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予告編

 いったいいつから、映画館はこんなに明るく、きれいになったのだろう。
 森住英輔はシネコンのロビーで、待ち合わせの相手を待っていた。淡いグレイのカーペットが敷き詰められたロビーには、いくつものテーブルが置かれて、映画の上映開始を待つ客たちが、コーヒーを飲んだり、ポップコーンを食べたりしている。森住もホットコーヒーを買うと、テーブルの一つに陣取り、エスカレーターの上がり口をじっと見ていた。このシネコンはショッピングモールの上層階に入っているのだ。
『映画を見に行きませんか?』
 めずらしくも、そう誘ってきたのは、恋人である貴志颯真の方だった。
『封切りが延期になっていた映画が、やっと公開になるんです。ずっと待っていたので、できたら公開日に見に行きたいのですが』
 いいよと頷いたら、その場でプレミアムシートのチケットが渡された。
「俺が断らないと思ってたと……」
「英輔は優しいですからね」
 いつの間に来たのか、いや、忍び寄ったのか、すぐそばに貴志が立っていた。存在感抜群で、場合によっては数十メートル離れていても、そこにいることが知れるくらいのキャラなのに、武道をやっているせいなのか、貴志は気配を殺すことが実に上手い。やろうと思えば、森住を無抵抗のまま、身ぐるみ剥いで、ベッドに投込むことも可能だ。
「いつの間に上がってきたんだよ……」
 もう驚きもしない森住だ。周囲のざわつきにも慣れてしまった。何せ、この男は普通の容姿ではない。滑らかな真珠色の肌とオリーブグリーンの瞳、金髪の混じった長い栗色の髪、そして、腰の位置の高い抜群のプロポーション。それだけでも十二分に人目を引くのだが、その上に英米ハーフである彼は、まるで人形のように整ったパーフェクトな美貌の持ち主だ。
「上がってきたのではありません。下りてきたんです」
 貴志はすいと手を伸ばして、森住が手にしていたコーヒーを取り上げた。一口飲んで、くすりと笑う。
「あなたのことだから、先に来て、エスカレーターを睨んでいると思ったので、裏をかいてみました」
「裏をかくとか……意味わかんねぇ」
 考えを読まれてしまったことが妙に悔しくて、森住は低くつぶやく。
「コーヒー、まずくないか? あんたの口、おごってるから」
「別に口はおごっていませんよ。このコーヒーはいくらでしたか?」
 貴志はもう一口コーヒーを飲む。
「300円だったかな」
「それなら妥当でしょう。この味で500円以上と言われたら、少し考えますが、300円にしては頑張っている方ではないかと」
 貴志は恐ろしくセレブな育ちをしている。海外にもホテルを持つリゾート企業を経営する裕福な家で育ち、今も、実家が持っている五つ星ホテルで『暮らして』いる。しかし、日本人である祖父母にしっかりとしつけられた彼は、意外なくらいに金銭感覚がまともだ。この値段なら、このくらいの味という認識がきちんとできている。だから、めったに「不味い」ということは言わない。『この値段なら、妥当でしょう』という言い方をする。貴志の美点の一つに『理不尽なクレームは言わない』というのがある。彼は基本的に上品なのである。彼が下品になるのは……。
“えっち絡みだよな……”
 なぜか、セックスに絡んだ話になると、とたんに下品というか、いろいろなものがあからさまになる。
「まったく……」
「どうしました?」
 思わず、声に出てしまった。貴志が怪訝そうにこっちを見ている。森住は慌てて咳払いをした。
「何でもない。それでさ、何の映画見るんだ?」
「はい?」
「いや、あんた、映画のタイトル言わなかっただろ?」
「調べなかったんですか? 今日ここで、この時間に上映していて、公開が延期になっていたといえば、わかると思いますが」
「あ、そっか」
 考えもしなかった。
「あんたが見たいって言うなら、俺の好みから外れることはないだろ」
「その謎の信頼はどこから来るんです?」
 小さな丸いテーブルを挟んで、向かい合う。長身で、ものすごく目立つ二人である。凜々しいハンサムである森住と、欠点が一つもないパーフェクトな美貌の貴志の組み合わせだ。周囲の視線は、まるで引きずられるように、二人に向けられている。
「うーん、食の好みかな」
 森住はさらりと答える。
「あんたと俺の食の好みはぴったり合ってる。人間の根源的な欲の一つである食欲の好みがぴったり合ってるんだから、それ以外も合ってるんじゃないのか?」
「もう一つ、合っているものがありますよ」
 貴志の口元から、白く大きめな犬歯がのぞく。彼がこの笑い方をする時には、ろくなことを考えていない。
「……黙れ」
「もちろん」
 すっと顔を近づけてくる。
“毛穴も見えねぇや……”
 本当に陶器でできているんじゃないかと思えるような真珠色の肌。完璧な曲線で形作られた造形。
「性欲。セックスです」
“言うと思った……!”
「触るなよ」
 テーブルの下でよからぬ動きをしようとした彼の手を、ぱしっと捕まえる。
「いい反応ですね」
 彼がにこりと微笑む。貴志が少林寺拳法の有段者なら、森住だって剣道の有段者だ。彼と出会ってからは身の危険を感じることが多いので、最近は真面目に道場に通い、鍛練を続けている。久しぶりに四段の昇段試験を受けてみないかと、師匠にも勧められている程度の稽古は積んでいるのだ。早々簡単に痴漢行為を受けてたまるか。
「……まだ上映開始にならないのか?」
 テーブルの下で小競り合いを続けながら、森住は言った。
 プレミアムシートは、通常の1.5倍の広さのあるシートだ。その上、隣の席との間に仕切りがあり、個室っぽい雰囲気がある。つまり、隣から触られる心配はない。映画の上映が始まり、館内が薄暗くなったら、絶対にこいつはよからぬ行為に走りそうだが、今日はセレブな彼に感謝しなければ。レストランでもどこでも、予約をするなら、つい最上の席を取ってしまうセレブな彼に。
「ああ……そろそろですね」
 ようやく、貴志が手を引っ込めてくれた。
「中に入れるようです。行きましょう」
 上映開始の15分前だ。開場である。先に立って歩き出した貴志の後について、森住はチケットをもぎってもらって、いくつものスクリーンが並ぶ館内に入る。
「こっちです」
 一番大きなスクリーンに森住を招いて、貴志は美しく微笑む。
「さぁ、どうぞ」
 まるでよく訓練された執事のように、完璧な微笑みとポーズで、貴志は森住をエスコートする。
「……」
 扉に描かれたスクリーンナンバーの上に、上映される映画のタイトルが見えた。

『無敵の城主は恋に落ちる」』

 さぁ、物語の始まりだ。