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英文仏教書講読The Art of Solitude(第10回:5章その2)

英文仏教書講読第10回、モンテーニュの『随想録』から「孤独について」の文章を抜粋した章の後半を読んでいきます。渡部るり子さんの訳文を下記にコピペしておきますので、それをみながら視聴してください。感想や質問は、コメント欄にお願いします。

英文仏教書講読第10回、モンテーニュの『随想録』から「孤独について」の文章を抜粋した章の後半を読んでいきます。渡部るり子さんの訳文を下記にコピペしておきますので、それをみながら視聴してください。感想や質問は、コメント欄にお願いします。 第...

Posted by 松籟学舎一照塾 on Friday, October 8, 2021

5章(後半)

だから、人から離れたり、どこか違う場所に行ったりするだけでは不十分なのである。自分の中にある人としての習慣を取り除かないといけないのである。自分自身を隔離し、自分自身を自らの手に取り戻さないといけない。私たちは自ら鎖を背負っている。つまり、私たちは完全に自由ではない。私たちは残してきたものに視線を戻してしまうものである。私たちは常に幻想を抱くものである。
私たちの病とは、病が私たちの魂を握っており、魂がそこから逃れられないということにある。だから私たちは魂を引き寄せ、私たちの中に取り戻さないといけないのである。それが真の孤独である。つまり、街中や宮廷にあっても、離れた場所にあってはより好都合に、そのことを楽しむことができるのである。
私が愛し、強く薦める孤独とは、主には感情や思考を自らに取り戻し、これまでと同じ道を歩むのではなく、欲望や不安を阻止し、抑制し、外的な事柄を心配するのを拒否し、束縛や義務から自分の大切な生命を解き放つということである。人間らしさから遠ざかるのではなく、人間の雑事から遠ざかるということである。
哲学者のアンティステネスは、人は浮かぶことができる所有物を持っていないといけないと冗談をいった。船が沈み始めても、共に逃げられるようにと。
もちろん、妻、子供、財産、何にもまして健康がないといけない。しかし、こういったものがないと幸せになれないというようなやり方で、執着してはいけない。
こういったものを自らのものにするのである。しかしながら、あまり熱中したり一緒になったりせず、すこし距離を置くことができるようにしておかなければならない。この過程において自分の肌を剥ぐといったようなことがないようにしなければならない。この世の中で最も大切なことは、自分のためにあるという方法を知ることである。
例えるならば、私たちは、店の奥にもう一部屋、確保しておかなければいけないのである。自分だけのために、完全に隔離できる場を持つことで、孤独のための大切な静養の場として、本当の自由を確立するのである。そこでは、―誰にも干渉されず、一切の外界との接触やコミュニケーションを絶つことによって― 自分自身との何気ない会話をまた始めるべきである。妻、子供、財産、従者、御者が存在しないないかのように、自分自身と話したり、笑ったりできるのである。そうすることによって、様々なものを失う時が来ても、何も新しいことはない。
私たちには他人との繋がりを断っても、十分に自分の友となり得るような魂を持っているのである。攻撃したり、防御したり、与えたり、受け取ったりするような手段も持っているのである。孤独になると、体を縮めて退屈するだけという訳ではないので、心配することはない。
動物を見習って、隠れ家の入り口で足跡を消せばよいのである。世間がどう言おうと、もはやあなたの関知するところではないのである。どのように自分と話をするかということだけに、関心を向けるべきである。
自分自身の中へ退きなさい。ただし、なによりもまずはじめに、自分自身を迎え入れる準備をしなさい。もし自分自身をどのように処すべきかを知らなければ、自らを自らに委ねるというのは狂気の沙汰であろう。社会の中にいるときと同じように、孤独の中にいるときに失敗するいくつものあり方があるのだ。
踊るときには、踊る。眠るときには、眠る。美しい果樹園の中を一人で歩いているときにでも、他の場所での出来事を考えるだけで意識が一杯になってしまうときがある。一方で、自分の意識を、歩くという行為に戻し、果樹園に戻し、孤独という甘美さに戻し、自分に戻すときもある。
本当のことを言うと、閉じこもって孤独になると、むしろ自分自身の水平線を広げ、自分自身を外に広げるようになるのである。一人の時には、様々な情勢や広い世界に対して、より進んで身を投じられるようになる。

(第11回に続く)


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