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竹中先生は経済学者

大学生になって、初めての「経済学」の講義は、今でも覚えています。キャンパスのなかで一番大きな講義室がある建物の1階で、教壇に立っていたのは、竹中平蔵先生でした。とても分かりやすい講義でした。

大学の教授陣のお手伝いをしている上級生・先輩たちは、みなこぞって「竹中先生はとても優秀。助教授じゃなくて、早く教授になるべき」などと言っていました。当時の私も、まぁ、そうなんだろうなぁと思いました。

主観の問題かもしれませんが、そのキャンパスでは、自然と「規制緩和」や「既得権の打破」のようなものが、日本の社会に必要なものであるかのように感じられました。

その後、私がアイピーモバイルという会社で、携帯電話の周波数免許をいただいたとき、それを交付してくれたのが竹中先生(当時、総務大臣)でした。私的な会話ができるような場所でもなかったですし、ただ「大臣と事業者」という関係なので、お辞儀だけして帰ってきました。

そのときは、とくに何の感情もありませんでした。ただ、何となく学生時代のときに感じていた「既得権益の打破」に近い、何か新しい風穴を開けられたような気がしていました。

時が経って、時代が移り変わり、私は紆余曲折あって、少しそういうビジネスの場所から離れたところに身を置きつつ、気づいてみると竹中先生散々な言われ方をするようになっていました。

竹中平蔵は住民税不払い問題を引き起こしていた人物だが、小泉政権時代には「クビを切れない社員なんて雇えない」と言いながら、非正規雇用者をどんどん増やして若者の格差を増長させた人物でもある。
そして、「正社員は既得権益」「正社員をなくせばいい」と言いながら、本人はちゃっかりと人材派遣会社パソナの会長になって大儲けしていた。まさに利益誘導である。
別の局面では「貧しさをエンジョイするのは結構。だが、頑張って成功した人の足を引っ張るな」と言い放っている。非正規雇用者を搾取して肥え太る自分を批判するな、ということなのだろう。
※MONEY VOICE「菅首相「3人のブレーン」が日本を壊す。竹中平蔵・三浦瑠麗・アトキンソンの売国計画=鈴木傾城」2021年5月18日より引用

デービッド・アトキンソン氏などと並んで、日本を切り売りしている「大悪党」ということになっています。

正直、今の世界共産化グローバリズムの流れを考えれば、竹中先生の主張や考え方は、日本を危険な方向に向かわせていると思います。そういう意味では、「大悪党」と呼べるのでしょう。

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で、あらためて、こんな動画があったので、ちょっと覗いてみました

ここでみられる竹中先生は、少しも悪びれたところはありません。むしろ、とても正しいことをしているという、自信に満ち溢れているようにすらみえます。

ただやはり、先生の言っていることはズレているんだろうなぁと思わずにはいられませんでした。その違和感の原因は、動画の最初の方で、先生自ら触れられているように思いました。

私が言っていることというのは、経済学でいうエコノミクス101。ものすごく基本的なことばかりしか言ってないと思うんですね。
やっぱり経済でもなんでもそうなんですけど、社会って基本を間違うと結構大変なことになるので、その基本にできるだけ忠実にやっていきましょうと。
(中略)
幸せってものに対して、我々は関与できないですよね。あなたの幸せと私の幸せは違うんです。だから、私たちが最低限言えるのは、やっぱり経済的なある程度の豊かさを確保して、そのうえで幸せは個人が追求しますと、そういうふうにしか言えないんだと思うんですよね。
(中略)
幸せの議論になってくると、少し違う次元の・・・私も幸せの議論をしようと思ったら是非やりたいんですけれども、それはちょっと経済学者としてやれる議論じゃないのかなと思ってるんです。

そう、先生は経済学者なのです。この竹中先生のコメントから、先生は世の中を「経済学」という視点からとらえて、その立場で世の中を良くしようと考えていることが分かります。

しかし、私がいたのは「総合政策学部」というところでした。私は、そこで竹中先生から「経済学」を学びました。そんな私からすると、「経済学」は、数ある視点のうちのひとつにしか過ぎません。

本来、今、私たちが住んでいる世界については、「経済学」では見えない部分にも焦点をあてて、それらを総合的に捉えていく必要があります。そのうえで、「あるべき政策」を追求するのが、総合政策学であると理解しています。

世界を多角的に捉えるための学問体系は、言うまでもなく多岐にわたります。ひとつひとつの学問を挙げていったらキリがありません。それだけ多角的な視点が必要なのです。

そもそも私が、このnote上で、日本の古代史量子力学のようなテーマを扱っているのは、そういう観点・視点が本気で必要だと思っているからです。

そう考えたとき、「あるべき政策」を追求するためには、「人々にとって何が幸せなのか?」という議論だって、避けて通れません

私たちが最低限言えるのは、やっぱり経済的なある程度の豊かさを確保して、そのうえで幸せは個人が追求しますと、そういうふうにしか言えないんだと思うんですよね。

例えば、この点です。この「ある程度の豊かさ」をどのように実現するかというところが問題です。

竹中先生は、政府が国民に最低限の生活を実現させるためのベーシックインカムを提唱されています。

しかし、それは一歩間違えれば、共産主義に繋がる話でもあります。今、世界の流れを見る限り、「一歩間違えて」共産主義社会になっていくことは、簡単に予見できる状況です。

それは、国民が政府に逆らうことを許さず、飼いならされていくことになる仕組みです。

そこに自由はあるのか?幸せはあるのか?

私は、そんな社会の先に、私たちの幸せがあるとは到底思えません

幸せの議論になってくると、少し違う次元の・・・私も幸せの議論をしようと思ったら是非やりたいんですけれども、それはちょっと経済学者としてやれる議論じゃないのかなと思ってるんです。

そう、先生も分かってらっしゃるんです。経済学的に、それこそ「お金」の観点だけで人の幸せが決まるのであれば、先生の言うことを聞いていればいいのかもしれません。

ただし、その話にしても、「富める者が富み貧しい者が貧しくなるのは認めましょう。そして貧しくなった者には、国が富んだ者から取って分配しましょう」という考え方になります。もし富める者からうまく取って分配できなければ、あるいは分配するときの条件次第では、貧しい者は「ただの奴隷」になるだけになります。
※国は法律を決められるんだから、その法律によって、必ず「富める者から富を取れる」というのは幻想にすぎないと考えます。

それと、こういうところも忘れてはいけません。

私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。
※東洋経済オンライン「竹中平蔵(下)「リーダーは若者から生まれる」」2012年11月30日より引用

先生がおっしゃる「怠けもの=貧しい者」、「頑張った人=富める者」というのは、経済学的な論理なのでしょうが、世の中、必ずしもそんなふうにはできていません

ズルっこした人が富める者となり、正直者がバカを見る側面だって大いにあります。見方によっては、そちらの側面の方が強いともいえます。とくに、一般庶民にはまるで縁がないような「巨万の富」の類は、ほぼそうやってできているんじゃないかと考えられる側面すらあるわけです。

だからこそ、こういうところが気になるわけです。

五輪関連事業でも「特権」を与えられている。大会組織委員会と「オフィシャルサポーター」契約を締結。先月26日の衆院文科委員会で「人材派遣サービスはパソナしか許されていない。43(の競技)会場の派遣スタッフを頼むときはパソナに(仕事を)出さなくてはいけない契約になっている」(立憲民主党・斉木武志議員)と、事実上の独占状態なのだ。
(中略)
会長の竹中平蔵氏は菅首相のブレーン。今も国家戦略特区諮問会議や産業競争力会議の有識者メンバーです。公的機関の仕事に食い込めるのは“政権の友”への優遇ではないのか。違うならハッキリと説明すべきです
※日刊ゲンダイデジタル「パソナ1000%の衝撃!コロナと五輪でボロ儲けのカラクリ」2021年6月7日より引用

竹中先生が会長を務めるパソナは、ズルっこしてるんじゃないか?ということです。もし、先生がおっしゃることに説得力をもたせようとするならば、「李下に冠を正さず」の姿勢が必要なのではないでしょうか。

でも竹中先生には、そんな経済学から外れた論理は、どうでもいいのかもしれません。先生は経済学者なんだから、それはそれでいいじゃないですか。

私は、そんな一介の経済学者の主義・主張を、そのまま国の政策や方針に反映させようとする、日本の政治家や政府関係者に問題があるように思います。責任ある政府・政権の方々には、そのあたりの問題を肝に銘じて、国の運営にあたっていただきたいものです。




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