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言文一致唱歌運動 「日本語を作った男」上田万年とその時代(山口謠司著)より

明治初期、台湾に「芝山巌学堂」を創立したことで知られる伊沢修二は、明治から大正にかかけての近代音楽教育や吃音矯正の第一人者でもあります。

その伊沢がお雇い外国人として招いたメーソンと、明治14(1881)年に「小学唱歌集初篇」を発行しています。

「蝶々」、「蛍」(蛍の光)、「君が代」が含まれており、「みわたせば」という歌は、今も歌われる「むすんでひらいて」の原曲なのだそうです。

曲はほとんどすべてが賛美歌か、あるいは賛美歌をわずかに書き換えたもので、歌詞についていうと、「蝶々」は「テフーテフ テフーテフ ナノハニ トマレ」という具合で、「言文一致」には及ばなかったようです。

明治20年ごろから、言文一致唱歌運動が起きます。

そのひとつが、渋谷愛作詞、納所弁次郎や田村虎蔵が作曲したものを載せた「公徳唱歌」です。明治34(1901)年に出版されたこの冊子の凡例には次のように記されています。

一、 此小さい唱歌集は、小学校生徒に歌わせるために作ったのです。
二、 此小さい唱歌集は、公徳養成の資料として作ったのです。
三、 此小さい唱歌集は、唱歌教授の材料として作ったのです。
四、 此小さい唱歌集は、言文一致の方針によってつくったのです。

こうした言文一致唱歌運動のひとりとして、作詞家石原和三郎がいます。

石原は、「金太郎」明治33(1900)年発表(作曲田村虎蔵)・「兎と亀」明治34(1901)年発表(作曲納所弁次郎)などを作詞しています。

これら「言文一致唱歌」は「唱歌」と言いながら、大正3年頃から流行る「童謡」という別の新しい音楽を予期するものとして創られていくことになります。

そして森鴎外の大演説によって臨時仮名遣調査委員会が閉会となった、明治41(1908)年6月の翌月に、文部省は初めて「文部省唱歌」と呼ばれるものとして「尋常小学校読本唱歌」を編纂します。

ここに収録される27曲はすべて日本人が新しく作ったものです。
「ふじの山」「春が来た」「虫のこえ」もこの中の歌です。

「尋常小学校読本唱歌」を前身として、文部省は引き続き「尋常小学唱歌」全六冊を編纂します。この時、編集委員は作詞と作曲のふたつに分けて選ばれました。

作曲の委員は、委員長に湯原元一、そして委員として、上真行、小山作之助、島崎赤太郎、楠美恩三郎、田村虎蔵、岡野貞一、南能衛が任命されました。

そして作詞方の委員長は芳賀矢一、委員に上田万年、尾上八郎、武島又次郎、八波則吉、佐々木信綱、吉丸一昌、高野辰之。芳賀矢一と高野辰之は上田万年の弟子にあたります。

「故郷」「朧月夜」「もみじ」「春が来た」「春の小川」などは、高野辰之によって作詞されたものであることが近年明らかになっています。

明治17年ごろからはじまってくる言文一致運動は、この明治42年に創られる「文部省唱歌」によって、唱歌という最も子どもに親しみやすい形として日本全国に伝えられていくことになります。

そして、その風を煽るように、レコードと蓄音機という新しい技術が我が国でも開花し、国産品が作られるようになってきます。

大正3(1914)年6月に発表された「尋常小学唱歌(六)」には、高野辰之が作詞し岡野貞一が作曲した「故郷」が載せられます。

一、 兎追いしかの山
小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて、
忘れがたき故郷

私が生まれた静岡において、山で兎を追いかけたわけでも、川で小鮒を釣ったわけでもありませんが、例えばオペラ歌手のコンサートで、アンコールでこの歌が歌われ、「皆さんもご一緒に」などと言われると、涙がこぼれて、声になりません。

そんな私たち日本人の感性に溶け込んだこれらの歌が、「言文一致」という「目的」を秘めたものだったとは。もちろんそこには「悪意」はなかったのでしょうが、考えさせるものがあります。

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