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悲しいときは

恐ろしい災害に見舞われたとき、悲しい事件があったとき、人々はニュースを通じてそれらを知って、悲しい気持ちになっています。インターネットが生活に浸透してきたいま、その情報量は新聞やTVを簡単に超えてきて、適当にSNSを見ているだけでも遭遇します。誰かが拡散し、それを見た誰かがまた拡散…といった流れで情報が出回り、この流れは人と繋がっている限り止められません。悲しさは人から人へつながっていきます。

ドラえもんに「のび太の結婚前夜」というエピソードがあります。本当にしずかちゃんと結婚できるか心配になったのび太が、タイムマシンを使って未来の結婚式を確認しようとする話です。そのなかで名言といわれるセリフがあるので引用します。結婚前夜、本当にのび太と結婚していいのかと悩むしずかちゃんに、お父さんから贈られた言葉です。

「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲し悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとにとってだいじなことなんだからね」

他人の心に寄り添うことができるのび太を賞賛した言葉で、ぼくはこのセリフがとても好きなのですが、これを簡単に善だと思ってはいけないような気がしています。嫌なことがあって悲しんでいる人を見て、悲しい気持ちになると、その人を見てまた他の人が悲しい気持ちになる。こんな感じで、全員が他人に共感できる「いい人」であったとき、ひとりの不幸が周りの人間全員の不幸になってしまうんじゃないかと思うのです。悲しい気持ちの鎖はずっと繋がっていってしまうのではないでしょうか。

「他人なんて関係ない」みたいな、いわゆるサイコパスのような人が間に挟まれば、この鎖は切れてくれます。合理的に見れば、悲しい場ではそんな人がいたほうが良いような気がしてきますよね。お葬式が終わりかけても空気を読みあって「悲しんでいます」みたいな雰囲気を必死に作っている人たちのなかで、一発目にふざけてくれるような人が必要なんじゃないかと思えてきます。災害があった被災者は、SNSに流れてくるおもしろ投稿に励まされると聞いたことがありますし、そんな感じの存在はどこにでも必要かもしれません。

いい意味でサイコパスぽい人になれればいいなと思っていますが、やっぱり人間だから人間っぽく生きていたい気持ちもあって、最近はその葛藤の中で生きております。他人の悲しい出来事に共感するか否かで悩んでいる、という感じ。自分の気持ちを選択できる時点でちょっとサイコパス感はあるけれど、嫌なことを忘れるのが得意で、感情のコントロールが上手だから実現できちゃうってことにしておきます。

一緒に悲しみたいけど悲しさを繋げたくはない…みたいな難しい状態だから、「共感はするけど関係のない人には見せない」くらいしか抜け穴がなくて、そういう風になれないかと日々努力しているところです。自分のエゴと幸せの最大化を両立するためには、今のところはこのやり方しかおもいつきません。

だから周りの人には楽しげな話題だけを提供しておきたいのだけれど、今日もこんな鬱文章を公のものとしているのでもうダメです。


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