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お金って愛の数値化だ

可能性は大、私のライフ。どうも在宅ワークス毎オムです。

実は我々は先月から始めたオンライン作曲集団なのですが(驚愕)、まぁ面白そうなことは色々やろうと思ってまして、毎週水曜日PM9;00より在宅RADIOをやっております。twitterで告知するので、よければフォローして聞いてくれると嬉しい。spoonでとりあえずやっているが、これは会員でなくても聞けるのでよければぜひ。

メンバー棚林と適当にトークテーマを決めて話すだけの企画なのだが、個人的には在宅勤務継続となり、独身一人暮らし、地元を離れて友人もいない私の唯一の人と会話する場ともなりかけており、これが毎週私のストレス軽減に結果的につながるような予感もしている。

とまぁ、プロの真似事みたいなことをして遊んでいるのだが、リスナーが増えたら(夢が大きすぎる)やりとりなんてして盛り上がっていきたいな~なんて思うので、twitterでコメントできるようにしたり、spoonでコメント見ながらやるのが側近の夢である。


以上が季語である。本題はここからだ。

お金に対する認識

皆さんはお金に対してどういうイメージを持っているだろうか?

いわゆる財産、どれだけ富を持っているか?というものを保証する紙切れであるわけだが、私はお金に対して親と使い方についてギャップを常に感じてきた。

私は昔から、お金は使わないと意味がない、というより日常のストレスを減らすためなら投資を惜しむべきではないと主張していた。

親は我慢してでももしもの時のために取っておくべきだ。と言っている。

もちろん、家庭を支える必要があるのでこう考えるのは当たり前なのかもしれない。

認識のずれを感じるのは、こんな紙切れで悩み事が一つ減るならどんどん投資すべきだ、と大人になるにつれ思い出したころだ。

逆もしかりで、必要のないものは捨てるべきであるとも思う。

私の実家は汚い家でもゴミ屋敷でもないのだが、父親が一生見ないであろう書類や広告、パンフレットを大量にため込んでいる。

しかもリビングの一角の床にバスケットに入れてだ。

親の寝床もそうだ、どう考えても使わないパンフレットや広告がテレビの真下においてある。

ようは、もったいない精神で捨てないでいたものがたまるのだが、考えてみると我が家は物を減らすことに対する美学がないように思う。

今でこそ私は、空白の場所、物の少ない居心地のいい場所に価値があると思っているのだが、そういう美学が1mmもない家庭である。

さらに父に関しては3年前に買った車の初期装備されている足元のマットの上に敷いてある紙(ごみ)ですらとっていない。理由は何かもったいないから。

標準でついているナビの使い方もあまりわかってないままにしている。

TVまわりについても、サウンドバー付きのTV台を買ったのだが、これは家電屋で買ったはいいものの使い方をろくに調べもせずただのTV台になっている。

わたしから言わせれば、手元の資金を渋るより、購入したものを100%活かしきれないほうが金をどぶに捨てていると思う。

例えば、10万円で買ったTVがあったとして、いろいろ機能がついているのにTVしか見なかったら、2万円で特に機能のないTVを買うのと同意なので8万円無駄にしている。

親の部屋のテレビはネットが見れるタイプなのにそれすら知らずに高いSONYのTVを買ってきた。

お金にシビアなくせに、情報をえもせずただ家電屋でそれっぽいものを買ってくる、その上使いこなさないのには疑問を隠し切れない。

なので、話はそれたが、引き算の概念というのがないのだということだ。

今これは必需品ではないが、買えば家事がはかどり時間が浮くな!や。ずっとストレスだけどまぁなくても生きていけるしな見たいなものにはお金を出さないのである。

部屋に物をため込むのも同じだ。引き算の概念がないのだ。

物を持っている=価値があると思っているのだとおもうのだが、

お金も一緒で持っていることに価値があるわけではない。

例えば、今急に実は日本銀行に裏付けされていた価値ははったりで1円の価値もありません!なんてなったら紙幣はただの紙切れだ。

その場合、物に交換したり、何かのサービスを受けた人の勝ちだ。

つまり、金自体に価値なんてないよな。なんて私は思うのであった。

人生100年弱だ。必要以上に我慢して意味があるのか?せっかくこの便利なものが発明され続けているならその恩恵を受けるべきではないかと思う。

お金って愛の数値化だ

とはいえ、私はこんな考え方をしているのでお金に余裕があるわけではない。死ぬわけではないので心配はしていないのだが。。

給付金が入り少し余裕が出たので何に使うか考えた。

結局私は、スマホを買い替えた。

去年買い替えたばかりだが、必要十分を考え、ミッドレンジと呼ばれる3万円台のmotorolaというアメリカメーカーのスマホを買った。

私は物を買うときものすごく調べ上げ吟味するタイプなので、スマホにつては結構詳しいほうだと思う。

その時はネット、SNSくらいしか使わないから十分か、と思って買ったのだが、すこしづつストレスを感じていた。

うごきが高いスマホに比べぬるぬるしていない、カメラの画質、おサイフケータイを使えない等など

べつに気にしなければ使えるのだが、一度気になると頭の片隅にそれが残って仕方ない。

脳の一部を使って考えているので、不要なエネルギーを使っているな~なんてまたそこでストレスとなっていた。

私の親に言えば、もったいないまだ使えるんでしょ?というだろうが、このストレスを減らすことに価値があると私は思った。

結果そのストレスと付き合わなくなるだけで、大して生活は変わらない。

でもそのストレスの引き算に数万円の価値はあると感じている。

私は自分が大好きなので、自分のためなら投資を惜しまない。

ペットがいて、自分が我慢してまでそちらにお金をかける人はペットへの愛が深いわけである。

楽器なんてのは3万円だろうが、50万円だろうが音を鳴らすという面だけ見れば同じだが、自分の食費を圧迫してまで高いものを買う人がいる。

自分をなげうってまで愛情を注げているのにはとても尊敬する。

わたしも欲しいギターがあるが、まだ自分のほうが好きなのかローンを組んで買うのには1歩足が出ない。

とまぁとりとめのない話をしてしまったが、

お金って愛の数値化だ

とドレスコーズ志摩がうたっているのを思い出したお話でした。

ではでは。

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