新作映画を観るならレイトショーに限る。
新作映画を観るならレイトショーに限る。
僕はこの考えに疑いを持たない。
よほど不人気の作品なら話は別だが、たいていの作品は満席状態となっている。隣の人が身じろぎをする気配、後ろの席に座る人のつま先が自分の椅子を蹴る衝撃、映画の内容を理解できなくなった女が彼氏にひそひそと質問する声、ポップコーンを噛み砕く音———。
これらに邪魔をされ、作品に集中できないのだ。
そもそもなぜポップコーンなどという音の出る食べ物を売っているのか理解に苦しむ。食べていない人からすればうるさいだけだし、食べている人も静かなシーンになると気を遣い、そーっと押し潰すように噛んでいる。その音がさらに気になったりする。映画館にはポップコーンの代わりに、ようかんを売るよう訴えかけていきたい。
ここまでで「新作映画を映画館で観るのは損である」ことはご理解いただけたと思うが、では動員数が落ち着くのを、あるいは家で観られるときまで待つしかないのかというと、そんなことはない。
レイトショーで観ればいいのだ。
深夜上映の回であれば、スクリーンを正面に捉えた良席でも、両隣に人がいることはほとんどなく、映画鑑賞に集中できるのだ。
だから僕は、「新作映画を観るならレイトショーに限る」と考えている。
―――――――
冬の深夜、僕は六本木ヒルズに向けて車を走らせていた。
ここの映画館は地下に駐車場があり、そこからエレベーターで直接チケット売り場まで行けるので気に入っていたのだった。
奇妙なことに道路は混んでいるが、待ち望んだ『スターウォーズ』の新作(たぶんエピソード8)を観られることへの興奮が、苛立ちを封じ込めていた。
この混み方は普通じゃないと気づいたのは、六本木ヒルズ内につづく右折レーンの信号待ちをしているときだった。
何か特別なイベントでもやっているのだろうか…?
運転席から視線を飛ばし、周囲にめぐらせると、歩道を歩いているのがカップルばかりであることに気がついた。
「そういえば今日は、クリスマスイブだ…!」
混雑の原因が判明したからといって、渋滞が解消されるわけもなく、前の車がわずかに進んだぶんだけ、自車を進めるしかなかった。
ようやく六本木ヒルズ内のロータリーに入ったが、車は相変わらず、少しずつしか進んではくれない。
ロータリー内にも駐車場の入り口があるが、ここに停めてしまうと映画館までかなり歩く羽目になってしまうので通り過ぎた。
渋滞は解けそうにないが、焦る必要はない。このペースで行っても、上映時間に間に合わないことはなさそうだ。
この屋内のロータリーを抜け、信号を左折した——けやき坂をちょっと下ったところに映画館直通の駐車場はある。そこまで行ってしまえば、もう着いたようなものだ。
正面に見える、けやき坂の信号が青に変わった。カップルたちが横断歩道を渡っていく。歩行者用信号が点滅し、赤に変わる。よし、間に合った。僕は左にハンドルを切った。そのとき――。
「嘘だろ!?」
僕は思わず洩らした。
目当ての駐車場の看板が、『満』の文字を光らせていたからだった。
馬鹿な! いままで何度もレイトショーを観に来たが、こんなことは一度もなかった。
自分の車がそこを通過する前に、奇跡的に『空』になってくれることを祈ったが、そんなことは起こらなかった。
前は詰まっている。
けやき坂を埋める車列の中で、僕はその原因をつくっているであろうイルミネーションを憎んだ。
こいつさえ光っていなければ、きっと満車になってなどいなかったはずだ!
上映開始時間が来てしまったが、諦めて別日にするという選択肢はなかった。
もうインターネットでチケットを購入してしまっており、キャンセルできる状況でもないからだ。
それに、まだ遅刻すると決まったわけでもない。
上映開始時間から約10分間は、ほかの映画の予告編や「ストップ! 映画泥棒」の映像が流れるはずだ。
一周回って、屋内ロータリーの駐車場を目指すしかない。
さっき通ったとき、そこの看板が『空』だったことは憶えている。
焦りが車に伝わらないように注意しながら運転し、目的の駐車場入り口まで戻ってきた。
きついカーブのつづく下り坂を進み、車は地下深くの駐車区画に収まった。
スマートフォンの画面を見ると、本編開始まで2分といったところだった。
映画館直通の駐車場であったなら、ほぼ確実に間に合うだろう。しかしここからだと、最低限、走るしかない!
最寄りのエレベーターに乗り込み、降りると、よくわからない場所に出た。
お洒落な店舗が並ぶ、ショッピングモール内のようなエリアだった。
映画館はどっちだ!
案内看板を見つけ、大体の方角を頭に入れてそちらへ走る。
建物を出て、イルミネーションでキラキラと輝く広場のような場所を突っ切っていく。
そこにひしめいているカップルたちのあいだをすり抜け、ただひたすらに映画館を目指す。
そこに一人で存在しているのは、そして走っているのは自分だけだった。
当然、注目を浴びることになったが、スピードを落とすわけにはいかなかった。
やがて、容赦なく突き刺さる無数の視線に耐え切れなくなり、僕は自分のことを、「彼女との約束の時間に遅れ、まだそこに彼女がいてくれていること願いながら、待ち合わせの場所に急ぐ男」なのだと思い込むことにした。
じっさい、そういうふうに見えていたのではないだろうか。
その作戦は功を奏し、視線は気にならなくなった。
階段を駆け上がり、映画館のドアを入った。
機械にスマホの予約情報を読ませ、チケットを発行させる。
息を切らしながら、とんでもなく長いエスカレーターを上っていく。
こんなときに限って、入り口から遠いスクリーンでの上映だった。
目的の場所のドアを開け、そっと暗闇の中を進んでいく。
階段を上り、斜め横からスクリーンを見上げた。
本編は、始まっていた。
ひとまず無人のブロックの一席に座って息を整える。
自分が予約した席を含む、スクリーン正面のブロックにはけっこう人が座っているのがわかった。
「もうここでもいいか」という考えがよぎったが、「係員に注意されても嫌だな」と思い直し、予約した席に向かうことにした。
暗い通路を進み、僕の席がある列の端にたどり着いた。
そこに座るには、手前にいる二人の前を横切らなくてはならない。
スクリーンの光に照らされた姿からするに、どうやら年配の夫婦であるようだった。
意を決し、できるだけ体勢を低くして、
「失礼します」
小声で言いながら、忍び足で進んでいく。
道を開けてくれる気配を感じるが、油断はできない。
足下にスクリーンの光はいっさい届かず、何も見えないからだ。
「あ痛!」
というおじさんの声が聞こえたのと、何かを踏みつけた感覚をおぼえたのは同時だった。
足を踏んでしまったのに違いなかった。
「すいません! すいません!」
小声を張り上げて謝ったが、明確な返事はなかった。
おじさんから一つあけたところが自分の席だったので、そこに腰を落ち着けた。
しかし、心臓は落ち着くどころか、激しく速く鼓動していた。
おじさんはこっちを睨んでいないだろうか。
終わった後に苦情を言われたりしないだろうか。
あの瞬間、ストーリーの鍵となるような台詞が流れていなかっただろうか。
それを見逃させてしまったのだとしたら重罪だ。
目はスクリーンに向けているものの、神経は右側に全集中してしまい、しばらくスターウォーズの世界に入ることができなかった。
おまけに飲み物を買う暇もなかったため、喉の渇きとも戦わなくてはならなかった。
新作映画を観るならレイトショーに限る。
ただし、クリスマスイブは別だ。
画像提供:ピクスタ