4.美術館(丸に梅鉢・楽曲コラム)
この有名な諺も、もともとは英国の詩人バイロンの『ドン・ジュアン』という作品の中の言葉らしい。
いつの時代に日本語訳されたかは知らないが、断定の「なり」という締め。
語呂の良さと、切れ味が出ていて好きだ。
なんとなく、年をとればとるほど「ノンフィクション」というものの価値がじんわりとあがってくるような雑感がある。
その一例として、自分より年上の方から、こういう声を聞く。
「もうねえ、この年になったら、甲子園が泣けて泣けて」
甲子園の時期になると、この言葉を3回以上は聞いている。
皆さんは聞いたことがあるだろうか?
もしくは、共感を覚えるところがあるだろうか?
このセリフを「ライカ語」に訳そう。
・年をとればとるほど、仕立て上げられていない、生の物語が心に沁みるようになってしまった。
・不思議なものだけれど、感動とはいいものだなあ。
と、そんなところである。やや大袈裟だが。
皆さんの「感動」に、フィクションとノンフィクションの境目はあるだろうか。
私はこの『美術館』という曲で、フィクションとノンフィクションの境目で揺らぐ感動について描きたかった。
かなり感覚的に描いたので、人によっては分かりにくい曲だろうと判断している。
それもあって、敢えて、そのことについての具体的な体験を記しておこうと思う。
中学生の時、大阪の国立国際美術館で開催されている『モディリアーニ展』に行った。
当時は、モディリアーニという人物も、彼が生きた歴史も、作品も何も知らなかった。
知りもしない芸術家が描いた「絵」というフィクションで、深く感動したことに驚いた。
それから15年経ち、新設された中之島美術館でまた『モディリアーニ展』が開催されており、行った。
中学生の時とは違って、もう「モディリアーニ」を知っている。
私にとってモディリアーニは「フィクション」ではなくなった。
その時は、モディリアーニが描いた友人の肖像画に胸を打たれた。
派手ではないのだが、大切に描かれたその気持ちが、モディリアーニの人柄とともに伝わってくる作品だった。
15年前に感じた鮮烈なものとはまた違う感動だった。
その時、年をとると「事実」が感動に干渉してくる、そういうふうに出来ているのだな、と思った。
なぜなのかは分からない。
また年をとれば、分かる時が来るかもしれない。
「感動」を事実にしようとする行為は、皆がやっていることだ。
美術館でなくとも、ライブでも、公演でも、なにもかも「感動」するために足を運ぶのだ。
自己の体験に「感動」という事実があることは人生を豊かにする。
時がたち、フィクションとなってしまった感動を蘇らせるために、もう一度、もう一度、と足を運ぶ。
この歌詞の意味が伝わるだろうか。
歳月という自己の変容は、感動の形も変容させ、事実との融合性が上がってくる。
「事実は小説よりも奇なり」
自分自身の物語である事実を、自分自身で「感動」に向け動かせる人物でいたいという意味を込めて、最後にこの歌詞を。
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