靈峰の二日
募集文藝
靈峰の二日
函館區辯天町二十三番地
函館商業學校生
菊池よし夫(十六)
八月十日午前六時三十分の列車に乗
込みし吾等一行三人早朝の眠さをこ
らへつゝ目的地の比羅夫に向ひぬ。
いつも變らぬ窓外の景色に疲れし眼
はいつしか眠りに入りぬ。やがて一
時間程眠りし頃隣られる人に起され
ぬ。このあたりの連山は皆なだらけ
き故さほど珍らしからねど列車の煙
眞黑く渦巻て山腹を流れるさまさな
がら春の長閑に似ぬ。森をすぐる頃
より展望漸く開け渺茫たる噴火灣は
眼のあたり白波をひたらしぬ。やが
てのことに列車の右方にもや/\と
群れる夏雲に包まれし富士に似し山
を見出しぬ。列車は平原を走りつく
して幾多の山を縫ひ始めぬ。その間
た江ず七千尺の高山は左に見江右に
かくれつしてそのつくる所を知らず
かくする中にHをさること百二十一
哩比羅夫に到着しぬ。時に三時六分
なりき。
日も漸く山にかくれ身に涼しみを覺
ゆる頃登山輕装に更江し吾等は白木
を八角にけづりし金剛枝姿勇ましく
夜露の光る草木をかき分けつゝ一合
目に達しぬ。こゝより一歩一尺の急
峻なれば足弱き吾等の苦しみ實に言
筆につくす能はざりき。六合目あた
りに來りし時眞赤に燒けし西の空も
むらがる雲にさへぎられて薄らぎぬ
うね/\とはひしガンピ、オンコ等
の大木の物凄き中を行く程に日は全
く暮れぬ。提灯だに持たぬ吾等手さ
ぐり足かき分けて登りし程に中空に
大きなる月眞白き光を投げ出しぬ。
吾等その快を語りつゝ尚も急峻をた
どる中に頂上宿泊所の燈火に遇ひ一
段の元氣を加へぬ。時に十時。正に
四時間を費しぬ。その夜は疲れし体
を横たへ、明れば十一日午前三時絕
頂に到りて日の出の壯觀を見ぬ。四
方を見渡せば底知れぬ程の密雲一見
海洋の如く或は氷山の漂流するさま
とも見ゆ。やがて眞紅に雲は燒きち
ぎれて偉大なる日輪はその日の幸を
豫記するが如く登りぬ。「万歳」「万
歳」と叫ばれる聲眼の下の噴火口に
ひびき遠くこだまして大木をゆるが
せしとや考へられぬ。
「苦あれど樂あり」げにや古言のいつ
はりなき。かくして吾等の希望は全
く終りぬ。(列車中にて)
(函館毎日新聞 大正5年8月24日 一面 より)
函館市中央図書館、国立国会図書館、所蔵
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