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2021年11月28日 直方バプテストキリスト教会主日礼拝メッセージ「復活の誕生」

聖書:イザヤ書11章1-5節

1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。4 弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。5 正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。

マタイによる福音書1章18-25節

18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを受け入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

今日からアドヴェント、待降節ですね。クリスマスを待ち望む季節です。私はこの時期が一番好きです。それは勿論、その誕生がイエス様の誕生だからなのですが、そうでなくても命の誕生というのはそれだけで喜ばしいものです。医師である私の友人が随分前に語ってくれた事なのですが、その友人が医学生だった時に産婦人科を目指す同級生がいて、その同級生に「どうして産婦人科を目指すの?」って聞いたそうなんです。するとその同級生はこう言ったそうです、「病院に診察を受けに来られた方で身体の異変に対して『おめでとうございます』と言えるのは産婦人科だけなんだよ」って。命の誕生はそれだけで喜ばしい事です。

今日は、その本来は喜ばしいはずの命の誕生を喜べなかったひとりの人が主人公のお話です。命の誕生を喜べなかった人の名はヨセフ。このヨセフが婚約者の妊娠という知らせを聞いて絶望的な気持ちになったところから話は始まります。どうしてでしょう。今なら、できちゃった婚、授かり婚、とかあるのに。時代のせいでしょうか。そうではありません。ヨセフは婚約者の妊娠について身に覚えがなかったからです。その事実を知るに至った経緯について聖書は詳しく語っていません。ただ「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とだけ記しています。婚約者のマリアから聞いたのか、それとも「マリア、妊娠したってよ」という第三者の言葉で知ったのか。また、マタイによる福音書には「聖霊によって身ごもった」という言葉の説明はありません。「聖霊によって」「神様の働きによって」とは何なのか?それを「処女降誕」と言う人もいます。そうではなく「イスラエルを治めていたローマの兵士によって性的暴行を受けた」という人もいます。ルカによる福音書では天使のお告げに対して「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言っており、そこから処女懐妊と思われます。しかし、少なくてもマタイでは「聖霊によって」という記述のみです。命は神様の出来事です。日本でも子どもを授かると言います。与えられるという表現が命の誕生が人間業ではない、つまり授かりもの、神の領域の出来事と考えられます。マタイの言う「聖霊によって」「神の働きによって」とは何だったのでしょう。私には分りません。とにかく命は神様のものということだけしか分りません。

でも、ヨセフにははっきり言ってそんなことはどうでも良かったのです。ヨセフが考えていた事は、「マリアのお腹にいる子は俺とマリアとの間の子ではない」という事実、その一点でした。「聖霊によって」つまり「神の働きによって」という言葉とは裏腹にヨセフはその事実を受け入れることが出来ませんでした。だから喜べなかったのです。そして、これはこの二人に起こった出来事だけでなく、マタイによる福音書の前提を覆す大きな問題です。
今日読んで頂きましたマタイによる福音書1章18節から25節のその前、つまり1章1~17節には、長々と系図が書かれています。イスラエル民族の祖であるアブラハムから始まって、その子イサク、その子ヤコブ、と続きまして42代が書かれ、その42代目がイエスだったと書かれています。それなのに、ここに来てヨセフとイエスは血がつながっていなかった、という事実がここでバーン!と伝えられる訳です。一体、ここまでの系図は何だったの?ここで系図がプッツリ途絶えるのに、どうしてカタカナの名前を延々と読み進めなければならなかったの?ここまで読み進めた苦労は何だったのか?」って思うような出来事なのです。イエスとつながらないヨセフの系図の意味って何なのでしょうか?そこに一つ、今日のメッセージのテーマがあります。

さて、しかし当のヨセフは、系図のことなんて考えもいないはずです。これから生まれる命が将来どんな人に成長するか、なんて知りませんから。そして、イスラエルの民族の人間であれば、誰だって遡ればアブラハムに行きますし。とにかくヨセフとしては自分とマリアのお腹の子の間に血のつながりが無いないこと、それも結婚前にその出来事が起こってしまった事、それだけです。落ち込んだでしょうか、怒ったでしょうか。心中は計り知れません。しかし、その心の中にあるものをそのまま吐き出すようなヨセフではありませんでした。何故なら聖書には「ヨセフは正しい人であった」と書かれていますから。ヨセフは「聖霊によって」つまり「神の力によって」子を授かったと知っています。しかし、それに冷静ではいられない。でも正しい人だった、ここには複雑な人間の心情が描かれています。ヨセフは信仰を持っていた、でも、自分とマリアの間に起こった神様の出来事には承知できない、でも信仰的に振る舞わなくては、とも思っている。その信仰的な振る舞いをここでは「正しさ」と言っているのです。

で、彼は何をしたか、というとマリアの事を表沙汰にせず、こっそり縁を切る、ということをしようとしたのです。それは優しさと言えば優しさです。何故なら、マリアの妊娠にヨセフが知らない、といえばこれはマリアが姦淫の罪を犯したことになり、それは最悪、石打の刑、死刑になります。しかし、ヨセフは人道的な観点からそれを避けたい。で、こっそり離縁してマリアをどこか知らない遠くで出産させようと思ったのだろうと思います。でもさぁ、それってよく考えて見ると、その場はなんとかなるけど、その後のマリアとその子の事なんてもう知らない、ということです。正しく、と言っていますが、結局は体の良い切り捨てです。そしてそれが人間の「正しさ」なんですよね。自分は清い、自分は正しい、と言って自分を守る、ということ何ですよね。律法を犯さない、正しく生きるというのは、結果として人を裁き、自分を守るということ。それが律法の限界なのです。この律法が書かれている旧約聖書はユダヤ教の正典でもありますが、旧約聖書を見て下さい。自分たちを守るためにバンバン戦争やっているじゃないですか。あれは自分たちの正しさを守るためです。新約聖書の福音書には律法学者やファリサイ派の人たちがよく出ていますが、あの人たちもバンバン人を裁きます。これだって自分を守るためです。「正しい人」なんて言うと良い人、って思いがちだし、ヨセフにもそんなイメージを持ちそうになりますが、「正しい人」というのは切り捨てて自分を守る、ということです。ヨセフは切り捨てたのです。

でも、それを決心したヨセフは夢を見ます。「恐れずマリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」夢に現れた天使の言葉です。天使は言うのです、「お前さぁ、何事にも正しく、律法に正しく、神の前に正しく、って思って離縁を考えているかもしれないけどさぁ、命って神様の出来事だろ?マリアの胎の子は神様の働きによって授かったんだろ?もし、神の前に正しく、って言うんだったら、その神様の働きを受け入れ、マリアを受け入れ、命を受け入れる事なんじゃない?切り捨てるのが信仰的だとでも思っているの?」って言うのです。そして天使は言います「この子は自分の民を罪から救う」って。「自分は正しく」って思っている民、またそうやって神様の命を切り捨てようとする人をこの子が救うんだ、って。この子を受け入れることでお前は正しさから解放されるんだよ、切り捨ててゆく罪から自由になるんだよ、って天使は言うのです。

これは「律法を守り自分を守る」という事から、「他者を愛し神を愛する」という大きな方向転換のお話です。律法に生きる、という生き方の先には他者を切り捨て、自分だけ、自分の民族だけ、自分の国だけ、という生き方しかないし、そこからこぼれていく者を見捨て、そして最後には自分が見捨てられて行く、そんな結末しかありません。何故なら、私達はいつも律法通りに「正しく」なんて生きられないのですから。その正しさの前に裁かれるしかないのですから。人を裁く者は自分が裁かれるのです。そんな生き方から、マリアを受け入れる、その子を受け入れる、つまり共に生きる、他者も自分も愛するという中に本当の希望があり、救いがあると天使は告げるのです。愛する事で、律法から自由になるのだ、と告げるのです。

そしてヨセフは正しさを断ち切って、マリアとその子を受け入れます。それはマリアが救われ、お腹の子が救われただけでなく、ヨセフ自身も救われる出来事です。ヨセフは絶望に向かう歩み、死に向かう歩みから命に生きるという歩みへと方向を変えたのです。この出来事はヨセフが死から命へ、絶望から希望への道程を伝える復活の出来事なのです。ヨセフもマリアもそしてその子イエスも生きることになったからです。イエスを通して律法という、正しさという絶望からヨセフは復活したのです。イエスの誕生はヨセフを死から命へと復活させる誕生、復活の誕生です。

マタイによる福音書の系図はヨセフで途切れています。それはどうしてか、それはイエスの誕生を迎えるには、一度、これまでのイスラエルの歩みを断ち切る必要があったことをこの系図は示しているのではないでしょうか。それはもしかしたら絶望と感じるかもしれません。しかし、この系図は同時にもう一つ大切な事を示しています。それは歴史を貫いて神は共におられこのイエスへと導いて下さっている、ということです。人の世がどれだけ汚くても、どれだけ罪に汚れていても、神は決して人を愛されることを止めない。系図はいつか途切れる、でも神の愛は途切れない。途切れずに救い主イエス・キリストに導かれる神の愛が歴史を貫いているということを示しています。

今日はもう一箇所、聖書を読んで頂いておりました。イザヤ書11章の1-5節。ここにはこうありました、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」。イスラエル王国の代表的な王様であるダビデ、その父親の名前がエッサイです。そのエッサイの子であるダビデの子達がイスラエルの王を受け継いで行きます。しかし、イスラエルは滅んでゆくことになります。王国は滅びます。それが「エッサイの株」です。「株」とは木の幹が倒された後のなれの果ての姿です。ダビデの子達が受け継いだイスラエル王家の滅びを意味しています。それは神から離れ、大国に身を寄せ、武力や軍隊で自らを守ろうとし、偶像礼拝に耽っていた故の出来事でした。「株」それは朽ちた木の姿であり、イスラエルの姿です。「終わった」と思える、途切れた、と思えるイスラエルの姿がそこにあります。でもその「途切れた」「終わった」と思えたそこから「ひとつの芽が萌えいで」、新しい芽吹きが生まれる。それは王国の歴史は終わっても神の愛は終わらない、イスラエルが神を離れても神はイスラエルを離れない、そこに救いをもたらす新しい王の誕生を示す言葉です。

その新しい王を指し示す先に、私達はイエスキリストの姿を見るのです。終わったと思えるそのただ中にも神の愛は貫かれ、そこに復活の誕生はあります。それは神の愛が終わらないからです。私達が絶望し、「終わった」と思えるその中にあっても神は伴われます。そしてそれこそが救いなのです。孤独で無いことが救いなのです。

マタイによる福音書の今日の箇所の後半に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である、とありました。終わったと思える中にも神の伴いはあり、そして私達を新しくして下さる。ヨセフがそうであったように、そしてイエス様御自身がそうであるように。この神の伴いを知り、神の愛を知る者もまた新しくて下さる。イエスの誕生の出来事は、復活の誕生、新しい歩みの誕生です。

聖書を読む、それは私をこの神様の愛の中に身を置く、ということです。私達の人生にも絶望と思える事柄はやってきます。いろんな事柄が私達の目の前を真っ暗にします。人との別れ、願い努力した将来が閉ざされる、病気、そんな事柄が起こります。その闇はそこで人生が終わったかのように思える事柄です。でもね、そんな時に聖書は語りかけるのです。神はあなたと共におられるよ、って。それはひとつの出来事の終りではあるだろう。でも、あなたは生きて良いんだよ。何故なら神は生きて働いておられるから。何故なら神の愛はあなたを貫いているから。あなたは一人じゃない。一人で頑張ろうとするから、正しさを求めるけれど、そこには限界があるよ、人間だから。その人間の限界、人間の弱さを生かすのは「インマヌエル」、一人じゃ無い、という生き方さ。神はあなたと共におられる。それがあなたが「終わった」と思える人生に光を与え、そして立ち上がらせてくれる。共に生きるということがあなたを復活させる。共に生きるイエスを与える。このイエスと共に生きてみないか?そう聖書はあなたに語りかけるのです。クリスマスは、私達を立ち上がらせてくれる復活の誕生なのです。そのイエス様の誕生を真ん中にして、私達は新しい歩みを共にしてゆく、それが信仰であり、その共同体が教会です。一人ひとりがそうであるように教会もまた、このクリスマスによって復活し、新しくなるのです。何度でも困難はやってくる、繰り返し悲しみはやってくる、その中で絶望的な思いになるからこそ、クリスマスは毎年やってくる。そして私達は何度でもここからインマヌエル「主は我らと共に」を感じ、「共に生きる」ということを教えられて復活するのです。この人生の真ん中に、教会の真ん中にイエス様を身ごもり、お迎えするのです。復活の誕生であるクリスマスを待ち望みたいと思います。

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