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「王友」の歴史を語る座談會

(昭和十六年十一月二十六日)

出 席 者
   舊「王友」委員
佐 上 富 造
市 川 義 夫
村 上 藤 太 郎
菊 池 義 夫
鳥 羽 松 次
   「産報文藝部」委員
      木 村 健 次 郎
      高 橋 關 晴
      石 川 彌 太 郎
      中  尾  玄
      大 石 敬 事

 一、 創刊當時の 「王友」

木村――王友の沿革に就ては既に「王友」
  の第十五號十周年記念誌上に詳細佐上
  さんの随筆によつて描き出されてゐる
  のですが、創刊當時の事情について
  尚、詳細にお話を伺つて置きたいと思
  ひます。その邊の事は佐上さんが特に
  お委はしいと思ひますから新らしい社
  員諸君に「王友」の生ひ立ちを知つて
  貰らうといふ意味で是非一つ・・・
佐上――自分は實は創刊當時の「王友」に
  は關係せず、川添蓊君(苫小牧)、野
  田壽惠君(眞岡)、山口卯之吉君(中
  津)、井澤新君(小倉)等の手によつ
  て昭和三年七月一日創刊の運びとなつ
  たものであつて、下高井戶での第一回
  陸上運動會を開いた時の記錄を載せる
  のが主な目的であつたのだ。そして此
  に一號誌は紙數五十頁で定價は五十錢
  と云ふボリ方さ。
菊池――高いネエー(一同哄笑)
佐上――尤も發行部數が二百部位だから原
  價が相當高くかゝつたかも分らむ。
高橋――大正三四年頃、二三回斯ういふ種
  類の雜誌を出したことを聞きましたが
  如何ですか。
佐上――何分古いことで自分の記憶にはな
  いが、或は小範圍の有志間に同人雜誌
  的なものがあつたかも知れんが、それ
  は今日の「王友」誌とは無關係のもの
  であつたと云つていゝだらう。
高橋――所で「王友」の名付け親は?・・

  二、 前期の「王友」

佐上――「王友倶樂部」といふ名がもと/\
  あつたのでその名を取つて「王友」と
  したものだと思つてゐる。今の「王友」
  といふ題字は社長が書かれたものだ。
  「王友」の發行は昭和八年の合併迄は
  年一回であつたが、社長の發案で二回
  發行に改めたのだ。だから昭和八年に
  は七號、八號と二回出た譯だ。
菊池――八年は編輯の陣容が大部整つたね
佐上――今「王友」の發逹史を大雜把に言
  ふと昭和八年迄を前期、八年以後を後
  期と云へる。七號迄は舊王子の連中が
  作り、八號からは大王子としての編輯
  となつたが委員の顔觸も練達者揃ひ
  で、八號から村上、土肥、矢部、菊池
  靑木、井上(修)君等が之に當つてゐ
  た。
  話は少し前後するが、前期時代を見る
  と創刊號は運動記事のみでお茶を濁
  し、二號からは體育記事(試合 競技、
  遠征、體育奨勵文)以外に若干の趣味
  記事(紀行、詩歌、寫眞等)をのせて
  はゐるが、何れもプリミテイブの域を
  脱してはゐない。發行部數も確か五百
  部位刷つたと思つてゐる。そして此の
  二號、三號は編輯委員長渡部道太郎氏
  の統裁の下に發行されて居り、第四號
  からは自分が編輯委員長となつて第十
  七號まで續けていつたのだ。ところが
  何事によらず長い間には苦難のあるも
  ので、「王友」も第四號に至つて破綻
  に瀕したのだ。といふのは當時民政黨
  内閣時代で不景氣のどん底にあり、各
  工場とも經費の節減に汲々たる時であ
  つたから工場配布の部數は工場の經費
  で賄ふ仕組となつてゐた。「王友」の配
  布部數を減少してくれとの申し出が各
  工場から來る始末で、部數減から収支
  困難となつたのだ。そこで委員中に存
  續か廢止かの兩論が分れて、終に最後
  の關頭にまで來たのであつたが折角こ
  ゝまで育つて「王友」を闇に葬るのは
  如何にも惜しいと思つて、自ら陣頭に
  立つて運營に當りどうにか難曲を切り
  抜けることが出來たのだ。思へば今日
  「王友」によつて本社工場間の思想的
  連繋、友誼的交驩の實が着々と上つて
  ゐるのを見て續刊して置いてよかつた
  とつく/″\思つてゐる。さういふ譯で
  第四號には兎も角社長の「武州吉野村
  吟行」といふ歌をのせ、「王友」の權
  威を工場の讀者に示したのだ。それか
  ら昭和六年九月に滿洲事變が起りこの
  戰爭の最中にも「王友」を出した。第
  五號がそれで昭和七年の六月である
  が、原稿の集りもよく頁數が増し軍國
  調を反映した記事が投稿された。欵乃
  生の「太平洋風景」や志田君の「上海
  出征記」等がそれである。第六號――
  これが舊王子の連中の作つた最後のも
  のであり前期の終りである。發行部數
  は八百、新社員にも配布して「王友」
  の存在を宣傳した。又本號にも社長の
  「念珠紀行」なる一文の寄稿を受けた。

 三、 後期の 「王友」

佐上――第七號からは「王友」としては後
  期に屬し發展膨張の時代だ。新に菊池、
  靑木、井上君等が編輯員に加はり從來
  の村上、土肥、矢部の諸君と共に鐵壁
  の編輯陣を張つたのである讀者數も
  二千人となり、發行二回、頁數も段
  々増加するといふ具合で、お蔭で編輯
  子も仲々多忙を極めたものだ。本號に
  は新加入の千住、江戶川、富士其他各
  工場からも續々寄稿があり、頗るの盛
  況を呈し一二〇〇部を發行した。第八
  號からは木鬼子(社長)の「駄句里行」
  が錦上花を添へてゐる。
高橋――「駄句里行」はずつと續いてゐる
  のですか。
村上――途中二回ばかりぬけてゐるが、八
  回に亘り投稿されてゐます。
佐上――第七號、第八號からは編輯に色々
  と新味を加へ、内容も亦見違へるやう
  なものになつたが、これには菊池君、
  村上君あたりの盡力が大いに與つて力
  があつたと思ふ。
高橋――寫眞もうんと殖へて綺麗になりま
  したね。
木村――その寫眞のことですが・・實は私
  はほんの驅け出しで皆さんの間に這入
  つて口幅ッたい事は言へないんです
  が、少し許り聞いた所ではこれから寫
  眞版の挿入が仲々難かしいそうです
  ね。といふのは銅の原板が手に入りに
  くいので迚も充分な寫眞版の製作は出
  來ないそうです、其寫眞版も從前の樣
  な大版は迚も駄目です。しかし之れは
  國策に協力す可き我々國民としての當
  然の苦痛ですから誌友諸氏も此點を理
  解されて御辛棒願ひたいと思つてゐる
  次第です。
菊池――尤も寫眞版は仲々厄介だからね。
  寧ろ此際うんと木版を使つたらどうで
  すか。反つていゝと思ふね。それにス
  ポーツ記事や紀行文等には寫眞がない
  とどうも興味が薄いから・・まあそう
  云つた方の補ひとして木版活用だな。
木村――それは好い事を伺ひました、よく
  考へて見ませう。
高橋――それからお尋ねしたいのですが、
  例の「王友賞」の事ですな、あれはど
  う云ふ經緯からですか。
佐上――「王友賞」を設けたのは第十一號
  からですよ。趣旨は雜誌の「氣品」を
  高めるためです。王友賞制定の辭に據
  ると「熟々惟るに」から始まり「王友
  の内容を充實し誌品の向上に資せんが
  爲め云々」とある。王友賞の發案者は
  勿論當時の編輯委員であつたが・・・・
  所で王友賞には社長の副賞が付いてゐ
  て併せて二袋であるが、肝心の中味は
  といふとこれはほんの心持ち程度のも
  ので・・現に此處に御出席の大石君
  等は王友賞を貰つて僕等に御馳走した
  のはいゝが、忽ち赤字が出たなんてい
  ふ喜劇があつたものサ。
大石――そんなこともありましたかね。い
  や少しは殘つて居つたやうですよ。
一同――そりゃ愉快だね。しかし其のたん
  びに赤字じゃうつかり名文は書かれな
  いねワツハツハ・・・
菊池――だが賞金は大した事はなくても賞
  を貰らうといふ事は實に嬉しいらしい
  ですね。山田(七五三太)さんの「王
  友賞當選御禮」といふ一文を見ると
  「・・・我れ洛陽に來たれり、我れ牡
  牛の紋章を見たり、而して我れ王友賞
  を勝てり・・・」なんて書いてありま
  したが・・・・
佐上――工場の運動行事は從來私的なもの
  であつたが、十一年の春に藤原前社長
  が樺太全工場に野球優勝旗を出され高
  島社長は庭球優勝楯を出され又北海道
  の三工場にも社長が野球の優勝楯を出
  されたので、樺太北海道の運動競技が
  公的となつてきた。之が王友誌上に反
  映して爾來立派な運動記事が載つてゐ
  る譯である。十二年一月第十一號を發
  行した直後例の○○事件が起つて、舊
  來の樣な自由主義的な理念から脱却し
  て國體明徴の思想が昂揚される樣にな
  り、從而出版物も此の線に沿ふて作ら
  れねばならなくなつた。そこで我々も
  第十二號の編輯には相當な苦心を拂つ
  たものだ。

 四、 編輯同人の活躍

佐上――こゝで從來の社内の連中の記事の
  みでなく工場や事業場見學記を――他
  社のですな――書くことゝし、そこで
  編輯員で「趣味娯樂移動蒐集隊」とで
  もいふのを作り先づ面白そうな所を見
  學といふ事になつて第一回としてP、
  C、L、撮影所の見學
に行つたものだ。
高橋――大分賑やかだつたらしいね。
菊池――編輯委員全部、それにカメラ班と
  して三谷君・・・・
市川――其時はカツトの寫眞が澤山出來
  た?
菊池――筑紫君の漫畫でいゝのがある。仲
  々の出來榮で傑作だつた。
高橋――何か珍談がありそうだな。
菊池――勿論誌上にはふざけた事は公表し
  てないが・・・そりやもう・・・
委員――毛内君でしたね。何んでもノート
  の端に「僕の月給がこれ丈けです。こ
  れを標準にして此處に居る外の連中の
  を當てゝ御覽なさい・・・・」つて傍に
  ゐた女優に突き付けたつてえのは?
佐上――イヤ、面白いのはP、C、L、で聞
  いたのだが、こゝでは俳優の月給は絕 
  對秘密で誰れも自分の分の外は知らな
  いんだそうだ――尤も自分のが判らな
  くては世話はないだらうが・・・・・
一同――大きに左樣ですなワツハツハ・・
佐上――そこで同僚がいくら貰つえゐるか
  薩張分らぬ、會計係も全俳優の給料總
  額いくら出せと言はれて、ヘイといつ
  て札束を社長に渡す、そこで社長が徐
  ろの一人/\に渡す、自身でサ――と
  いふ事だつて。しかし昇給は年二回
  といふ事だつた、これは一寸羨まし
  いネ・・・・・
菊池――といふのは映畫會社ではお互に俳
  優の引つこ抜きを警戒しなくちちゃなら
  ぬし又仲間同志の嫉妬が强いので――
  殊に女優同志は大變だそうだ、B子さ
  んが自分より一圓でも多いといふ事が
  判ると柳眉を逆立てゝ金切聲でどなり
  込むといふ譯で、そこで給料絕對秘密
  といふ譯、此點會社員以上だね・・・
一同――見學の一大収穫といふ譯だな。ワ
  ツハツハ・・・
佐上――僕が一女優に「貴女の理想の夫は」
  と訊ねたら「そんなこときいて何にな
  らるのオホ、、、・・・・」と逃げられ
  たよ。
菊池――このところを僕は王友に次のやう
  に描出した。「・・と柳に風とにげら
  れたのである。老佐上氏も御自分の娘
  のやうな彼女等の前に兜を脱いでその
  後再びあの清元で鍛へたといふ咽喉か
  ら出るだみ聲をきくことがなかつた」
  と。
佐上――イヤどうも、こんな事を書かれた
  ら家庭の取締上困るから此の一件は座
  談會記事から削除して呉れ給へ、賴む
  よ。
一同――イヤそれは大いに載せますよ。人
  間味横溢だね、ハッハハ・・
木村――話が少々道草したようだな。それ
  からどうです。
菊池――第十二號の記事で特筆に値するも
  のは長老から趣味を語る記事をとつた
  ことだ。小林準一郎氏の釣魚、僕の
  「靑嵐莊主人に觀音信仰を聽く」なぞ
  がそれだ。
佐上――昭和十三年が樺太領有三十年とな
  るので會社として記念に民謡を募集
  ることになり、王友編輯部で之を引受
  け原稿募集をやつたら應募原稿百七十 
  一篇集つた。此の中三十二篇を豫選し
  北原白秋氏に送り、一等から三等までを
菊池――一等は伊藤凍魚君、二等は江別の
  小西新吉君、三等は龜戶の人だつた。
  一等の歌詞は
一、 氷流れて岬が晴れりや
  大漁/\の春が來る
  御座れ樺太 寶島
二、 茂る森林伐り出す唄に
  坑をあふるゝ黑ダイヤ
  海にや黄金の寄せる波
  といふのだつた。一等の選歌を古関裕
  而作曲、奥山貞吉編曲で小梅によつて
  コロンビヤで吹き込ませた。二等は佐
  々木俊一作曲で小林千代子にビクター
  で吹き込ませ各々五〇〇枚位作つた。
  最近歌はれてゐる「軍國娘」の作曲が
  このビクターで吹込んだものと全然同
  じだ。會社で委嘱した曲をそのまゝ使
  つてゐる。良心なんかないね。
村上――僕は「軍國娘」を街で始めてきい
  た時、王子製紙の歌を唄つてゐるとば
  かり思つて驚いたものです。(一同哄
  笑)
村上、菊池――之れは著作權が王子に移ら
  ぬため有耶無耶になつた。僕等は大い
  に憤慨したんだが・・・尤も話を聞い
  て見ると作曲家だつて矢鱈にいゝもの
  ばかり出來る譯はないので、偶々西と
  東から同時に二つも賴まれようものな
  ら同じ作曲を右左に渡して濟ましたも
  のだそうだ・・・
佐上――第十三號からは制限配布を改めて
  全職員に渡すやうにした。此號の頁數
  は二七七頁で之を原稿用紙に直すと一
  三〇〇枚となる勘定だから編輯員も並
  大抵ではないわけだ。而も之が手辯當
  の奉仕作業ときてゐるから全くよくや
  つたことゝ思ふ。殊に一錢亭君なぞは
  自宅で机の下にアツカンを忍ばせて、
  元氣をつけ乍ら深夜に及ぶ精進ぶりだ
  つたから差し當り殊勲甲といふ處だ
  ねェ。
菊池――第十三號誌に始めて三色版刷を使
  つてみたが、これが一枚一〇〇圓もか
  ゝるので随分金を食ふ代物と思つた・・
佐上――斯樣な譯で編輯全員も張り切つて
  居り、色々と研究をしては着々と實行
  に移していつたから體裁もよくなり内
  容も充實した。第二次工場見學は本所
  の東京地方專賣局工場であつた。
菊池――この時の見學記は村上さんが書い
  てゐる。
高橋――珍談はありませんでしたか。
村上――兎に角、カルメンも煙草女工です
  からな。昭和のカルメンがゐましたよ。
佐上――十二年三月十五日に第十三號を配
  布すると間もなく盧溝橋事件が起つ
  た。八月三十日發行の第十四號には巻
  頭に應召者の寫眞を掲げることにした
  のはよい思ひ付きだつたと考へる。
  三次工場見學は川口市の大日本ビール
  工場
だつたが、此時初めてビールの飮
  み方を敎つたよ。ビールの飮み方なら
  詳細講義も出來るが、今日はその席で
  ないから割愛しよう。近頃工場見學を
  するとすれば差向き酒の工場だね。寶
  燒酎はどうかね。
大石――味淋でもいゝなァー。
鳥羽、村上――今度の委員の人達もやつた
  らどうですか。理研の合成酒なら次節
  柄いゝでせう・・・。
木村――酒ばかり毒味して廻つて、さて
  「王友」が出來なかつたら、事だから
  ねハツハ・・・
佐上――只今では講演部は産報の一部とし
  て獨立したが、王友倶樂部時代には編
  輯部と表裏一體を爲して居つて編輯部
  全員が講演部の仕事もしてゐたもの
  だ。其講演會で今でも思ひ出すのは第
  六回目の梅崎卯之助氏の渡洋爆撃の實
  話であるが、これは南京渡洋爆撃の直
  後でもあつたので非常な感銘を與へた
  ものだ。
菊池、村上――第十四號の編輯を終へると
  靑木君が家庭の事情で急に委員をやめ
  ると言ひだしたが、その理由は甚だ變
  なものであつた。編輯委員は工場に轉
  勤する場合の外は止めないといふこと
  が不文律となつてゐたのだから、靑木
  君が特例を作つた譯さ。然しこの大
  原則は今後共實行した方がいゝと思
  ふネ。
佐上――そのうち南京も陥落し、いよ/\
  長期戰に入つたが、丁度「王友」發行
  十周年に當るので十周年記念號を發刊
  することにした。これには國民精神總
  動員の理念を織込んで巻頭に天照皇大
  神宮、橿原神宮、明治神宮の御寫眞を
  掲げ、菊池君に國民精神總動員譜を書
  かせて之に配したものだ。其他、誌中
  の記事にしても全く「王友」の最高峰
  であつたと思つてゐる。此時の委員は
  村上、毛内、栖原、矢部、菊池君等で
  あつたが一心一體非常な苦心を以て完
  成した譯だ。第十五號からは年一回發
  行となつた。之れは時局柄紙の經濟の
  爲めに自肅した譯で此事を社長にお話
  したら至極尤もだと言はれた。
菊池――此頃から記事内容に對する撰擇に
  大いに意を用ひねばならなくなつた。
  之は當然の事で從つて編輯に當つては
  充分注意した。
  第十七號は皇紀二千六百記念として
  發刊を見たのだが、これは新委員鳥羽
  君の構想によつて編輯され内容體裁共
  に全然變つた新鮮味の溢れたものだつ
  た。
佐上――十五年の夏頃會社に産業報国會が
  設立されたので、王友倶樂部も發展的
  解消して之れに吸収される事になつ
  た。で王友倶樂部としての雜誌は第十
  七號を以て一應終つた譯だが、十年の
  歴史を持ち又極めて有意義な文化施設
  だから産報としても引續いて發刊する
  樣盡力した次第なのだ。併し之れを機
  會に僕は隠退する事に決心し新進市川
  君を後任文藝部長に推薦した譯だ。
菊池――市川氏主宰の下に鳥羽、村上、佐
  々木、鈴木君等と自分とが委員となつ
  たが閣内不統一で間もなく市川内閣?
  は流産した。
市川――イヤ何とも申譯ないが僕はほんの
  埋め合せに名前を一寸使はれた丈けで
  すからね・・・
木村――イヤ埋め合せなら僕の方ですよ。
  經濟も無ければ勿論才能もないものを
  捕らへて「新機軸を出せ」は少々ヒド
  イですよ。僕も閣内不統一にするかな
  ・・・
佐上――まあそれは一寸待つて呉れ給へ
一同――ワツハハ・・・
菊池――何しろあの時も少し新鮮な人は居
  たら好かつたんだが・・・
佐上――イヤ中老連は皆倦怠期に入つてゐ
  たんだから無理もないさ・・・それに
  ガソリンも足らぬしネェ・・・
市川――責任は佐上さんにありサ
佐上――それは大變間違つてゐる。産報で
  は豫め公選の役員や委員といふものが
  きまつてゐたので、其内から産報各部
  の專任委員を決めなければならなかつ
  たのだ。そこで見渡した所市川君を最
  適任と考へて推薦した譯サ
市川――イヤどうも・・・・・

  五、「王友」の寄稿家

高橋――これで沿革はよく解りましたが、
  今度は少し向きを變へて寄稿家の特徴
  ――特に思ひ出される寄稿家のこと等
  を御伺ひしたいと思ひますが・・・
佐上――一錢亭の随筆「一錢亭雜稿」は當
  時讀者を唸らせたものだ。多少グロテ
  スクなところはあつたが。
委員――最近私もあれを讀みましたが、あ
  の中の振袖と題する一文「女の振袖が
  あんなに長いのはお尻の大きいのを隠
  くすためです」なんかは仲々傑作です
  ね。芥川の「珠儒の言葉」の中の一文
  のやうでもあり、佛蘭西ならジュー
  ル・ルナールの「博物誌」あたりの文
  中の一節のやうでもありますね。
佐上――田藤さんの「王子工場創立當時の
  憶出」が第一回の王友賞を貰ひ、一錢
  亭雜稿が二回目のを當て、第三回目が
  山田七五三太氏の「製紙業と牛の話」
  第四回目は富士第三工場の俳壇句集に
  對して贈呈された。かゝる集團に對す
  る授賞については議論もあつたが、富
  士第三工場俳壇の活躍は目覺しいもの
  があり、その熱意と努力は遂に集團俳
  句として完成に近いまでの進歩を示し
  て居つたのだ。
菊池――第五回が靑嵐莊主人の「王友十年
  史」、次が大石君の「極東將來の展望」、
  前田氏の寫眞の順となつてゐる。第六
  回までは大體文章に對して王友賞を出
  して居つたが第七回からは美術、詩歌
  散文に分つて王友賞を授與することゝ
  なり、美術をその第一回とし、前田氏
  の寫眞が選に當つたのだ。
佐上――投稿家は本社では社長を初めとし
  て平塚、山田、大石、菊池、村上君等
  がよき投稿家だつた。
木村――平塚さんはみたところ歌人らしく
  ないが・・・・・・・
村上――啄木の風格なんでせうな。
菊池――あの人は若山牧水の面影がある。
佐上――王子では眞島君、十條では小沼九
  人像といふ俳人、それから名筆家の岡
  田冷鐵子、北海道の三ヶ工場にはゐな
  いが樺太では山本一掬、松井、伊藤君
  なぞ多士濟々だつた。
菊池――内地では石巻の川村義三君の名古
  屋時代の「喰ひもの覗き歩き記」は面
  白いもの、秋田には土肥君がゐるが今
  應召してゐる。
佐上――富士では福原千二君がゐるし、筑
  紫君の「カツト」と文章は相當なもの
  だ。
  中津には山口、靑木兩君がゐる。今度
  の王友には山口、麿山兩君に原稿を賴
  むとより。この二人は社内有數の海軍
  通だ。麿山君の寄稿「婆爾的艦隊東航
  異聞」は相當なものだつたが中途で終
  つてゐる。山口君の「日米海戰論」は
  蓋し聞きものだと思ふ。關西では井上
  修君、山陽には安場君、横井君等がゐ
  る。小倉には井澤君、坂本には佐藤君
  名古屋には小林喜則君、朝鮮には堀君
  尾畑君、牟田氏等が光つてゐるがその
  外隠れたる名文家が猶澤山ゐる筈であ
  る。
委員――山陽には白井四方氏の俳句。春名
  君の又別なうま味。
市川――樺太山林部の兒玉(俊)君なぞも
  相當なものだ。
菊池――北鮮の片平堅城、永井木白氏あ
  たりも俳人として大いに氣を吐いて
  ゐる。
高橋――滿洲は?
村上――日滿の堀越君。
菊池――錦洲の宇都宮君は名筆家だ。
高橋――前委員の御盡力によつて「王友」
  は斯くも立派になつたが、最後に「王
  友」と社長との關係、社長の俳句につ
  いて佐上さんに
佐上――社長は最初から「王友」には極め
  て深い關心を持たれ旅行記事や和歌、
  俳句なぞ寄稿されたばかりでなく、
  「王友」の年二回發行、王友賞の制定
  なぞ誠に「王友」發展史上忘れてなら
  ないよき後援者であつたのだ。社長の
  俳句は「駄句里行」なる題名で八回に
  亘り誌上に發表されてゐるが何れも獨
  特の豪快なる表現により宇宙萬象を攝
  取されてゐるのには滿腔の敬意を表す
  るものである。第十二號誌の「月朧富
  士は大士の姿かな」などの句は我人と
  も着想だにしなかつた事象を易々と歌
  ひのけらるゝ句境、確かに名句と言は
  なくてはならない。富士第三の福原山
  外子大いに此の句に感銘して社長に乞
  ひ軸物にして貰つて床の間にかけて本
  物の富士と併觀して大いに悦に入つて
  ゐるといふ話だ。
木村――どうも長時間、いろ/\と承はり
  誠に有難う御座いました。何分我々一
  同未熟者ばかりですから今後何分御指
  導をお願ひ致します。それではこで位
  で座談會を閉ぢたいと思ひます。
                 (了)


(「王友」第十八號 
  昭和十七年十月二十日發行 より)

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※サムネイルの写真一番右が一錢亭


紙の博物館 図書室 所蔵


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