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猫の愛。

猫の愛は重い。

いや。そうでない猫もいるのかもしれないから、「うちの猫」とするべきだろうか。

この場合のうちの猫は、私が人生で初めて飼うことになった「うずら」である。うずらとの出会いと飼うことになった経緯はすでに「うずらの話。」で書いているので、そちらをお読み頂きたい。

生後半年以上、外の世界を生き抜いた後にうち猫になったうずらは警戒心が強く、私しか触るのを許さず、私とも距離があった。
うずらの方から膝に来てくれるとか、一緒に寝るとか。猫飼いあるあるな楽しみは得られないのかもしれない。
過酷な環境で育った猫だからそれも仕方ない。少なくとも、うちの中にいれば安全なのだから。そういう暮らしを提供出来ただけで十分だ。

そう思っていたのはいつ頃までだったろうか。具体的にいつというのは覚えていないが、いつの間にかうずらは一緒に寝ていたし、膝にも座るようになっていた。
この家に敵はいない、こいつは私の意のままに動く。
そう理解してからのうずらはなかなかに重い猫になっていった。

午前中はレクリエーションを要求し、午後は昼寝の添い寝、夜はべったりもたれかかって眠る。

うずらの好むレクリエーションは「ぴよちゃん」と呼んでいた親指大のひよこ(たぶん)のマスコットをもてあそぶことだった。

元々は猫用のおもちゃではなく、紐がついたストラップで、何かのおまけでついて来たものだった。私自身、それがどこから来たのか分かっていなかったが、いつしか存在していたぴよちゃん。

うずらはぴよちゃんを投げてやると狂ったように追いかけ、自分でも家中転がして「狩って」いた。
ほら、野良育ちだから。
外界では何かを狩ってたんだろうね。
怖くて想像出来ないんだけど。

次に好んだのは我が家で「カシャカシャ」と呼ばれる、先に飾りのついた棒を毛布などの下に差し込み、先をちょっとだけ出して見せるという遊びだった。
それも先が見えた途端、狩る。
百人一首の札取る時みたいな勢いで、狩る。
そのスピードはまさしくクイーンだ。
挙げ句に毛布の上から飛びかかり、その下にあるカシャカシャをあらん限りの暴挙を尽くしていたぶる。

そうしたちょっとアレな感じの遊びに夢中になっていたうずらは、いつしか、それに飽きた。

猫、飽きますよね。
何だろうね、あれ。

カシャカシャだって壊した時用に買い置きしてたのに憑き物が落ちたみたいにさ、突然興味をなくすのね。
本当に「飽きた」って顔に書いてるの、どうなんだろう。
犬を見習えよ。

それでもレクリエーションタイムはうずらの中で厳格に存在していたので、遊ぶことを要求される。
「今日はどんな遊びで私を楽しませてくれるかしら?」という顔でお待ちになっている。

うずらは野良育ちのせいか、堂々と要求はして来ないが、こちらの罪悪感をうまい具合に突くのがうまい。
きちんとお座りして待っているうずらの姿が視界に入ると、「遊ばなきゃいけない」という使命感が頭を擡げてくるのだ。

視線を感じて見れば、扉の影から顔を半分出したうずらが私を見ている。
何かしなきゃいけないと焦る。
つまり、私が奴隷体質であるのを見抜かれたのだと思う。

それから幾つかの遊びが流行しては廃れていった。

家中の隙間という隙間にぴよちゃんを隠し、私に捜させる遊び。

ぴよちゃんを椅子の脚の間へデコピンで飛ばす私を眺める遊び。

ぴよちゃんを階段の上から投げ、取ってくる私を見物する遊び。

どれもこれも私がいかに自分の言うことを聞くのか、試しているような遊びだ。
ちょっと書いてて涙が滲んで来た。

私は長年、昼食を取ったら昼寝するという習慣があるのだが(早起きだから眠くなるんですよ。オマ優雅な生活してんなとか、殴らないで下さい。勘弁して下さい)ベッドに仰向けに寝転がると、どこからともなくうずらが現れる。
そして、脚の間か左腕と左脇の間という、絶妙なポジションに収まる。

猫的に最高ポジなのかもしれないが、ヒトは辛い。
ちょっと場所をずれて貰おうとすると噛まれる。うずらが完全に寝付くまでは動いてはいけないのだ。
私はひたすら耐え、気絶するような数十分の睡眠を経た後、うずらが寝ているのを確認し、そうっと起こさないように抜け出す。
辛い。
昼寝が既に修業だ。

夜は夜で、犬と猫にサンドウィッチされうっすいハムみたいになって眠る。
私は小柄なくせにセミダブルロングというほんのりでかいベッドで寝ているのだが、何故か犬も猫も真ん中に寝ようとするので、私は端っこに追いやられる。
どんなにベッドがでかくても無意味だ。

何故だ。
せめて一匹は隣で同条件のベッドに寝ているクマの方へ行けばいいと思うのに、どちらも行かない。
何故だ。

そんな暮らしの中でSNSなどを見てふと妄想することがあった。

多頭飼いをしているお宅でしあわせそうに寄り添って眠る猫たち。
もしかすると、うずらも仲間が出来たらこんな風に一緒に寝たりするのではないか。
うちにいるのは犬だけだから(しかも頑固なじいさん柴犬だから)、私に執着するのではないか。

愛を分散させることが出来たなら。

ほんのり抱いていた妄想が現実となる日は、突然、やって来た。

さわりは「骨が折れた。」編をお読み頂きたいが、誓って言うならば、広島へ行く前は新しい子猫を迎えようとは微塵も思っていなかったのである。
だって、手が折れてたし。
さすがのおつむ弱い私でもそんな大それたことは思いつきもしなかった。
手が折れてたからね。

けれど、手が折れていても子猫は可愛かった…。(負け確)

惑わされまくり、連れて帰ることになった子猫は、広島からの帰り道「もみじ」と名付けられた。

家に戻る前、子猫の為のケージやトイレ、他にも色々買い込みながら、うずらはどういう反応を見せるだろうかと心配していた。

仲良くしてくれるだろうか。
うずらと同じ女の子。
まだ二ヶ月という子猫だから母性が爆発したりしないだろうか。

いや、きっと母の気持ちになってくれる。
もう母性爆発でぺろぺろだ。

そんな夢を見たのは罪悪感が裏返っていたからかもしれない。

ここまで読んだ猫飼いの方なら、大抵想像がついてるだろう。

うずらの母性は爆発しなかった。

その反応は「信じていた夫の浮気を知った妻のそれ」だった。

「なにその子?誰?誰なの?なんでうちに入って来てんの?なんなの?ていうか何処行ってたの?いなくなってた詫びもしないで、この仕打ち?本気なの?」


あれは…?

扉の影から見つめるうずらに対し、もみじは臆することなく突っ込んでいこうとする。
シャーッと威嚇されても突っ込む。
犬は留守番のご褒美を要求する。
猫が二匹に増えたことに気づいていない。(いつ気づいたのか謎)

軽いカオスだ。


猫?そういや…なんか小さくなったような…いや小さいのが増えたんか?

それでも取っ組み合いの喧嘩になるとか、そういう大惨事は起きなかった。
犬は子猫とうずらの区別がついてなかったようだし、うずらは「あたしに近付くんじゃないわよ?この線から出ないでね!絶対、出ないでよ!線から出ないでって言ってんの!出ないでって…聞いてんの!?なんであたしの方がどかなきゃいけないのよっ…シャー!」というスタンスで子猫と接してくれていたので、争いにはならなかった。

半年以上、外界で勝手に生き抜いたうずらに対し、生後間もなく拾われ育てられたもみじは、同じ野良とは思えない差があった。

もしかすると、世間で言う猫はこっちの方が一般的なのかもしれない。
触っても噛まないし引っかかれない。
様子を窺うことなく、ひょいと抱き上げて移動させられる。

今はまだマシになったが、数年の間、うずらは持ち上げることにも緊張した。唯一、触れることの出来る私でも、だ。
もみじはクマだって抱き上げることが出来る。

それに動きがゆっくりだし、常に辺りを窺っていない。
何処でも腹を見せて寝たり、廊下の真ん中に落ちていたりする。
まるで血統書付きの貴族であるうちの犬と同じだ。
氏より育ちというのを実感した。

でも、かといっておっとりしているわけでもなく、犬にもうずらにも背後からアタックをかましたりして、性格はきつかった。

おかしい。
四姉妹の中では一番踏みつけられていると聞いていたのに。

おとなしいだろうからうずらとも喧嘩になったりしないという目論見は、犬とうずらとヒトがその天真爛漫な傍若無人さに降参するという、予想外の形でかなったのだった。


この家はあたしの配下に置いた!

もみじは子猫らしいいたずら…コードを噛んだり、段ボールを噛んでバラバラにしたり、高いところに上って家庭内サスケごっこを楽しんで色んなものを落としたり(深夜に神棚を落とされた時は少し泣いた)…をするが、思えば、うずらはいたずららしいいたずらをしなかった。
野良育ちの影響だったのだろうなと不憫に思いながら、もみじに見習うよう言い聞かせたりするが、聞いちゃいねえ。
猫だからな。

聞いちゃいないのはこっちよ!

あれから間もなく一年。

うずらもすっかりもみじの存在になれ、なんとなく「仕方ないわね」という感じで暮らしている。
偏食のもみじが残すご飯をそっと片付け、下腹にお肉を蓄えたりして。

一緒に寝たり、仲良く毛繕いしたりする姿は見かけないし、これからもあり得ない気もするが、三匹がそれぞれ勝手にやっているのもよきかなと思っているのだが。

レクリエーションタイムはなくならなかったし、ベッドで眠る生き物は一匹増えた。うずらからの執着に加え、もみじの嫌がらせに耐える日々が続いている。

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