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2022年01月16日 直方バプテストキリスト教会礼拝メッセージ「世界の端っこの中心で愛を叫ぶ」

聖書:マルコによる福音書3章31-35節

皆さんは「エゴサーチ」という言葉を知っていますか。これは特に有名人がすることなのですが、インターネットのニュースやTwitterで自分の事を検索する、「エゴ」自分のことを「サーチする」調べる、でエゴサーチです。芸人さんとかが番組に出た後に自分の評判はどうか、と気にして調べる訳です。「今日の○○は面白かったなぁ」とか書いてあると安心し、「○○は存在感なかったな」「全然面白くなかった」と言う言葉で落ち込む、またそれをバネにして頑張る、「エゴサーチ」を自分の人気の指標としている訳です。周りが自分のことを何て言っているかって気になりますよね。でも、それ以上に気になるのは、家族のこと。自分の子どもが周りからどう言われているか、同僚とうまくやっているかしら、友達はいるだろうか、馬鹿にされてはいないだろうか、そんな風に思うのは親心。そして他の家族、兄弟や姉妹も気になります。そしてよく思われていなかったら、腹が立ったり、恥ずかしかったり、そんなことを思うのは当たり前の話です。
イエス様の家族もそうでした。
「あいつ、気が変になったんじゃねえか?」
イエス様について人々が噂します。
「罪人や病人といつも一緒にいやがる。そんなやつ、俺たちの村の恥だ」
そんな声も聞こえてきます。
「ねえ、マリアさん。イエスさんをあのままにしていて良いの?恥ずかしくないの?」
直接言う人もいます。それできっとイエス様のお母さんと弟や妹たちは家族会議を開いたんでしょう。「ねえ。イエスお兄ちゃんのこと、なんとかしようよ。わたし、恥ずかしくて村を歩けない」「俺だって“お前、イエスの弟だろ?お前も悪魔に取り憑かれているんじゃねえの?”なんて言われて散々だよ」「そうねえ、困ったわねぇ。もう、みんなで取り押さえに行きましょうか!」とマリア。それで、イエス様のところに向かったのですがイエス様の周りにはいつも人だかり。それで近づく事が出来ません。「またにしましょうか」と家族はとぼとぼ帰ります。今日の聖書の箇所の少し前、20-21節にはそんなことが書かれています。今日の聖書の箇所はイエス様の家族の再チャレンジのことが書かれています。今度は、イエス様の家族は一人別の人を連れて行って、群衆の中に入り込んでもらって呼び出すことにしました。「ちょ、ちょっと良いですか?中に入れて下さい。イエス様に急用があります。済みませーん!どいてくださーい!」そうやってとうとうイエス様の側までやって来ました。そこでこの人は言います、「イエスさん、イエスさん。ほら、向こうを見て下さい。あちらにあなたのお母様、弟さん、妹さんがいらっしゃいます。あなたと話したいって言っておられますよ」。そう言いますと、イエス様は言います、「私の母、私の兄弟って誰のことですか?」。そしてイエス様を取り囲む群衆を見渡して「あなたこそご覧なさい。この私の周りにいる人たちを。ここに私の母がいる。わたしの兄弟たちがいるのです。神様の思いを行っている人こそ、わたしの兄弟であり、姉妹であり、そしてお母さんなのです。」これが今日の聖書の箇所です。

よく、親が子どもに言い聞かせるときに「あなたのためなんですよ」なんて言う事、ありますよね。そんな時に、親は自分を真ん中においています。「私にはあなたにとって一番良い事が分っています。社会も常識も将来の道筋も。私の言う事をしておけば間違いはないんです。あなたは幸せになれるのです」ってそう思っているんですね。でも、肝心の子どもの事は分っていなかったりします。子どもが何をしたいか、何に夢中なのか、どうしてしたくないのか。大事なのは自分を真ん中に置く事じゃ無いんです。子どもを真ん中にすることです。目の前の子どもを理解し、子どもに共感することです。命令したら言う事は聞くかもしれません。でも、心の中は不満や疑問がいっぱい。そして自分の人生ではなく親の人生を進む事になってしまいます。

キリスト教の中にPKという言葉があるのをご存じでしょうか?PKというのはpastor’s kidsの略で、つまり牧師の子、ということです。牧師の子には配慮が必要だというのです。どうしてか?それは親が牧師であるということで、キリスト教というレールに生まれながら乗せられ、クリスチャンになることが当然のように期待され、そして周りからも「牧師の子ども」というレッテルを貼られてしまう。そのために本当にしたいことが出来ず、自分の人生を歩めない。それは牧師の子だけではなく、クリスチャンの子、クリスチャン二世、三世、とかも同じです。信じてもいないのにそのレールに乗せられそうになる、信じてもいないのにクリスチャンにさせられる、そういう子もいます。それで耐えられずその枠から大きく出てしまう。自分は信じられないと挫折して離れてしまう。そういう子どもたちもいます。縛られて自分の人生を生きられない、逆にはみ出して大きな挫折感を味わう、自尊心が低くなる、そういう場合もあります。親は親で「わたしの子はまだクリスチャンになっていない」とか「クリスチャンなのに礼拝も出ない」とかプレッシャーとか恥ずかしさとか感じてしまいます。でもね、信仰というものは、家系や家族、一族のものではなく、その人個人のものです。だから、クリスチャンの子、牧師の子が神様を信じていなくても、親の信仰がよくない訳でも、祈りが少ないせいでもないのです。いつ、本当に神様に出会うかなんて誰にも分らないのです。信仰というのは人間業ではなく神業なのです。ただその人の、その子の人生を生きられることを願っていたら良いのです。

なんでこんな話をしたかと言いますと、こういうKPとかクリスチャン二世とかの話って聖書に出てくる律法主義と似ているんじゃないかって思うからなんです。「あなたのためなんですよ」「私にはあなたにとって一番良い事が分っています。社会も常識も将来の道筋も。私の言う事をしておけば間違いはないんです。あなたは幸せになれるのです」「あなたのお父さんもお母さんもクリスチャンなんですよ」という親の言葉やプレッシャーは律法と同じです。「律法をしっかり守ったらあなたは幸せになれます。この律法から離れたらあなたは神様に相応しくありません」「あなたは神様から選ばれたユダヤ人なのですよ」。そのためにユダヤ教社会からどれだけの人がはみ出したことでしょうか。安息日にも休めない仕事や「汚れている」とされた仕事をしている人、失敗や過ちを犯してしまった人、病を負って律法通りに生きられない人、そんな人がどんどんユダヤ教社会からこぼれ落ち、もしくははじき出された。そんな中で罪の思いを抱えながら、挫折感を抱えながらそれでも生きようとしていた人、病や悩みの中でその日その日を何とか暮らしている人、そんな人たちが多くいたのです。ユダヤ教、神殿、律法を真ん中にして、その輪っかの外側にユダヤ世界の端っこに追いやられた人たち。それが福音書に出てくる群衆なのです。そしてイエス様はその群衆の中に入って行き、その人たちと生きようとされます。それを見て周りは「あの男は気が変になっている」というのです。それはそうです。社会の端っこ、隅っこに自分から進んで行って、汚れた人の中に入って生きていたのですから。ユダヤ社会の枠の中にいる人は「ああはなりたくないよな」と思っているその場所に自ら行かれたからです。だから、家族も何とかもう一度そのユダヤ社会の枠に戻すように必死になっていたのです。イエス様の思いも知らずに、社会や自分の価値観を押しつけるように。「私達は家族でしょ?私達のところにもどっておいで!」って。

それに対してイエス様は言われるのです、「家族って何?血筋って何?今、あなたがたが言っているのは人を縛るものでしかないじゃない!」。「家族ってのはね、一緒に生きようとする人たちの事。人を縛るものではなく、その人らしく生きる事を許された仲間じゃないかな?」って言うのです。「だから、わたしにとって家族ってここで悲しみを抱えながら、痛みを抱えながら、挫折感を抱えながらも一生懸命に生きるこの人たちとの交わりなんだよ。そしてさ、神様は律法を守る人だけの神ではなく、生きとし生ける者すべての神様でしょ?だって、神様が命を与えて下さったんだから。その神様の命を一生懸命に生きる者が神様に喜ばれるのは当たり前でしょ?私もそう生きたい。ここに神様から与えて下さった私の家族がいるんだよ。」そうイエス様は言われています。

ここでイエス様は「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われています。ここでイエス様は「兄弟」「姉妹」「母」と言われていますが、「父」とは呼ばれていません。これについて「イエス様の父は神様だけだから」という考え方もあるかもしれません。しかしイエス様が「父」という言葉を発しなかったのには別の意味があったと私は思います。なぜなら当時の社会にとって「父」とは権威の象徴だったからです。父親が家族の中心、男性が社会の中心だったからです。私達の国にもまだまだはびこっている考え方ですよね。男性中心、父親が一家の真ん中って。律法の権威、ユダヤ教の権威、そんな社会の権威からはじき出されたこの人たちを家族とするものをつなぐのは「父」つまり権威ではなく愛なのだということです。だからイエス様はこの本当の家族で父の名を口にしません。そしてこれは同時に、この社会からはじき出され、ユダヤ世界の端っこに追いやられた人たちの中にあって、その人たちに向かってイエス様が「あなたたちは私の家族だぞ!私はお前たちを愛しているぞ!さあ、一緒に生きるぞ!」って叫んでいるのです。世界の端っこの真ん中で愛を叫ぶイエス様の姿がこの箇所には書かれているのです。

家族って愛でつながるんですよね。その人がその人として認められる、一つ一つの命が尊いとされるものそれが家族ですよね。それでいいじゃないですか。クリスチャンであろうとなかろうと。教会につながっているか離れているか。そんなことで神様の愛は変わりはしない。いえ、むしろその外にいて悩んだり、傷ついたり、挫折したり、そんなところにイエス様は「あなたは私の家族だ、愛しているよ」って言って下さるのだから私達は何も心配することはないのです。

九十九匹の羊を野原に置いてでも、迷子になった一匹を探しに行く羊飼いのように、イエス様は失われた、そしてはじき出された命に向かって行かれ、その真ん中で「お前が大事だぞ!愛しているぞ!一緒に生きるぞ!」って言われるのです。

あなたは生きて良いのです。いや「生きろ!」とイエス様は言われています。あなたが生きるためにどこまでも追いかけて、追いつき、あなたの絶望のど真ん中でしつこいくらいに、そして呆れるほどに「お前を愛しているぞ!」って大声で叫んで下さっているのです。生きましょう。

そして今、私達はこの教会にいます。その私達がしなければならない事は、世界の端っこの真ん中で愛を叫ばれているイエス様に近づいていくことです。それは痛んでいる者、悲しんでいる者、罪の重荷を負っている者、病の者、そんな人のところにおられるイエス様に近づき、私達もその人の家族になることです。愛でつながる家族にさせて頂く事です。さあ、行きましょう。祈ります。


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