パスワード、パスワードやかましいわ!
何でもかんでもパスワードを求められる時代だ。
タブレットをひらくにも、アプリにログインするにも、文字を打ち込まなければならない。
セキュリティー保護の観点から、必要なのは理解している。
しかし僕らは、パスワードに守られるよりも、苦しめられることのほうが多いのではないだろうか。
1年ほど前のことだ。
僕は大手通販サイトで買い物をするために、スマートフォンにアプリを入れ、そこにアクセスした。
「ユーザー名またはメールアドレス、パスワードを入力してください」
という指示が表示された。
スマホからログインしようとしたのは、この日が初めてだった。
ただでさえ我慢ができない性分なので、出先で欲しいものを見つけても、家のパソコンでひらかなければ買えないようにしていたのだ。
これはいわば、自分なりの物欲ブレーキシステムなのだった。
しかし、やはりそれには不便さを感じていたため、僕はとうとうそのシステムを壊すことにした。
求められたとおり、僕はメールアドレスを打ち込み、つづいて心当たりのあるパスワードを入力した。
「問題が発生しました。パスワードが正しくありません」
と表示された。
はあ、やり直しか。
僕はため息をついてリトライした。
メールアドレスに関しては、ついさっき入力したものがスマホの予測変換のところに表示されていたので、そこに数回触れるだけで入力できた。
あとはパスワードだ。さっきのが違うのだとしたら、これか……?
僕は一度目に入力した文字列に何文字か足したものを入力した。
「問題が発生しました。パスワードが正しくありません」
「なんでだよ!」
思わず画面に向かって言ってしまった。
仕方なくもう一度入力する。
メールアドレスはやはり予測変換のところに出てくるので、そこを何度か押すだけで済んだ。
パスワードは、二度目に入れたもののアルファベットを、いくつか大文字にしてみた。
どうだ――「ログイン」と表示されている箇所を親指で押した。
「問題が発生しました。パスワードが正しくありません」
「んなんでだよ!」
僕はほとんどキレてしまっていた。
大文字を入れろだとか、数字も混ぜろだとか、そういったルールがそれぞれのサイトで違うから混乱するんだ。パスワードにできる文字列の条件は、すべてのサイトで共通にしてくれよ、機械どもが!
面倒だけど仕方ないか……。
家だったのでパソコンをひらいた。
そこから通販サイトにアクセスして、パスワードを確認しようと考えたのだ。
しかしパソコンでは、自動ログインされてしまうので確認ができなかった。
できなかったものの、ログイン画面からヒントを得ることはできた。
「●」で表示されているパスワードの文字数は、最初に入れたものと同じだったのだ。
あれ? 合ってたのか?
もしかしたら、最初に入力したとき、タップのしかたが雑だっただけだったのかもしれない。
再度スマホを手に取り、メールアドレスを入力した。そしてパスワードを、慎重にひと文字ずつ入力していく。
「ログイン」の箇所を押した。
「問題が発生しました。パスワードが正しくありません」
発狂しそうだった。
何とか立て続けに深呼吸をして、体内から怒りを吐き出した。
パスワードの変更をすれば解決するのだろうが、なんだかそれでは癪に障る。
変更癖がつくのも、脳にとってよくなさそうだ。いや、そんなことじゃあない。もはやこれは――。
人類とマシンとの戦争なのだ!
ターミネターみたいな世界にさせないためには、機械に調子に乗らせてはならない。
俺は、必ず勝ってみせる!
スマホで検索サイトをひらき、
「パスワード 忘れた 確認方法」や、
「パスワード 忘れた 変更したくない」などと入れると、求めている回答が載っていそうな記事が出てきた。
それによると、パソコン自体のシステム設定か何かから、管理者として実行とか何とかをすれば、確認できる可能性があるとのことだった。
勝てる。俺は、勝てる……!
記事に書いてあるとおりに、僕はパソコン自体の設定アイコンをクリックし、そして書いてあるとおりの場所までたどり着いた。
Enterキーを押した。すると――。
「パスワードを入力してください」
なんと、パソコン自体のパスワードを求められたのだ。
「またパスワードか、貴様ら! 憶えてねえよ! パソコン自体のパスワードなんて憶えてねえよ!」
爆発的な怒りは、気づけば絶望に変わっていた。
尻がずるずると椅子を滑り、僕は天井を仰いだ。
パスワードって、いったい何なのだろう?
パスワードに守られることより、苦しめられることのほうが多い気がする。
守られたことには気づかないから、そう感じるだけなのかもしれないけど、もういいや。たくさんだ。うんざりだ。
お前、よくやったよ。最後まで戦ったんだ。
負けはしたが、恥じゃない。
それに、携帯からログインできないからって、それが何だっていうんだ。
いままでどおり、パソコンからだけで買い物をすればいいじゃないか。
見てみろよ。充分便利な世の中だ。これ以上何を望む?
僕はパソコンから離れ、テレビを観たり、夕食をとったりした。
世の中の良い部分に目を向けていると、普段よりも穏やかな気持ちになった。
完全に敗北を認めるため、僕は最後に一回だけと決めたうえで、ログインにチャレンジした。
メールアドレスの入力も、予測変換は使わずに、まっさらな気持ちで、一文字一文字、丁寧に入力していく。
恐ろしい事実に気づいたのはそのときだった。
自分は、パスワードを間違えていたんじゃない。
自分が打ち間違えていたのは、
メールアドレスのほうだったんだ!
あまりの衝撃に、全身に力が入らなくなっていた。
もしも僕がカイジだったら、周囲がぐわんぐわんしていたことだろう。
気力を振り絞り、パスワードを入力した。
はじめに入れたパスワードは、正しかった。
僕は晴れて、スマートフォンでのログインに成功した。
僕はパスワードに苦しめられていたわけではなかった。己の不正確なタップと、予測変換の機能に踊らされていたのだ。
もう二度とこんな目に遭いたくないと、僕は通販サイトの名前といっしょに、パスワードを大学ノートにメモした。
記憶という不確かなものだけでは頼りなく、実体である紙に記したのだ。
少し経ってから、本末転倒であることに気がついた。
こんな、最も無防備で原始的な方法では、パスワードが本来持つ、セキュリティー保護という目的は、まったく果たされないのだから。
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