コミュ力と情報信頼性の話

ロシアとウクライナ、ハマスとイスラエルの衝突や、有名人同士のもめごとを見て過ごすこのごろ、時代が進むにつれ物事の真偽判断に必要な能力が高まってきたなと感じております。

そもそも、ぼくたち人間がこれほどのコミュニケーション能力を有しているのは長い年月を集団生活のなかで過ごしてきた生物だからですよね。他の誰かと力を合わせないと大きなことは成し遂げられないはずで、グループから追い出されてしまったら生きてはいけません。だからぼくたちは友だちがこそこそ話していることが気になってしまいますし、周りの人からも嫌われたくないと思ってしまいます。グループ内のうわさ話や自身の評判を気にしない個体が進化の過程で存在していたとすると、いじめられるなり罪をなすりつけられるなりで殺害されることもあるわけですから、そういう類のものには相当に気を遣うように設計されているべき生物です。みんなの食べ物を盗んだAさんが「Bが食ってたよ!」と嘘をついたとき、裏で何をいわれていようが気にしないBさんは全員に誤解されながらボコボコにされるはずですからね。

その点、女性は特に敏感なようです。夫からの愛情を得られなかったり、ママ友から仲間外れにされたりすれば子どもを育てることが困難になってしまうことが要因のひとつであろうと思います。女性が持てる子どもの人数は限られますから、子を育てる段階でどれだけ周りからの協力を得られるかが、遺伝子を残せるかどうかの鍵ですからね。

人間にとってコミュニケーションが大事であることは、僕たちの外観からも明らかです。基本的に、動物が視線を悟られることは生きていく上で不利に働くため(気づいてないと知られるため)瞳の外側も黒くなるよう進化していくんですが、人間だけはその利点よりも仲間うちでアイコンタクトを取れることの方が優先されるから白目が存在するんですよね。

誰が何を言っているか、それが自分にとってどのような影響があって、自分はどのように行動するべきか、僕たちは集団のなかで高度なコミュニケーション能力を駆使して物事を判断し、自分にとってより良い選択をしていくことが必須なのです。

さて。
ほとんどの人がTVやインターネットを閲覧できるようになった現在では、うわさ話の規模が爆発しています。ほとんどの出来事について確信を持てないままに、信用できる情報源であったり、証拠のようなものであったり、あるいは人数の多いほう…などの材料によって判断していくことしかできません。これはとてもとても難しいことです。僕たちはあらゆる判断を半自動で行うことで省エネできるようになっていますが、偉い人が言っていることは正しいとか、高価なものほど良いものだとか、従っていればだいたい正解を選べるようにチューニングされた基準によって物事を判断してしまいがちです。このオート判断は当然ながらミスを生みます。

ロシアVSウクライナ戦について、ロシア国内のTVでは自分たちが正義だと語られます。インターネットやSNSの普及によって影響力が弱まってきたものの、TVは比較的高い年齢層の国民にとっては主要な情報源になっています。作為的に切り取られた映像や、自分たちにとって都合の良いストーリーしか見ることができなければ、それが視聴者にとっての真実になってしまいます。そこで「近所の人たちも同じように言っているから!」と言ったとしても、近所の人たちの情報源もまた同じなので、同じことを言っている人数が多いことは根拠にならなかったりします。

当時はゼレンスキー大統領のディープフェイク動画まで作成され、一昔前までは証拠となりえた画像や動画すら信用度の低いものになっています。じゃあ肉眼で見たものが真実かというと、それもまた確実とは言えないわけで。何かの理由がある演技だったり、脅されていることによる言動だったり、通常の精神状態でなかったり…さまざまな可能性が考えられ、できる限りいろいろな可能性を想定して総合的に判断していくしかないのです。

こと戦争においては、こういった情報によって戦況は圧倒的に変わり得るので、防衛省も「認知領域を含む情報戦への対応」と題して対策の方針を明らかにしています。ホームページには前述のゼレンスキー大統領の事件も掲載されているので、機会があれば見てみてください。

近代では大きなリソースを割かずに大衆を動かせるコスパのよい戦略として活用されつつあり、僕たちはそれらを正しく判断していかなければいけません。戦いは数が多い方が勝つことが条理ですので、仮に自分が賢く、正しい判断ができたとしても、たいして意味がないというのがこの攻撃の恐ろしいポイントです。わかりやすいのがONE PIECEのアラバスタ編ですね。Mr.2がコブラ王のふりをして国を潰そうとし、それを信じた国民たちが戦争を始めてしまいます。僕は頭が悪いなりに、コーザにならないよう心がけています。彼も素敵な人なんですけどね。

揉め事を目前にしたときは、安易に一方の肩を持って、もう一方の話を聞くこともなく批判してしまわないよう意識して対応していきたいところです。一方の立場が自分に近い場合は、特に間違ってしまいそうです。ぼくはたけのこの里が好きなので「クッキーの食感がよい」みたいな論に共感してしまいがちですが、きのこの山を推す人たちは「チョコレートが多いのでよい」とかに共感しやすいのだろうと思います。夫と妻の家事育児問題みたいな、一方の立場に寄ってしまいそうな問題に対峙したときは注意が必要です。

集団生活をしていく上で、内部にいる悪を排除した方が集団の生き残る確率は高まります。その作用によって、人間は悪者(と判断した相手)に制裁を加えることで脳の報酬系が刺激され快感を得られるようになっています。有名人への誹謗中傷を生きがいとする人がいるのはそれですね。自分が正義であると信じたとき、態度が大きくなったり残虐性が増したりしてしまいます。自分が間違っていないと仮定しておくだけで、考えなくていいことが増えますからね。

しかし、育ってきた環境や自分が持っているだけの情報から、どうしても自分が正しいと思ってしまうことはあるのは仕方のないことだと思います。僕は1+1=2の世界で育ってきて、それが正しいと信じていますが、もしかしたら3になる人たちもいるかもしれません。自分たちの常識を信じられなくなることでアイデンティティが脅かされそうな気もしますが、それでも自分が間違っている可能性を考えられる人でありたいと思っています。相手にも相手なりの論理や生きてきた世界があるでしょうから。そんなふうに考えることのできない人を悪だと思ってしまうのは、まだまだ僕が未熟だからなのでしょうね。

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