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恋する救命救急医「カウンターの内緒話」

「トムが帰ってきた?」
 「le cocon」のカウンターに座り、ウイスキーを楽しんでいた篠川臣が顔を上げた。
「ビザの書き換えにね」
 いつもの指定席に座って、賀来玲二が頷く。
「実は何回か帰ってきているんだけどね、変な見栄があったのか、店には来ていなかったんだよ」
「え、そうなのか?」
 篠川の隣には、神城尊が座っている。ビールのつまみは、揚げたてのポテトチップスである。
「何だ、行方不明じゃなかったのか」
「何ですか、その残念みたいな言い方」
 今日もノンアルコールのカクテルであるパイナップルクーラーを飲みながら、筧深春が呆れたように言う。
「だいたいですね、あのウェイターくんを家出させたのは、先生みたいなもんなんですから、もうちょっと責任感じたらいかがですか?」
「まぁ、家出と言っても、紐付きですから」
 賀来が鷹揚に笑った。彼の前には、いつものようにアメリカンフィズ。
「紐付き?」
 神城が片眉を上げるのに、篠川が肩をすくめる。
「トムには、玲二から給料が出てるんだよ。つまり、出張ってわけ」
「出張? 何だ、そりゃ」
 カウンターの中では、藤枝がおっとりと微笑んで、賀来たちとは逆サイドに座っている宮津と話し込んでいた。その藤枝に聞かれないよう、四人はこそこそと話し合っている。
「えらく恵まれた家出だな・・・」
「あいつを拾ったのは僕ですからね」
 賀来が微笑む。
「責任は最後までとらないと。あいつの人生に、僕は踏み込んでしまったんだからね」
「人生に踏み込んだ・・・か」
 神城がつぶやいた。
「何か・・・重いな」
「そうでもないですよ」
 賀来は軽く首を横に振った。
「あいつは、僕の紐を引っ張った上で、結構自由にやっています。あいつはね、見た目以上にしたたかなんですよ。しっかりと僕を利用して、僕もあいつを利用してる。僕とあいつは、意外とビジネスライクなんです」
「ってことにしてる」
 篠川がひょいと言葉を挟んだ。
「そうでないとね、二人ともアイデンティティーを保てないの。弱いよねー」
「へ?」
 神城がきょとんとしている。
「何だよ、そのアイデンティティーってのは」
「トムは野良猫としてのアイデンティティー。玲二はその飼い主としてのアイデンティティー。そんなの、どうでもいいと思ってるんだけどね」
 篠川はさらりと言うと、手を伸ばして、神城の前のポテトチップスを一枚取った。
「うん、塩きいてておいしい。こんなの食べ始めたら、止まらないよね」
「で? 最終的には、どうするつもりなんだ?」
 神城がポテトチップスの皿を引き寄せながら言った。
「いつまでも、ふらふらさせとくわけにはいかないだろ?」
「さぁて」
 賀来はおっとりとしている。
「ロンドンの知り合いから、店を任せたいみたいな話も来ていますからねぇ。あいつを日本に縛り付ける必要もないかなとは思ってます」
「それなら、おまえの店を海外に出したらどうだ? ミシュランの星持ちなら、海外に店出してもいいだろ?」
 神城がのほほんと言った。
「あー、でも、あのウェイターくんは、ミシュラン星持ちレストランの支配人ってガラじゃないか」
「なにげに失礼ですよね、先生って」
 筧がちらりと神城を見る。
「先生だって、救命救急センター副センター長ってガラじゃないですよ」
「おまえだって、なにげに失礼じゃないか」
 神城が手を伸ばして、ぺんと筧のおでこをはたいた。
「やめてくださいよ」
「おまえの頭、はたきやすいところにあるんだよ」
 じゃれ合っている二人をほっといて、篠川は賀来の方に向き直った。
「でも、ほんと、どうするつもり? トムがここに顔を出したってことは、そろそろ帰ってきたいんじゃないの?」
「そうでもないと思うよ」
 賀来は少しも慌てない。ゆっくりとアメリカンフィズを飲み、ふうっとため息をついた。
「今回は、僕の友人の息子を連れてきたんだよ。一人だったら、どこにでも潜り込めるけど、一応連れがいるから、落ち着き先として、ここに来たんだと思う。ホテルも基本的に昼間はいられないでしょ。ここなら、落ち着いて長居できるし、眠くなったら、二階で寝られる。それだけだよ」
 賀来は、自分の前にあるドライフルーツを口に入れた。柔らかいパイナップルをゆっくりとかじる。
「でもまぁ、日本に帰ってきたいなら、それはそれでいいと思うよ。そうだなぁ・・・トムに店を任せてみたい気もする。何だったら、ここをトムに任せて、藤枝には別の店を任せてもいいかなぁ」
「玲二」
 篠川がじろりと賀来を見た。
「冗談じゃないぞ。また店を増やしたりしたら、おまえが忙しくなるだけじゃないか」
 この前の騒ぎを、篠川はちらりと皮肉った。
「またぶっ倒れたりしたら、今度こそ仕事を辞めさせるぞ」
「やだなぁ・・・気をつけてるじゃない」
 乾いた笑いを頬に貼り付けて、賀来はこそこそとアメリカンフィズを飲んだ。
「それに・・・藤枝なら、この前ほどおんぶにだっこしなくても、店を出せるよ。そうだな・・・藤枝なら、カフェでもいいし・・・いや、カフェはトムかな。で、藤枝がバー・・・」
「玲二」
 篠川が冷たい目で賀来を見た。
「前言撤回。過労の前に、僕が殺してやる」
「おいおい」
 物騒な発言を小耳に挟んで、神城が向き直ってきた。
「何、痴話げんかしてんだよ」
 篠川がじろりと神城を見る。
「痴話げんかはそっちだろ。いいから、その子犬くんと遊んでてくれ」
「あ、また犬って言った」
 筧が噛みつく。篠川が小爆発を起こした。
「だーっ! うるさいっ。黙って飲んでろっ」
「こんばんはー」
 ドアが開いた。するりと夜の風をまとって、噂の主が入ってくる。
「うわぁ、勢揃いしてる-」
 入ってきた美少年もどきが、にっと笑った。
「みんな・・・暇なのかな?」