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競技生活を振り返って⑪

・大学3年生 残り3ヶ月

3月に入り立川ハーフがあります。
タイムは67'52「15'19、31'24(16'05)、47'22(16'20)、64'14(16'30)、67'52(3'38)」でした。
目標は、66分切りだったので最初から突っ込むのではなくなるべく一定で15キロまで押して公園に入ってからはどこまで落とさず走れるかをイメージしていました。

具体的なレースプランのラップは5キロは15'10〜'20、5キロ〜15キロは15'25〜'40、15キロ〜20キロ15'50〜16'00、残りを3'20で走り66分を切る事でした。
3000mのロングインターバルで落ちても3'10/kmかからなかった事と故障せず走ってきた自分を信じていたからです。

スタートして公園を出て7キロあたりの給水で前の選手が急に避けて目の前に給水の机が出てきます。私は避けきれず転倒してしまい右の骨盤あたり、骨が出ているところを打ってうまく力が入らなくなりました。
無事にゴールはしましたが残り14キロ弱が地獄の様でした。集中も出来ず調子も悪くなかった分、悔しい結果になりました。

転ぶのも位置取りの駆け引きですし実力の内です。言い訳にしかなりません。

その後は新入生を混じえた富津合宿も始まり新監督になって新しくスタートしていきます。
そういえば、富津合宿で初めて1000×7を3'00/km切りで走れました。

・ラストイヤー

4月に入り、月曜日がフリー、週1の軽めのスピード練習とトラックでのポイント練習、jog日、坂ダッシュ、距離走のメニューの組み合わせで1週間がサイクルしていきます。
月間距離は昨年までとあまり変わらないのに質は上がり負荷が大きくなったと思います。

新監督になりレースを多く出させてもらえたので感謝ですし楽しかったです。

4月21日 日体大記録会5000m 15'11"37
4月28日 平成国際大記録会10000m 30'53"03

2本のレースに出場し10000mでは自己ベストで31分を切りました。調子が良く感じなくてもそこそこでは走れました。
これは私の感覚ですが、トラックの10000mのタイムが上がればハーフでロードならそのタイムで通過出来る気がしました。
だからこそ、10000mのタイムを伸ばす事は上尾ハーフまでにやっておくべき課題でした。もちろん、それに付随して5000mも取り組んでいきます。ハーフの為の練習を意識していましたし距離が伸びる方が得意だったので10000m〜ハーフペースに対して余裕度の引き上げの意識です。

出し切ったのもあり5月初めは暑さと疲労で体が動きませんでした。
そんな状態でも試合は走りたかったので前日をjogだけに変更した練習の流れで
5月12日 日体大記録会5000m 14'57"71を出してようやく14分台です。

公式戦はここまで。5月は関カレがあり応援をして練習をして黒く焼けました。


・就活

4年生といえば就活があります。
大学卒業後の人生の方が長いですから将来の為に大事な選択となります。


ここでは、就活の結果を最後まで書きます。

3月から就活を徐々にスタートして初めは雰囲気を知る事から始めました。
説明会や選考を本格的にスタートしたのは4月からです。数は覚えていませんが色々と説明会に行きながら就活と陸上に取り組んでいました。単位も取っていた為、授業の数が少なくて助かりました。

1度、水戸まで行って面接して実家で1泊、翌日帰寮してからのポイント練習は地獄でした。
寮から水戸は約2時間10分→水戸から実家は電車で約80分+最寄り駅から実家まで車で30分の2時間ないくらい→翌日、実家から寮まで約2時間の移動からのポイントはハードでした。

個人的に将来、やりたい事は特にはありませんでした。これまで陸上競技にしか向き合ってこなかった人生ですし説明会を聞いてみると興味を持ったところに選考に進んでみよう、くらいの感じで就活してました。

極端な話ですが、冷蔵庫が好きだからこのメーカーの冷蔵庫がある企業にいきたい人はいないと思います。それに、好きな事を仕事にすると嫌いになった時の反動が嫌でした。

興味を持った企業は意外と多かったですし視野を広げる意味では良い経験になりました。

大学前に勉強していた為、SPIも勉強をミッチリしなくても少しやれば思い出せるくらいの手応えでした。
降りる駅を間違えたり地図の目的地とは逆の方向に行ったりと大変な時もありました。

そんな中でセキノ興産から内々定をいただきます。関カレの頃です。
ちょうど説明会や選考に一区切りついていたのでセキノ興産に決めました。
暑い中でのスーツも嫌でしたしこれも何かの縁だなと思ったからです。
就職先を決めて終わりにはなりません。
(会社名を出すのは陸上の雑誌で名前と就職先が載っていたからです)

6月頃にセキノ興産陸上競技部のマネージャーが社業に専念するとの事でやってみないか?という誘いの連絡がきました。
「少しでも陸上と関われるなら」と思いお願いしました。
その後、同期の中井がセキノ興産への就職を掴むのでまた一緒のチームになります(笑)
この話にも続きがあります。

12月
経験者にマネージャーを任せる事になったという事で私のマネージャーの話は無かった事になりました。

しかし、話はそれで終わりではありません。
誘ったのにこのタイミングで話を無かったことにするのは申し訳ない、という事で設定タイムを決めて1年間選手として取ってくれる事になりました。

ちょうど箱根駅伝のエントリーメンバーが発表された後に監督からその話をされたので驚きを隠せませんでした。
治療院の先生などに話してもそんな話は聞いたことないと言われたくらいです(笑)

1年間実業団選手として走れたのは沢山の人達との「縁」によって実現した事です。
何事も巡り合わせだと思います。

1年浪人しなかったら、マネージャーが社業に専念しなかったら、新しいマネージャーが見つからなかったら…色々な事が重なって陸上競技を続ける事ができました。

バタバタと人生の進路が変わっていきましたがこんな感じで就活が終わりました。
内定者の集いでさらに何か起こるんじゃないか?と少し怖かったのも覚えてます(笑)

人生何が起こるか分からないものです。

高校の時、顧問の先生からは「かけっこで飯は食っていけないんだぞ」と言われたのにも関わらず、9ヶ月間そのかけっこでご飯を食べてこれたのは奇跡です。結果は付いてきませんでしたが楽しかったです。貴重な経験でした。

私の人生は人の「縁」で生きてこれた様なものです。なので、どんなに小さくても薄くても人との繋がりは大切にしたいんです。

前期の大学生活は就活と陸上の両立が苦労しました。次は6月からです。

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