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2022年02月20日 直方バプテストキリスト教会礼拝メッセージ「信頼できる人、いますか?」

聖書:マルコによる福音書9章14-29節

もう5~6年前のことになります。春か夏か、高校野球のシーズンだったんじゃないかと思います。家におりましたら息子がやって来て、「ねえ、“無欲の勝利”って言うけどさぁ、あれって一回きりだと思わない?」と言って来ました。「どうして?」って聞いたら「だって、人間てさぁ、一回でもうまくいったら欲とか出てきちゃうでしょ?そうなったらもう無欲じゃいられないよね」というのです。「確かに!」と思いました。そしてそれは人間の心の核心をついていると思いました。例えば私はコンビニで売っているアイスのブラックモンブラン(九州の人しか知らないと思うのですが)、あれが好きでたまに買うのですが、あれって当たり付きなんですよね。でも、当たり付きだから買うんじゃなくて単純に美味しいから買うんです。そして食べ終わって、何気なくアイスの棒を見ると100点、つまりもう一本!と書かれている事があるんですね。やったー!もう一本食べられる、と交換しにゆく訳です。でもその時には頭の中で「また当たったりして」とか考えちゃう訳です。また、子どもがテストで100点を取って来たら「やったねぇ!」とだけ言えば良いのに「次も頑張ってね」なんて言っちゃう事ってあるでしょ?人間最初は期待していなくても(つまり欲がなくても)旨く行ったら、次は自分に対しても人に対しても欲が出てしまう、もう無欲ではいられない。甲子園に出て、ただがむしゃらに、もしくはただ楽しく野球をやれたら満足、良い思い出にしよう、なんて思ったのに勝っちゃった。そうなると、次からは自分で自分に、そして周りも自分に期待してしまう、「もしかしたら勝てるかも知れない」とか「勝って欲しい」とか、もう無欲ではいられない訳ですね。人間というものはそういう生き物だとつくづく思います、「無欲の勝利は一度きり」と言った息子の言葉は真実だと思います。

多分、イエス様の弟子たちもそんな経験をしたのだと思います。マルコによる福音書6章12-13節には「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」と書かれています。イエス様から「さあ、行きなさい!」と言われてあっちこっちの村に行って「神様は共におられるよ。大丈夫だよ。信頼して歩みだそう!」って言って人々が元気になり「何、病気?大変だねぇ。」って言ってなでてあげたら「何か痛みがなくなったみたい。よくなったみたい」と言われたということがあったというのです。これはね、第一にお師匠さんのイエス様が「さあ、行きなさい」と押し出してくれた、行けと言われて行き、やれと言われてやった、という事なんですね。責任はイエス様です。だから精一杯出来たのだろうと思います。

一つの事を思い出します。もう20年くらい前ですけど、私は日本バプテスト連盟の青少年専門委員という働きをしていました。毎年夏に全国少年少女大会という、全国のバプテストの教会の中高生が何百人も集まって3泊4日を過すというプログラムの企画と準備、当日の働きをするのが青少年専門委員でした。それで連盟事務所に委員達が集まってバタバタと準備をしていたわけです。その時に、「ちょっと委員の方、皆さん集まって下さい」という声がかかって、みんな集まったら、当時の宣教部長の金子敬という先生がこうあいさつされたんです「皆さん、大変ですね。ご苦労でしょうけれど、責任は全部私が持ちますから頑張って下さい」って。私たち委員にとってはビッグボスです。そのボスから責任を持つって言われて肩の力が抜けて、そして逆に「頑張ろう」って思えたんですね。

「私が責任を持つから」きっとイエス様の弟子たちもそうだったのだと思います。それで一生懸命に歩き回って人々のところで語ったり癒やしたりしていたのでしょう。しかし、最初に「無欲の勝利は一度きり」と言いましたように、人間には「欲」というものが出てくる訳です。弟子たちも、です。「欲」つまり自分が出てくる訳です。弟子たちの心理で言うと「自分の力で」ということです。そうすると、どんどんイエス様から離れて行く。そんな出来事が今日の聖書の箇所の事柄です。イエス様と一部の弟子たちがいない中で出来事が起こります。「あんた、イエス様のお弟子さんだろ?うちの子、悪い霊にとりつかれてさ、時々身体がこわばって口から泡を吐き、倒れちゃうんだよ。なんとかしてくれよ」とお父さんが言う。周りにも人が集まってくる。「よっしゃ、何とかしちゃうよ!」って調子に乗った弟子たち。でも、声を掛けて、さすっても直る気配が無い訳です。仕舞いには「あんた本当にイエス様弟子か?」「イエスだって本当は大したことないんだろ?」「そんなことはいいから、うちの息子を何とかしてくれよ!」と子どもそっちのけでわいわいガヤガヤの大混乱。そこにやって来たのがイエス様。「あっ、イエス様だ!」ってみんながイエス様のところに行きます。「なんですか。これは!?」って聞くと、その群衆の中から父親が出てきて事の次第を伝えます。そこでイエス様は言います「なんと信仰のない時代なのか」。確かにこの時、弟子たちはイエス様の事をすっかり忘れて自分たちの力でなんとかしよう、なんとか出来る、とそう思っていた。イエス様不在の心です。信仰のない状態ですよね。

でもですよ。現実問題として、信じる気持ちがあったら病気は何でも治るのでしょうか?今日のポイントはここです。そしてね、はっきり言ってイエス様を信じても治らない病気はあります。信じたら病気が治る、仕事も学業も何でもうまく行く、コロナにかからない、なんて事はないのです。そう信じるのは自由です。でも、信じたから治った、ということになったら、治らない人に「あなたは信じる気持ちが薄かったからだ」と言っていることになりはしませんか?つまり、信じるということと、病気が治るということをつなげて考えてはいけない、ということなんです。

じゃあ、どうしてイエス様はここで「なんと信仰のない時代なのか」と言われたのでしょうか。そのためには「信仰」という言葉をもっと深く考える必要がある。この「信仰」という言葉は、新約聖書が書かれたギリシア語ではピスティスという言葉が使われているのですが、そのピスティスという言葉には「信仰」だけではなく「信頼」という意味も含まれているのです。つまり、信仰には信頼が含まれているということです。

私はプロ野球でソフトバンクホークスのファンです。昨年は4位でとても残念でした。故障した選手が多かったこともあり、ピッチャーの絶対的数が少なかったこともあると思います。昨年の最後の方の試合はどの試合も一点を争う試合ばかりで、そして試合では最後に森という投手が毎日のように投げました。そして押さえることもありましたが、打たれることもありました。そのことについて昨年の監督の工藤さんは「このシーズンの終盤までしっかり押さえをしてくれたのだから森に託すのは当たり前だ。森で勝てないのであれば仕方ない」ということを話していました。これってすごい「信頼」ですよね。「森なら必ず押さえる」ではないのです。「森で押さえられなかったら仕方ない」というのです。私が「信仰には信頼が含まれている」と言ったのはここです。私たちは神様にいろんな願いをしますよ、信じて。でも、そこにはうまくゆく事しか考えていない事ってありませんか。それは実は信じているようで信じていない。「神様は私の願いを叶えてくれるに違いない」っていうのは信頼のない信仰です。私の悩みも願いも依然として私の手のひらの中。神様に預けていない訳です。この時の弟子たちなんて全部自分で握りしめている。成功経験があるから「無欲」になれないから。それで戸惑うし、周りも何で治らない?と握りしめた結果と違う現実に戸惑い、騒ぎ、責任問題になっている。本当の信頼というのは、たとえば難しい病気の時に「この先生が治せないなら仕方ない」と思えるくらいの関係です。何で治せないんだ!とはならないような。「信仰には信頼が含まれている」それは結果も含めて委ねる、明け渡す、そういうところが必要なのだと思います。

だからね、このお父さんがイエス様に「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言ったとき、イエス様は「『出来れば』と言うか。信じる者には何でも出来る。」と言われます。このお父さんの言い草だと「治すことが出来たらそれが神様が私たちを憐れんだ証拠だ」ということになります。それに対してイエス様は「本当に信じているのだったら、何でも出来るだろ。手を離すことだって出来るだろ!」って言われるのです。その言葉を受けてお父さんは「信じます。信仰のない私をお助け下さい」と言います。ここで大切なのは一回目の時には「わたしどもを憐れんで」と言っているのに対して二回目は「私をお助けください」と言っているところです。「わたしども」ではなく「わたし」と言っています。つまり、お父さんは子どものことについて手を離したのです。手を開いて「あなたに信頼します。イエス様は息子のことはあなたに信頼してお渡しします。むしろ助けてもらわなくてはならないのは私の方です。私が手を離し続けられるように守って下さい」と言うのです。「信仰には信頼が含まれている」その本質に立った願いをこのお父さんはするのです。

その後、この息子は治った、ということが書かれていますが、既に中心的な事柄は終わっています。何故ならお父さんは本当の信仰を得たからです。そして全てが終わった時に弟子たちは密かに聞きます「どうして私たちでは駄目だったのですか?」そこでイエス様は言われます「祈りによらなければ」と。祈りというのは神様とのつながりです。信頼の絆です。その信頼の絆がない中ではどんな結果も独りよがりだし、無欲にはなれません。私を神にさらけだすのが祈りです。握りしめていたものを神の前に出すことが祈りです。その結果も含めて神様に委ねるのです。その信頼こそが信仰の本質です。

イエス様不在の時に起こった問題が、イエス様が来られたときに解決したというこの出来事が示すとおり、大切なのは「イエス様が共におられる」その先に希望があるということです。いえ、共におられる事そのものが希望なのでしょう。共におられる方が信頼出来る方です。「信頼できる人は、いますか?」私たちは、この共におられるイエス様に信頼し、希望を持ちます。その希望、その信頼が、ここから、私たちから広がってゆくように、私たちも共に生きる歩みをしてゆきましょう。そこにイエス様も共におられます。

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