見出し画像

擬態生物をアップで撮るのはひどすぎやしないか

この地球上には、さまざまな擬態生物が存在する。

木の枝や葉や、海中の砂や岩など――自然物と自らの姿を一体化させることにより、外敵から己の身を守ったり、あるいは捕食対象を油断させているのだ。

何千年、何万年という時の中で、少しずつ、ほんの少しずつ変化していき、ようやくその能力を獲得したのだろう。

これと決めた植物に近づくために一生を捧げ、しかしとうとう願いは叶わず、それをつぎの代に託し、託された者は実直にそれを自らの願いとし、ただひたすらに植物に近づこうとした。そうやって願いをつなげ、気が遠くなるような時間をかけて、彼らはそこにたどり着いたのだ。

ぐずぐずしているあいだに、植物のほうが変わってしまったらどうしようという不安もあったことだろう。
別の植物に取りついたら、かえって目立ってしまうというリスクにも怯えていただろう。

そんな擬態生物をアップで撮影するということは、彼らの苦労を、進化の物語を、一撃で粉砕する行為なのだ。

「ここですね」と赤丸で囲われ、居場所を看破されているとき、彼らはどんな気持ちでいるだろうか。テレビでそういった様を観るたび、私は胸が張り裂けそうになる。

画像1

珊瑚と同化したこの魚が、絶望の表情を浮かべているのはおわかりだろう。

種が何千年と積み重ねてきた努力を、看破されるわけがないという自信を、たった一回のシャッターに打ち砕かれたのだから当然だ。しかし――。

「バレてなんかいない。撮られてなんかいない」

散っていった先祖のためにも、彼は認めるわけにはいかないのだ。頑としてカメラを見ないのは、最期の意地に違いない。

画像2

悔しさのあまり喉が裂け、襟みたいになってしまっているのが確認できる。

人類は優れた生物である。だからこそ擬態を見破ることができるのだ。しかし本当にそれは、正しいことなのだろうか。

人類は今日まで、擬態生物を見破ってばかりだった。できるからといってやっていたのだ。
だが忘れてはならない。我々は、騙されたふりだってできるのだ。

枝に擬態していることに気づいても枝として、珊瑚に擬態していることに気づいても珊瑚として接することができるはずだ。
腰を抜かして驚いてやるのもいいだろう。

これから先、擬態生物たちが馬鹿馬鹿しくなって擬態をやめてしまうかどうかは、我々がどちらで彼らと向き合うかにかかっているのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?