松村圭一郎『旋回する人類学』【基礎教養部】
まず私は「文化人類学」というものが何なのか今まで知らなかった。この本を選んだ方(同コミュニティの)はばりばりの理系だが大学で人類学が面白いことに気づきこの本を読んだという。私は大学に入ってから確かに高校から好きだった数学や物理は今も好き(しかしさぼってしまってはいる)だがほかの学問に興味をもった試しがない。せっかく学びの機関にいて図書館も使い放題だったりするしもっと多くのことに興味を持ちたい。
本書ではまず文化人類学のその定義が困難だと書かれている。なぜなら文化人類学は何度も大きなパラダイムシフト、すなわち旋回してきたからだ。具体的には研究対象の変化や前提となる理論枠組みが入れ替わってきた。
2章1の他者理解の方法について。人類学の基本となった他者理解の方法論として「参与観察」がある。「民族詩学者も、ときにはカメラ、ノート、鉛筆をおいて、目前に行われているものに加わるのがよい」。他者理解と言って私がまず思いついたのは今現在進行系で読んでいる本「はじめての哲学的思考(著者:苫野一徳)」だ。これはコミュニティで前に取り扱ったときに読んで、なんかまた読みたくなったので二回目読んでいるところだ。この本では哲学とは答えのないものを思考し続けていくことではなく、対話でを通して共通了解を目指すものであると述べている。この共通了解を目指すという行為は日常でも見受けられる。
一旦少し話を脱線するが私は大学に入って「まじめな話し合い」をすることが増えた。組織を円滑に運営していく目的でよく対話することがある。でも大抵が答えのないものである。そんなとき答えがないからいいやと投げ出すのではなくみんなが納得できるような第三の意見、共通了解を目指すのが正解というわけである。ちなみに共通了解を目指す上で有用な考え方が「欲望」の次元まで掘り下げてそれを比較することだ。なぜ「欲望」かといえばそれが一番スタート地点だからだ。「~したい」に対してなぜかと問うことはできない。
5章2神の概念について。昔の人は災害や病は神によるものだと考えていた。しかし現在の人間はそうは考えない。なぜなら起こるメカニズムを科学によって理解しているからだ。昔の人に対してそんなものを信じているのはばかだと笑うことはできない。私たちも科学を信じ込んで納得しているからさらに次の「何か」によって新たな説明ができるのなら宗教と変わりない。しかし、昔の人がどういう気持ちで神を信じていたのかは気になる。科学を信じているのは、大勢の天才的な科学者が実験、思考し再現性も獲得し、矛盾なしと結論づけたものであるからまあ信じるのはわかる。しかし、雷が降ってきて神が怒っていると考えるのは飛躍している。実際、昔の人ってみんながみんが神を信じていたのか。そもそも生まれたときから神はいるものとしてあったから疑うことがなかったのか。聞いてみたい。
ちなみに科学にとってかわるさらに高次元の「何か」があるのかどうか本当に気になる。未来か過去か行けるならどっちという質問があるが未来の方が行きたいに決まっている。地球が滅ぶ寸前の文明が最大まで進んだ状態の世界はどうなっているのか、それを知れないまま死ぬのが非常に残念である。また、宇宙のどこかの星ではすでにワープが実現しているかもしれない。いま宇宙のどこかで宇宙人が生活していたらそれだけでなんか面白い。
7章2偏角と実践の学問へについて。他者との差異を「観念や信仰や価値から組み立てられている構築物」すなわち「文化」と呼ぶもので説明しようとする態度が残っていると書かれている。そこである人類学者は人類学の第一原則として「他者を真剣に受け取ること」を掲げている。他者を真剣に受け取る、なんかとてもざっくりした感じのことだがこういうことこそ確かに重要だと私も思う。ありきたりな言葉だと一蹴する人はまさに他者を真剣に受け取ることができていない。
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