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10. 潮風(丸に梅鉢・楽曲コラム)

皆さんは瞑想をすることがあるだろうか。

私は瞑想を習慣にしているのだが、身近になってしまったために、もともと瞑想に抱いていたイメージを思い出せない。

瞑想とは、ヨーガ哲学の中では「大いなる純粋意識」と繋がるためのものだとされる。

「大いなる純粋意識」……?

皆さんの疑問はもっともだ。

もう少し、身近な、現実味を帯びた、仏教の視点を取り入れよう。

般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)、という言葉を知っているだろうか。

仏教において「真理を認識するさとりの智慧」とされる。

私は般若波羅蜜を「無数の魂がまざりあう、命の学びの海」のように思っている。

わたしも、あなたも、はたまた前世も、ソウルメイトも、異界のものも…
全ての「命の学び」が、大きな海として集結し、凪いでいる。

それが般若波羅蜜だと思っている。

今世で得られた「命の学び」は、死を得てはじめて、その海へと還ってゆく。

感情や苦楽というものに振り回されながら、結晶化されてきた智慧が「命の学び」だ。

瞑想とは、肉体という俗物を持ったまま、その海をめざし、旅行しにいくことを指す。

その海に、怒りや悲しみや愛を感じるための器官は存在しない。

故に、肉体をもったままそこへ旅行すると、言いようのない涙や、愛がこんこんと溢れてくることがある。

それは瞑想中に起こりうる、「魂の浄化」とされる。

後遺症のように涙を零し 涙の意味はずっと分からぬまま 

『丸に梅鉢』10.潮風より


私たちは、いつもその海から、言語化できない感情である「涙」を零す。

瞑想を続けると、その涙の核に巡り合う。

その核が、芯から溢れきるまで、私たちは涙を零す。

感情は、智慧という結晶を手に入れるまでの導(しるべ)だ。

行き着くための涙が零れることもあるだろう。

葦田不見(アシダミズ) という、詩人の友人がいる。

ヴィパッサナー瞑想という、10日間かけて瞑想を続ける取り組みがあり、彼はその瞑想に何度か取り組んでいる。

上記の歌詞の引用箇所について、「瞑想中、まさにそうだった」と話してくれた。

彼の人間性も、彼の作品も、好ましく思う私としてはとても嬉しい出来事だった。

この潮風のコラムを、瞑想とつなげるきっかけも、彼がくれた様に思う。

ヴィパッサナー瞑想という10日間の体験について、彼のnoteのマガジンで緻密かつ新鮮に記されているので、気になる方は読んでみてほしい。

なお、皆さんに瞑想を勧める意図は全くない。


『潮風』については、「般若波羅蜜」という海の世界を、人間という私たちの視点で、屈託なく軽やかに集約できているよう思っている。

夢を見過ぎかもしれないが、松任谷由実さんの「やさしさに包まれたなら」のような、教科書にも載る、国民みんなが知る歌になってほしい、という願いをこの曲には託したい。



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