ州でさえ、いつの日か、幼い黒人の少年少女が、幼い白人の少年少女と手に手をとって姉妹兄弟になることができるという夢が。私には今日、夢がある。」
キング牧師は黒人の自由と人権をそのまま「和解」のことがらとして語っています。黒人優位主義になろうとするのではなく、和解すること、一緒に生きることを目的としていることがこのメッセージから分ります。「かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、兄弟愛のテーブルに仲良く座ることができるようになるという夢」という言葉はそのことを表しています。今日の聖書の箇所で言うならば、「徴税人」と「民衆」が一緒に食卓につくということもまたそうであり、キング牧師はイエス様の食卓の風景から夢を描いたのかもしれません。厳密に言えば、徴税人もまたローマから命令されてやっているだけで、個人的に悪意をもってやっている訳ではないでしょう。本当に搾取する人はこの食卓にはいませんし、それどころか律法学者もこのテーブルの外で文句を言っています。だからイエス様の食卓も夢半ばではあります。しかし、イエス様は税金を仕方なく罪の意識を持ちながら取り立てる人と悔しい思いを持ちながら取り立てられる人、そのお互いを食事の席に招いておられる。その食卓にはイエス様がいて、そして弱さや罪に嘆く者の痛みをまるごと抱えて下さっています。そういう食卓。私はそこに教会の姿を見るのです。悲しみや痛みや弱さや罪や病を抱えた者が、お互いの感情を越えて一緒に食卓に着くことができるのが教会だと。それはイエス様が私達のまるごとを抱えて下さっているからです。あなたも招かれ、私も招かれている。教会の間口の大きさ(それは玄関の広さではなく)は、そのまま神様の愛の大きさであり、イエス様が全ての人をまるごと抱えて下さるその姿を表すのです。教会は全ての人に開かれている。この小さな私が、この弱さも、疑いも、不信心も、なりたい自分になれない悲しみも、全部知ってなお招かれているように。主の食卓であるこの礼拝はそんな招きの場なのです。教会はイエス様の夢の続きを託された場なのです。イエス様に従うということはこのイエス様の夢の続きを進む事なのだろうと思います。全てをまるごと包み、一緒に歩まれるイエス様の姿を私達の真ん中に置きながら、イエス様の夢の続きを歩んで参りましょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?