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2022年01月23日 直方バプテストキリスト教会礼拝メッセージ「今日の食事は明日の命をつくる」

聖書:マルコによる福音書6章30―43節

皆さんはダイエットをしたことがありますか?私は「趣味は?」と聞かれたら「ダイエット」と答えてもいいくらいのベテランです。でもそれは、たばこを辞めようと、それが続かない人が何度も禁煙を繰り返すみたいなもので、ベテランというのはいつもダイエットに挫折する、ということですけれど。ちなみに今はダイエット休止中なのですが、ダイエットをしている時は、毎日体重計に乗るようにしています。そして、毎日一喜一憂するわけです。この毎日体重計に乗っていて気づく事なのですが、例えば「今日はいつもより長くウォーキングしたな、と思ったから体重も減るか、というとそうでもなかったり、逆に「今日は食べすぎたな」と思ってもその日の体重がドーンと増えているかというと、そうでもなかったりします。これは経験した人は分ると思います。だからなかなかダイエットが続かないというのもあるわけです。人間というものはやったらやった分の結果を見たいですから。それは今のコロナの状況と似ています。コロナが拡がり始めてもう二年になります。第一波、第二波、その度に、人たちはこの波を越えたら、今我慢したら、とその先に光を求めて来ましたが、今はオミクロン株の第六波。それも今まで一番大きな波がやって来ています。明日から福岡では飲食店が営業時間の短縮してほしい、という要請が県から出されています。「またか!」と思う。やってもやっても、我慢しても我慢してもその結果が出ない。そんな毎日に、気持ちが切れてしまう、絶望してしまう、「諦めよう」と思う、そんな状況になられた方もいるのではないか、って思います。私たちは頑張った結果を見たいのです。先の見えない今はこのまま進み続ける事を辞めたくなるのには十分な理由です。これからもっとそんな人たちが出てくるように思います。だから、私たちはその絶望の中の光としてキリストを掲げてゆく必要があります。それはキリストを言葉で伝える、ということよりも私たちが希望を持って生きている姿そのものできっと伝わるものだろうと思います。

ダイエットの話に戻りますが、今日頑張っても今日結果が出ない、そんなことはよくあるのですが、その次の日、もしくは二・三日して結果が出るということもよくあります。「何でいきなり体重減った?」とか「逆に太ってる!」って思うこと。それは、今日の私たちの身体は昨日までの私が作っているからなのです。三日坊主とはよく言ったもので、三日何かをしても結果なんて出ないんですよ。だからそこで辞めてしまう。人生の意味だって同じです。そんなに簡単に見いだせるものではありません。そして見いだすのはもしかしたら自分の人生の前方にではなくて、これまで積み重ねてきた人生の中に見いだすのかもしれません。最近は、あまり本を買わなくなりましたし、直方に来る時に結構な冊数、神学部の寮に寄贈して少なくなったのですが、以前はよく本を買っていました。でもすぐに読むのではなく、「これ、きっと読む時が来る」とか「いつか必要になる時が来る」と思って買う方が多かったと思います。それは一つにはキリスト教関連の本というのは発行される部数が少ないのでその時に買っておかないと後からでは手に入らないということが結構あることもあります。ですから、私の趣味は「ダイエット」だけではなく、「本を買うこと」もそうです。で、買ったうちでやっぱりあるんですね、後から「そういえばあの本、買ってたよな!」って後から訳に立つ事。人生も同じです。積み重ねた本の中に必要な言葉を見いだすように、積み重ねた人生の中から後になって生きる意味を見いだす事も。今は役に立てることは出来ない。自分の身につかない。でも、後から振り返って見ると、その経験が自分を活かしている、ということもあるのです。「若い頃の苦労は買ってでもしろ」などと言う言葉があります。私は好きな言葉ではありません。でも、後になって力になったりすることがあるのも確かです。人生もダイエットも後からジワジワくるものです。だから諦めてはいけない、今日をちゃんと生きることが大事、今日はそんなお話。

それで、今日の聖書のお話ですが、その前に今日の聖書の箇所の前には何が書かれているか見てみましょう。6章14節から始まる内容には「洗礼者ヨハネ、殺される」という題がつけられています。以前にもお話しましたが、ヨハネという人物はイエス様が現れるまで、イスラエルではとても有名なキリスト教的指導者でした。歯に衣着せぬ口調で民に対しても政治指導者にも厳しくその罪を問い、生き方を変えなければ滅ぶぞ、と言ったので民衆は従い、そして指導者達は腹を立てておりました。そして時に指導者であるヘロデをも断罪したので、彼を捕まえ、そして殺してしまうという出来事が起こります。本当はここにはもっと深い物語があります。それは「サロメ」という有名な戯曲になる程の物語があるのですが、今日は割愛します。イエス様が民衆のところに行って伝道を始めた時の事についてマルコによる福音書はこう語っています、1章14-15節「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」。ヨハネが捕らえられる、それはイスラエルの民衆には絶望的な事でした。自分たちを導く宗教的指導者が権力によって捕らえられたからです。そんな時にイエス様は民衆に近づき、寄り添い「大丈夫だよ。神様はあなたと共にいるよ」と語ったのです。これがイエス様の福音の初めです。つまり、イエス様の働きとヨハネの入獄というのは非常に大きな関係があったということです。今回もそう考えて良いと思います。そのヨハネが殺害されたのです。「とうとう殺されたか!」と人々はやっぱりがっかりしたでしょう。その後に書かれているのが今日の聖書の箇所なのです。ここで、イエス様はあちこちに派遣した弟子たちが帰って来たので、「お疲れ様、まあちょっと休みなさいよ」って言います。弟子たちはこのヨハネの殺害、という出来事に悲しむ人々を慰めていたのではないか、と思います。それこそ食事をする暇も無いほどの一生懸命に。で、舟に乗って湖の向こう岸に行ってゆっくりさせようとした訳です。でもね、人々はイエス様も弟子たちも離さない。人里離れたところに行ったら、たくさんの群衆が先回りして待ち構えていたのです。その様子について聖書にはこう書かれています。「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(34節)。舟というものは湖を突っ切ることが出来ます。それに対して人々は湖の岸を伝って走っていったでしょう。いくら舟が遅いからと行っても、数千人の群衆が舟の倍の距離を走ってそして先回りするなんてことは大変な事です。それは何を意味しているかというと、群衆がそれだけ希望にすがりつきたかった、それだけ絶望しそうになっていたということです。現実の厳しさ、不安、悲しみ、そんなものが押し寄せてくるのから逃げようと、そしてもしかしたらイエス様はこの闇を照らす光なんじゃ無いか、と一縷の望みをかけて、走っていたのだろうと思います。その姿にイエス様は「憐れんだ」のです。この「憐れみ」という言葉は日本語的な「お可哀想に」と上から見下げるような思いではなく、一緒に悲しむ、一緒に痛む、という意味です。その人の気持ちになって、ということです。「希望を失って辛いんだね。不安なんだね。悲しいんだね」って分って自分も辛くなったという姿です。ヨハネの殺害で拡がった群衆の心の穴、明日はどうなる?未来はどうなる?絶望はいつまで?という思いを受けとめられ、イエス様はその多くの群衆に慰めと希望の言葉を語ります。弟子たちには埋める事の出来なかった人々の不安や悲しみの穴を、イエス様は埋められます。ここには大切な事が語られています。皆さんのお友達に悲しい事があったり、困った事があったりしたとき、きっと皆さんは何とかしてあげたい、と思われるのでは無いでしょうか。私もそうです。なんとかその穴を埋めたくなる。でも、私たちにはその穴を埋めることが出来ず、私たちも又その穴で途方に暮れる、「自分は何のしてあげられない。無力だ」って思われたことがあるのでは無いか、と思います。私もあります。弟子たちは食する暇も無いくらいに一生懸命でした。でも、群衆は満たされずに追いかけてきた。そこで思うのは、大切なのは私たちがその穴を埋めてあげようと一生懸命になるのではなく、自分は無力だからイエス様に埋めてもらう事を願う、ということが大切なのでは無いでしょうか。ただ、無力に寄り添う。一緒に悲しむ、まずは「憐れむ」。そこにイエス様が伴って慰めて下さることを願うということが大切なのでは無いでしょうか。

さて、今日の聖書の箇所は、本来はここで一区切りなのだろうと思います。「時もずいぶんたった」とも書いてあります。きっとマルコによる福音書は、二つの記事を意図を持ってここに一つにまとめたのだろうと思います。その意図とはイエス様が群衆に教えられた言葉が「今日を生きる事が明日の希望になる」ということでした。そしてここから始まる内容は「食べる」ということです。つまり、「今日食べたものが明日の命になる」ということです。人は将来に対する不安を抱えると、将来、未来から不安が押し寄せ、今日さえも不安になるのです。その今日に慰めを与えることが明日の希望につながる、という事を伝えようとしているのだろうと思います。具体的には、時間が経ったのち、弟子たちがイエス様に言います、「群衆を解散させましょうよ。そうしたら、みんなどこか食物を求めて周りの村や町に行くでしょう。」これは完全に自己防衛策ですね。どこかで、自己保身と限界を定めて「もう無理!」って思ってしまう。

今、教会でフリーナプキンプロジェクトってやっているじゃないですか。教会の前に生理用品を置いて「ご自由にどうぞ」って。それを始めるときに教会が予算を一万円準備してくれました。でも、実際は毎月2,000円くらいはかかっているので、年間24,000円くらいかかるんですね。予算で考えると赤字ですよ。じゃあ、もう止めるか、それともある分だけでやるか。そう考えたくなります。それって、フリーナプキンプロジェクトを始めておいて、そして今必要としている人がいるのに、現実見て「やっぱり無理!」って言うようなものです。弟子たちもそうだったと思うのです。出て行って、一生懸命に人々に福音を語り、そして希望を求めて群衆が押し寄せた。でも自分たちのキャパでは難しいから解散させよう、って。それに対してイエス様は「あなたたちが彼らに食べ物を与えなさい」という。同じだと思うんですよね。教会の取り組みを始めた私たちにイエス様は「あなたたちがそれをしなさい」って言っておられると思うのです。大切なのは「あなたたち」、つまり「わたしたち」がどこに立って進んでいるか、ということです。それはイエス様ですよね。そしてイエス様は「神が共におられるのだから、私たちも共に生きて行こう」という事柄を語られたのです。「私」ではなく「私たち」として。そしてその真ん中にイエス様がいる、と信じて。

イエス様は少ないパンと魚を分けてその群衆に与えます。大切なのは共に生きようとするその中にイエス様が働かれる事を信じる事です。そこに神様の働きは起こって行きます。そこに集まって一緒に生きようとする中に神様の出来事は起こるのです。そしてそれが希望です。先は見えないよ、不安はある、でもさ、今一緒に生きることを、一緒に食べることを喜ぼうよ。そしたらさ、明日の力になるよ。今日食べたものは今日の命をつなぐものであることに間違いは無い。でもね、今日の食事は明日の命を作るのさ。今日を生きる事が明日の希望になるのさ。そうイエス様は不安な人々に食事を通して語って下さったんじゃないかなぁ。このたった五つのパンと二匹の魚が5,000人の人に行き渡った、それは奇跡です。でも、その奇跡の源はイエス様が語った希望が5,000人に伝わったということであり、さらに12のかごにいっぱいになった、つまりその希望が溢れ出たということです。共に生きようとする希望は明日へと広がり、生きる力となったことこそが奇跡であり、それはあなたがたの手で与えることができるものだ、とイエス様は弟子たちに語っておられるのではないでしょうか。

フリーナプキンプロジェクトは教会だけで行うのではなく、たくさんの支えを頂きながら進もうと役員会で話し合いました。そしたらもう段ボールに一箱下さる方が与えられました。私はこれも奇跡だと思うし、大きな希望だと思いました。教会が共に生きる、ということも教会の中だけで無く、教会の外にいる人たちとも一緒に生きながらイエス様の奇跡を求めてゆきたいと思うのです。

今日食べたものは明日の命になる。今日、始めたことはすぐには実を結ばないし、結果も伴わないかもしれない。でも、共に生きる、共に食べる、そういう事柄のうちにイエス様は奇跡を起こして下さる。明日を生きる力にしてくださる。そう信じながら歩んで参りましょう。

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