勅使川原真衣『「能力」の生きづらさをほぐす』【基礎教養部】
この記事は下記の書評とnote記事をもとに作成したものである。
私が人より能力がないと感じたことの1つは中学のとき、部活でやっていた水泳だ。小学2年生のときから水泳をはじめて高校まで続けた。男女合わせて20人ちょいいた中で私の泳ぐ速さは下から数番目くらいだった。私の部活での練習メニューというとひたすら泳ぐことだった。泳ぎ方について教え合ったり技術的な面についての練習はなく、足だけで泳ぐ、手だけで泳ぐ、何秒以内に泳ぐといった制限はあるものの基本的に泳ぎ続ける。今までの人生を振り返ってもこの頃が一番肉体的にきつかったし頑張っていたと思う。しかしタイムは上がりはするもののほかの人たちには勝てない。部活で一番手と二番手はともにジュニアの頃からやっていて選手コースに所属していた人であった。中学3年間の頑張りとその結果をみて分かったことは、才能がなかったら頑張っても勝てない部分はあるということだ。しかし同じ人間なのだからできないはずがないというのにも頷ける。速く泳ぐためには、最大限水の抵抗を減らしつつ、最大限水を後ろに送ればいい。その反作用で前に進む。他のスポーツでもいえることだが、物理的に考えて同じような形をした物体がここまで速さや動きに差がでるのは不思議だと思いながら泳いでいた。自分と彼らには100mで十秒以上の差が生まれてしまう。埋めることのできないほどの能力の差は確かに存在するのである。
この世のできごとはあらかじめすべて定められているという宿命論、運命論というものがある。大抵の話はここにたどり着くと思う。能力は生まれついての才能によって決まる部分がある。しかし努力次第では才能がなくても能力を伸ばすことは可能だと言われている。ではその努力をするという行為に才能は必要なのか。努力できる人とできない人は存在する。そこに差があるということはやはり努力にも才能が必要ということなのか。努力の天才という言葉がある。努力というのは才能に関係なさそうなのに天才というのは矛盾してそうな言葉だ。
また、能力主義の問題点についても触れられている。能力に基づく評価は問題。しかし能力の内容が時や場所、評価する人によって変わるというのに加え、能力と能力でない部分の境目も難しい。意欲や態度といったものも、1つの能力かもしれない。そうだとすると、例えば勉強が苦手な人はどうするべきなのか。勉強に取り組み始める能力、勉強を何時間もし続ける能力、こういったものも才能によるものだとすると、やる気とか根性とかいう言葉ではどうしようもなくなる。
テレビを見ているとよく殺人や暴行、交通事故のニュースが報道されている。自分の身内や知り合いがそういった被害にあったら誰しも怒りを覚えるだろう。しかしその怒りは誰に向ければいいのか。犯行をおこなった加害者なのか。その加害者を育てた親なのか。そういった人格を形成した環境なのか。結局、誰も悪くないのかもしれない。しかし、被害者は明確に存在してしまうので、その怒りの矛先はどこにむければいいのかわからなくなる。
現在でもこのようなあらゆる事件がなくならずにいる。殺人事件を例にとると、これを無くすにはどうすればいいのか。刑期を重くすることで抑止力にするという方法がある。しかし上で述べたように、殺人を犯す原因となるものは無数に存在する。親からの暴言や虐待をなくすなど、育つ環境とよりよくすることでも減らすことができる。
生まれきの親からの遺伝、そして周りの環境によってその人のすべてが決まるとするなら、自由意志は存在しないかもしれない。いまこう考えたり感じたりすることもすべて必然だということだ。仮にそうだとすると、この世のすべてのことに対して、仕方ないと言うしかなくなる。人が悪いことをしても、その人にはどうしようもない、仕方ないだ。もっというと、ここで仕方ないと感じることも決めれていることになる。