毎パソ優勝するまでの道のりと今、タイピングのe-sports化について

はじめに

初めまして!isseiと申します。
アドカレの投稿大変遅くなり申し訳ありません。
初めてこういうものを書くので、見やすさなどは優しい目でご覧ください…。

※ということでこの記事は、20日目の記事です。
19日目の記事は、パルキーさんの「TW憲法Eノーミス縛りをして得たこと」です。
そして、21日目の記事はテルさんの「一緒にキー入力ハッカソンを運営しませんか?」です。

これまでの実績

・第17回毎日パソコン入力コンクール 和文B 3位
・第19回毎日パソコン入力コンクール 和文B 内閣総理大臣賞
・全国商業高等学校ワープロ大会 3位

毎パソについて

まずは毎パソについて紹介していきます。
毎パソとは、毎日パソコン入力コンクールが主催する大会で、毎日新聞社が後援しているため、出てくる文などは完全に新聞などの一記事などが出題されます。
6月大会、秋季大会と全国出場権をかけた大会があり、いずれかで獲得すると12月の全国大会に出場することができます。

なお、毎パソは一番厳しいのがミス数でミス数に応じて特別点というものがあります。
少し簡単に説明します。

ミス0の場合:打った文字数に応じて20%のウェイトの点数がつけられ、1.2倍つけられた数字が最終的なスコアです。
ミス1の場合:15%のウェイトの点数
ミス2の場合:10%のウェイトの点数
ミス3の場合:5%のウェイトの点数

と、上記に書いたようにミス0の場合はかなりの高得点が期待されますが、ミス4以上だと特別点が与えられないのでかなり厳しい戦いとなります。

その中で、一番気を付けるべきなのがミス9以上でしょう。
和文の場合、ミス9となると問答無用で失格となります。

また、競技は5分間で、予選では上に出てきた文章をそのまま打つという形になります。

なお、本番では初見の文章であり、本番が始まる前に紙が配られ、それを台にセットし、目で見て入力していくという形式です。

以上が毎パソのルールです。

毎パソに出るようになった目的

まず、毎パソに出る目的について書いていこうと思います。
もともと私は、毎パソに出る前にパソコン教室に通っていました。もともとパソコン教室に通っていたころは(小学生のころ)全く実力がなく、最初は面白くないと正直思っていました。
ただ、転機が訪れたのは中学生のころでした。
初めて、親にパソコンを買ってもらい、そこからタイピング練習に熱中するようになっていきました。
そこで毎日1時間以上練習するようにし、実力が伸びていき、ようやくパソコン教室での全国大会にも出場するようになっていくことができ、自分に自信もついていきました。

そして、長くなりましたが毎パソについてです。
実力が付き始めた当初、思ったのは「やっぱり全国で1位を取りたい!」これだけは今でも鮮明に覚えていました。
パソコン教室の大会以上にもっと大舞台で活躍したいということで、初めて毎パソに出場したのは中学生のころでした。
そこで、中学生から毎パソに出場するようになりました。

中学生時代の毎パソ

まず、今の皆さんは覚えていらっしゃるかは分かりませんが
中学生までの毎パソは、ものづくりコンテストと毎パソの本選という形で2つに分かれていました。(現在はものづくりコンテストにタイピングはありません)

その中でも、ものづくりコンテストを中心に書いていきます。

ものづくりコンテストと聞くと
皆さんは工業系などをイメージされる方が多いかと思います。
私も最初は、ものづくりコンテストにタイピング部門なんてあるのか?と
正直思っていました。
ものづくりコンテストにおける全国出場権は、毎パソの本選と違い、かなり緩いもので和文Aで当時100位くらいでも出場できるものでした。

ものづくりコンテストは、100位出場できるものはいいものの、会場では決勝に進出するための競技を行わなければいけませんでした。
あまり記憶が定かではありませんが、準決勝、決勝ともに出される和文は同じだったと思います。
決勝進出は15位までで、更に全国大会自体が初めてということもあったので、かなり緊張していましたが、決勝に何とか勝ち残ることができたことを覚えています。

決勝についてです。
決勝に関しては準決勝とは違う緊張感を覚えていて、全く打てなかったことを覚えていて、競技が終わってからミスがあったことも鮮明に覚えていました。
当時、中学生ということもあり、結果が発表された時、まだまだ力不足でかなり悔しい気持ちになったのを今でも覚えています。
結果は5位か6位くらいだったのでまだまだ力不足だと感じていました。

力不足とは分かっていても、本選に対しての努力はそこまでしていませんでした。

そのため、ここまではタイピングに対する熱は、自分にとっては甘いものでした。

ある方との出会い

タイピングをやっている私にとって転機が訪れました。

上記で書きましたが、中学生のころの私はタイピングに対する熱がとても甘く、決して全国1位を取るために頑張っているとは思えないようなものでした。

そこで、私のタイピングにおける人生を大きく変えてくれた方がいました。
その方は実況者の方でしたが、1つのものに熱中するものに関して応援してくれる力はすさまじかったんです。

その方は、私のことをよく知っていて、タイピングのことも事前に話していたので、全国の結果なども聞いて、私自身に対して、練習が甘いということを言ってくれました。

ただ、タイピングはどうしても飽きやすい競技であり、なかなか実力も伸びにくいことからすぐに諦めてしまうこともありましたが、その方がタイピング練習に付き合ってくれるようになり私の練習法は大きく変わりました。

まず、私にとっての練習法、毎パソの本選に出場するために、まずは何度でも大会の予選文を何度も行うことを徹底しました。
皆さんにとって、「は?大会の予選文をやるのは当たり前じゃん」と思うかもしれません。
しかし、中学生のころの私はそれが全くできておらず、実力が伸びなければすぐにやめてしまい、違うことに走っていました。

いつも夜の22時30分くらいに電話を毎回して、練習していたことを今でも覚えていますが、ほぼ休憩なしで毎パソの練習を行い、ようやく実力が伸びてきたりしましたが、それでも足りません。
そこで取り入れたのは、エクセルを使っての毎回の記録表みたいな形でした。
そこで、初めて自分の成長に気づき、ようやくタイピングが楽しいということに気づき始めたのかもしれません。

その方がいなければ、私は今、タイピングを続けていることは
なかったかもしれません。

関係については、中学校卒業、そして高校生になってもその関係は続きました。
ただ甘かった自分にとっての一番衝撃が走った言葉がありました。
この言葉がなければ今でも甘かったでしょう。
そして、今でも私はこれを貫いています。

「自分に厳しく、自分に鬼になれ」

この言葉があり、その方との出会い以降、タイピングはみるみる成長していきました。

高1の毎パソ

先ほどの続きとなりますが、中学校時代は毎パソの本選に一度も行けず、ものづくりコンテスト止まりで、賞も一度を獲得したことがありませんでした。
ただ、先ほどのある方との出会いで、タイピングに対する練習の熱は
かなり強く、自分にも厳しくなっていました。

さて、私も中学校を卒業して、高校生、商業高校に行きました。
商業高校ではパソコンなどの授業があったり、部活でもタイピングのものがあったりと充実していたため商業高校に行きました。

時は高校1年生です。
高校生活はたったの3年間、それに高校3年生を過ぎると毎パソの全国出場権もなくなります。

ただ、焦っていたことはありませんでした。
「自分に厳しく、自分に鬼になれ」をずっと貫き、部活から帰ったあとでも必ず家で練習するようにしていました。

そして、高校生になって初めての毎パソの和文B、問題文も新聞の社説に変わるので一気に難しくなります。

6月大会

6月大会は、1018文字で7位。
5位までが出場権だったので惜しくもあと一歩届かなかったのです。
ただ、全国出場権の数字までたったの60文字。

第17回和文B 6月大会


ただ、全く絶望することなく、秋季大会まで時間があったのでこれまで以上に練習を厳しくしました。

少し先ほどの話に戻ります。ある方との出会い、ある提案をされました。
秋季大会まで少し時間もあり、全国大会も初見文ということもあったので、初見文の練習を取り入れました。
もともと私は、初見文がとても苦手だったので、それが大きかったのかもしれません。
初見文といっても、むやみに変な文章を打って練習するわけにはいかないので、高校のワープロの文章や毎パソの歴代の社説などを打ち込んだりしました。
最初は初見文を打つだけで、5分間でも800~900文字程度しか出ませんでしたが、それを功を奏したのでしょうか
初見文を毎日練習していくうちに、6月大会以上に実力が伸びていったのです。

秋季大会


やはり6月以降は、成績は伸びました。
秋季になると問題は少し難しくなり、私にとって慣れるまではかなりの時間を要しました。
そして、学校関係が忙しくなるにつれて、練習していく時間が少なくなっていきましたが、なんとか時間を縫って猛練習しました。

ただ、私にとって良かったのは、読み込みが早かったおかげか、数字は簡単には伸びない代わりに、毎パソにおけるミス数が少なかったのです。

6月大会では1000しか出なかった練習も、秋季大会では1100や調子が良くて1200が出るなど、かなりの成長を感じていました。

そして、迎えた本番。
高校1年生でのチャンスは残り1回。秋季がラストチャンスでした。
やはりその関係もあってか、緊張はしていましたがいつも通りには打ててはいましたが、当落線上のラインかな?と正直に言うと思っていました。
ただ、6月大会より手応えは感じていたので、出れなくても仕方がないという思いは持ってしまっていました。

結果発表まで10日ほどあり、緊張する学校生活を過ごしていました。
そして、結果を見たのは学校でのちょうどお昼。
結果は…

第17回和文B 秋季大会

秋季大会
1136文字 ノーミスで何とかギリギリ5位で全国出場権を獲得できたのです。(表は6位ですが、6月で取っている方がいらっしゃったので繰り下げとなりました。)

これで初めての毎パソの本選ということで、嬉しさが爆発しましたが、まず第一に思ったのは私は緊張症だったので、緊張をどうやって抑えるかということと、一番の課題、初見文ということでした。
そして、全体的に見ても10名の中でも下から1か2番目のところだったので上位など簡単に考えられません。

ただし、喜びはつかの間、全国大会まで約1か月少ししかないので、すぐに練習を行いました。
ただし、全国大会で出題される文書というものは、最近の情勢のものが取り上げられるのではなく、春や夏のものなどがピックアップされていたので、そこを中心にある方と二人三脚で練習を行いました。

全国大会

12月、迎えた全国大会
場所は、東京都にあるオリンピック記念青少年総合センターで行われました。

高1になるまでにパソコン教室でのタイピングの競技で全国大会に出場していたこともありましたが、これまで以上にでかい会場ということもあり、かなりの緊張感がありました。

和文Bの本選は、お昼過ぎからだったので、緊張が落ち着かない中、会場でパソコンを持ってきて練習を行い、気分を紛らわせようとしますが落ち着きません。
先にやっている他の方の競技なども見ながら、少しずつ落ち着いてはきましたが時間が近づいてくるにつれ、緊張感は更に高まります。

その緊張感のせいもあってか、いつも行っているような数字は全く出ませんでした。

ただ、そこで緊張を紛らわせてくれたのは、同じく和文Bで出場して、秋季大会で1位の方と仲良くなったのが一番の要因でしょう。話しかけてくれたことによって、仲良くなることができ、緊張感も少しは和らぎました。
今でもその方とは、仲が良いので、それが本当に大きかったと思います。
この話は、また後日・・・。

さて、大会の話に戻りましょう。
お昼が過ぎ、ついに和文Bの競技の時間がやってきました。
初めての毎パソ本選ということもあり、ルールなども全く分かってはいませんでしたが、ただただ緊張感が高まるばかりでした。

一昨年まで会場で行われていた全国大会では、席に着いてから隅野さんの大会説明などがあり、そこから持ち込んだ文書での3分間の練習、そこから本番の準備、本選の文書などが配られ、本番が行われました。

そこには、和文Aの出場者の方もいたので、相まって緊張感が更に高まりました。

当たり前ですが、3分間の練習は全く打てるはずもなく、手も震え、これでいつも通りの実力を発揮できるのかとしか思っていませんでした。

そして、練習が終わりついに本番となりました。
本番の文に関しては本当に運でしかないと思っていたので
良い文書が来ることを祈っていましたがその希望は絶望に変わりました。

今だったらウクライナや防衛増額問題など、さまざまな問題があるので、そういうところを中心に練習すれば、かなり対策はできましたが、平成29年、何があったかあまり覚えていませんが、そこまで大きなニュースはなかったので非常にまばらに練習していました。

その文書、過去一番といってもいいくらいの難しい文書でした。
それは「登録続く日本の世界遺産 制度の将来も考える時だ」でした。
今でもこの文書、とても難しかったのを覚えています。

何かというと、大会用のパソコンは当たり前ですがIMEも辞書も予測変換も全てオフのため、履歴も何も残っておらず、固有名詞などいきなり出てきても当たり前ながらすぐに出てくるわけがありません。

競技が始まったと同時に、文書を見ていると、かなりの固有名詞や出にくいものばかりで難しいな・・・と思っていました。
覚えているので、実際に例に出してみます。
「神宿る島」、「沖ノ島」、「国連教育科学機関(ユネスコ)」、「諮問機関」、「祭祀跡」、「古代祭祀」、「宗像大社信仰」、「玄界灘」などです。

今はWindowsもかなり新しくなり、辞書も新しくなっていると思うので今では出てくれるかもしれませんが、当時は例に挙げたものは全く出ることはなく、固有名詞なども多かったため、和文Bの出場者にとってはミス0はほぼあり得ない状況でした。
それに、いきなりこの文書はミス9で失格でもおかしくありませんでした。

これはもっと先にも書きますが、高3の文書よりも高1のほうが大変難しく、過去一難しいといってもいいほどとてつもない文書でした。

終わった当時、全く変換が出ず、かなりそこで時間を食ってしまっていたので、もう下位は確定だなということを感じて、かなり意気消沈してしまっていました。

すぐに出来を親とある方に報告して、どちらにも言われたのはやりきったんだから結果を待とうと言われる他ありませんでした。

和文Bが最後の競技ではなかったので、表彰式までの3時間ほどとても長い時間を感じていました。

そして、結果発表の時間がやってきました。

やはり、歴代で一番難しいといっても過言ではなかったでしょう。
和文Bの出場者全員、900は出ていませんでした。

ただ、ここで一番驚いたのは
4位まで名前が呼ばれなかったこと。(当時は9位から呼ばれていました。)

この時点で、1位か2位か3位が確定します。
ここまできたなら優勝か準優勝したいと思っていましたが、くしくも3位で名前を呼ばれてしまいました。

そこで最初に一番感じたのはやはり悔しさでした。
前にも書きましたが、やはりミスが一番大きかったのです。
4位で628のミス5だったので、特別点なども加算されず、2位に追いつくことはありませんでした。

そこで一番感じたのは、やはり実力不足、練習不足。
ここでも自分への甘さを感じていました。
もっと自分に実力があれば!、もっともっと真剣に練習していればとしか
思っていませんでした。
それだけに悔しさが大きく出てしまって、ここでミス0だったのであれば、2位が確定していたのです。

第17回毎パソ 全国大会

悔しさもありましたが、リベンジは必ず果たすという気持ちで、会場を去りました。
そこからだったでしょうか、私が思っていたタイピングの世界はもっと広いものでした。
かり~さんやたのんさん、mayoさんなどをはじめ、強いタイパーの方と出会って、ボコボコにされ世界はもっと広く、自分にはまだまだ足りないものがたくさんあると感じました。

そこから、タイパーの方たちとの交流を行っていき、毎パソの経験があったからか格上の方に対戦を申し込み(今から考えると生意気ですね、すみません・・・)、負けては負けては勉強し、何度も対戦を行わせていただきました。

上の世界を知ってからは、簡単には伸びなくはなってきたものの、自分の練習法も変わって、練習方法を増やしたりしながら、実力をつけていき、格上の方のタイパーの方にも勝てるようになってきました。

ただ、タイパーというものは不思議なもので、私自身強い方に負けても意気消沈をしなくなったんです。今までだともう嫌だ、勝てるわけがないとすぐに思ってしまうタイプでしたが、負けるたびに「悔しい!」と感じるようになったのです。

そして、高校2年生になります。

高校2年生のタイピング

高校2年生のタイピングは全国を目指すのはもちろんのこと、格上のタイパーの方との対戦を増やしていきました。

毎パソの他にも視点をもっと広げ、Weather Typingであったりやタイプウェル、バトタイなどを行い、実力をつけていくことができました。

ただ、高校2年生になって一番絶望したことがありました。
それは、修学旅行。

何といっても、修学旅行が全国大会とかぶってしまっていたので出場することができなかったのです。
これほど悔しいことはありませんでした。

高校2年生は、冬季大会しか毎パソに出ることはありませんでしたが、初めてたたき出したスコアが1200オーバーでした。ひそかにではありますが、格上のタイパーの方と戦った影響もあり、かなり実力が伸びていました。

そして、その当時に行われた全国大会の文章を初見で行い、そこで全国のスコアを見た時、その時にもう全国1位ラインを超えていたので、高校3年生では絶対に1年生の時をリベンジを!と思ったのです。

高校生活、最後の全国大会

高校3年生、毎パソにおける最後の全国大会がやってきました。
高校3年生となると、進路決定の時期もあり、進学or就職で悩んでいましたが、まずは毎パソのことばかり考えていました。

高校1年から2年が経ち、毎パソも世代が交代していきます。
高校3年生になると、中学生から今まで連覇を誇ってきた1名が和文Bにやってきました。

しかし、その人に勝てなければ全国優勝はないと考えていたので、高3が一番練習したと思っています。その際でも、必ずエクセルを使って結果はまとめていました。

2回目の6月大会

そして、早くも高3になって6月大会が訪れました。
6月大会で全国出場権を取っておけば、秋季はかなり楽になるので、全国大会における準備が早くできるのです。

6月大会に全国をかけていたので、部活動や家での練習でも、土日や時間がある時などはタイピングに時間を費やし、何度も毎パソの繰り返しを行っていました。

そして、練習で出たのが初めての1300オーバー。
そう、特別点ありで1300を超えたのです。

それを出せれば、今までの成績的に全国大会に出場できるのです。
しかし、まだこの時は格上のタイパーの方たちとは戦うことはあっても
大会などには出場していなかったため緊張感はまだまだあったのです。

そして、迎えた本番。
社説でつまずいてしまってペースを取り戻せるかは不安ではありましたが、途中からはいつも通りに戻り、ほぼ問題なく打てたといえます。

そして、結果は
1298文字のノーミスで2位という結果でした。
ここで、2位だったため何とか全国出場権を獲得できました。

第19回和文B 6月大会

ただ、この写真を見てご覧のとおり、1位には1596という2位の自分とはかけ離れた数字がいたのです。
それが先ほどご紹介した、和文Aで連覇を誇ってきた方です。

6月で全国大会出場をできて、嬉しさもありましたが、1位の方に勝てなければ全国大会優勝はなかったので、追いつけずとも、ここからは初見の練習を行っていきました。

ただ、ここで初見の練習といっても、そればかりやっていては意味がないので、一番大きかったのはやはり高校1年生のころの和文Bの全国大会の問題でしょう。
あれがとても難しかった影響で、初見文に対する思いも少しは変わりました。
そこから、高校1年生のころの和文Bをやり直し、歴代の和文Bの過去問が出ていたので、それを全体的に行いました。

全国大会出場はしていましたが、大会に慣れさせるために秋季大会にも出場しました。
過去問を全体的に行ったのが良かったのか、秋季大会では今まで出したことがなかった自己ベストをたたき出し、覚醒といってもいいほどのスコアをたたき出したのです。

2回目の秋季大会

秋季大会では1382文字でのノーミス。
これは自分ではかつてないほどの嬉しさがありました。
当時、秋季大会にはツイッターにもいらっしゃる三食小籠包さんもいらっしゃいました。(なお、三食小籠包さんも全国大会出場でした。)

そう、これが出せれば全国大会でも十分に活躍できる力はあったのです。

ただ、練習でこれを出せていても、全国大会で出せなければ意味がない。
これは当たり前のことです。
本番で出せてこそ、本当の全国1位であり、勝負強さ、上に立つ者と考えていました。

やはり秋季大会から全国大会までの道のりは早く
早くも最後の全国大会を迎えることとなりました。

会場は高1の時と同じでしたが、最後の全国大会ということもありやはり緊張感はかなりありました。

ただ、緊張が少しほどけたのは、家族の応援もありましたが、何より嬉しかったのはかなり前にご紹介しましたが、高1の時に全国大会で仲良くなった友人や、一緒に練習してくれたある方がエールを送ってくれたからでしょう。
「全国優勝してこいよ!」的なものが来たのをよく覚えていますが、プレッシャーをかけられていたこともありましたが、何より応援してくれていたのがとても嬉しかったからです。

すぐに競技の時間はやってきました。
競技方法は高1と同じだったので省きますが、やはり一番勝負所は問題文の内容でした。
これまで何度も初見文を練習してきたとはいえ、全く見慣れないものが出てきたら対応しようがありません。

そして問題を見た時、高1の時より簡単で
自分がまだ得意なものだと文はこれでした。
「ハザードマップの活用 周知で被害は軽減できる」

そう、皆さん覚えていらっしゃるでしょうか?2019年は、大雨や異常気象などさまざまなことがありました。
西日本豪雨が2018年にあったこともあり、ハザードマップについて時々、テレビなどではハザードマップの活用について話されていました。

それを張っていたのが功を奏したのか、ほぼ詰まることなく、1ページ目の社説を打ち切り、2枚目の社説に行くことができました。

そして、出場者にとって一番怖いこと、それは他の方が1枚目のページをめくる音なのです。
ページをめくれば、打ち切って、次の文書にいっているということになるのでかなりのプレッシャーになるのです。
私自身、2枚目にいったとはいっても、ほぼ2~3行しか打ち切れていませんでしたので、心配はありつつも、競技が終わったと同時に、自信は少しありました。

ただ、やはり一番怖いのは、ミス。
2枚目にいったからといって、ミスをしていれば今までの努力が水の泡となります。

そして、すぐに結果を報告し、やってきたのはやはり不安の波。
「大丈夫かな?」「1位取れるかな」という不安しかなかったのです。

そして、最後の全国大会、結果発表の時間。
高1の時と違って、発表方法が少し違っていました。
今までは下位から呼ばれていたものが、時間の短縮の影響か3位から呼ばれることとなりました。
そのため、いつ呼ばれてもおかしくない。1~3位の時点で名前が呼ばれなかった時点で、4位以下ということは確定していたのでとても怖い気持ちしかありませんでした。

和文Bの発表まで時間はありましたが、心臓はすでにドキドキしていました。
そして、ついに和文Bが発表される時、3位が呼ばれる時、呼ばれないでくれと思うと同時に、1位と2位で呼ばれなかったら・・・というくらいになってしまっていたのです。
そして、3位が違う方の名前が呼ばれた時には、一安心ではありましたが、まだまだ不安がありました。

そして、ついに2位、文部科学大臣賞の発表。
2位の方は、今まで和文Aで連覇を誇ってきた人じゃない名前だったため
自分は驚きました。
正直、その時に自分は失格か?と思ってしまいました。
ただ、気持ちはすぐに前を向かせました。

そして、最後、1位の発表です。
これで1位ならば内閣総理大臣賞です。
アナウンスの方が「栄えある内閣総理大臣賞に輝いたのは・・・」でためを作るので、そこでめちゃくちゃ緊張感が生まれました。
そこで、まずは最初に高校が呼ばれたんですが、岐阜県~と呼ばれた瞬間、嬉しさが勝ったと同時に、ここまで頑張ってきてよかったし、本当に皆さんのおかげだと最初に思いました。

今までタイピングをやってきて、これまで一番嬉しかったことはこの他ないでしょう。
そこで今まで、タイピングを頑張ってきてよかったし
「自分に厳しく、自分に鬼になれ」を今まで貫いてきてよかったと思える瞬間でした。
皆さんへの感謝があふれて、涙が出てきました。
本当にありがとうございます。

ここで感謝を申し上げたいです。
本当にありがとうございました!

さて、肝心なスコアです。
915文字(ノーミス+特別点183)
最終得点:1098文字でした。

個人的にでしたが、高1でのリベンジが果たせたことはとても嬉しかったです。
そして、最後の全国大会で優勝できたことは何よりも嬉しく、タイピングをやってきてよかったと思える瞬間でした。

ただ、高3ということもあり毎パソの全国大会は
ここで実質引退という形になりました。

毎パソ さいごに

今までやってきた毎パソというのは、これまでのタイピングにおけるものを大きく変えてくれるものとなりました。
また、学生の毎パソを卒業してから3年ちょっとが過ぎましたが、今でも全国大会に出たいなという気持ちを持っています。

そして、何よりも思うのは、毎パソは学生でやめられる方が多く、タイパー界隈に入ってくる方が少ないと思います。実力は十分あるでしょうし、もっともっと個人的には交流したいと思っています。
特に前述にもあげたように、三食小籠包さんが毎パソをされていましたが、タイパー界隈に入ってきてくれたことはとても嬉しく思っています。

今でもたまに毎パソとかに出たいときもあり、一般部門で参加しています。
最近、毎パソが結構話題になってくれているのはとても嬉しく思いますが、他の方もよければご参加してみてはいかがでしょうか?

そして今月、第22回の毎パソ全国大会が発表されました。
各部門で内閣総理大臣賞、文部科学大臣賞、総務大臣賞、経済産業大臣賞など取られた方は本当におめでとうございます!

高3の方はこれで卒業となるとは思いますが、本当にお疲れさまでした。
これまでのタイピングを生かして、頑張っていってください!

長くはなりましたが、毎パソのお話は以上となります。
皆様、本当にありがとうございました!

私自身の今について

タイピングのe-typing化について話す前に今のタイピングについて少しだけご紹介させていただこうと思います。

私自身、タイピングをこれまで11年近く続けてきました。
そして、今では多くのタイパーの方と交流することができるようになりました。
本当にありがとうございます!
対戦などもお付き合いいただき、毎回刺激になっています。
またさまざまな方とご対戦できたら嬉しく思います。

一部知っていらっしゃる方もいるかと思いますが、私の今の仕事はタイピングを活かした字幕のお仕事をさせていただいています。
入社する前は、別の職にいましたが、メンタルをやんでしまい短期間で退職し、今の会社に入社しました。

私自身、今の字幕のお仕事をさせていただいている柄としては、タイピングを使う仕事でとても楽しいですし、やりがいも感じています。
ただ、やっぱり今までのタイピングと違うのは、趣味であったタイピングが仕事になるということ。
趣味と仕事は使い分けなければいけません。
そこが難しいところです。

今までのタイピングというと対戦や大会などをしてきましたが、仕事のタイピングは今までと全く違ったものです。詳しくは言えないので申し訳ありません。

ただ、これだけは言えるのは、今、リアルタイムという立場で全国に字幕を発信していっていますが、今まで以上の知識が必要だし、趣味と仕事は全くの別物だから、普通のタイピングとしては考えてはいけないこと。
たった数分の字幕を発信するのでも緊張感はありますし、もちろんですがやりがいもあります。

ただ、趣味でのタイピングにしても仕事にしても1人で物事を行うというわけではありません。趣味でのタイピングでも、1人でむやみに練習しても、簡単に伸びるとは思いません。やっぱり対戦とかを通じて、アドバイスなどもできると思うので、そこで力を伸ばしていくということは仕事でも趣味でも共通のことだと思います。

私が今勤めている会社だってそうです。当たり前ですが、生放送なんて1人で成り立っているものではありません。チームワークがあってこその生放送だと思っています。
誰かがミスをしたら、救いの手を差し伸べる。
それはタイピングでも変わらないと思います。
誰かが困っていたら、話を聞いてあげることもそうだと思います。

やはり趣味と仕事は違うもの。
趣味は全力で楽しむ、交流で馬鹿みたいにはしゃぐ時もありますが、それでも皆さんと一緒に楽しんでいます。
仕事に関しては、タイピングが速いという武器を持っていても
それは実力でしかありません。
今の仕事の一番大事なところと考えているのは、どのように伝えやすいかものであるかであったりも考えます。
仕事をしているからには、楽しいこともありますし、悔しいことだってあります。
でも、今までのタイピングの概念とは違うものも学んでいき
知識もたくさん詰め込んでいて、今、仕事をしています。

ただ、タイピングを今までしてきましたが、今はとてものやりがいのある仕事だと個人的には感じています。
タイピングが好きな方はもちろんのこと、テレビなどに興味がある方などは本当に楽しいお仕事だと思いますので、タイパー界隈だけでなくこの界隈にも足を踏み入れていただけると個人的にはとても嬉しく思います。

趣味は趣味で、まだまだタイピングを全力で楽しみたいと思いますので
皆さん、これからもよろしくお願いします!

最後にタイピングのe-spotrs化についてです。

タイピングのe-sports化について

最後にタイピングのe-sports化について少しだけ話そうと思います。

近年、「APEX」であったり「FPS」「パワプロ」などのゲーム等が飛躍的な進化を遂げて、e-sports化し、現在では企業の協賛などを得て大会などが行われています。

私自身、これまで11年間近くタイピングを行ってきましたが、タイピングは普通の遊びとしては捉えていません。
スピード、正確性を求められる競技でありながら、対戦という機能も備わっているので私自身、タイピングは”スポーツ”だと勝手に位置付けております。

今書いたように、上記に挙げたゲームなども対戦機能やチーム戦なども備わってのe-sportsになっていると思うので、実現としてはかなりの時間を要するとは思いますが、タイピングのe-sports化も決して不可能とは思えません。

これは毎パソの話にも通じますが、私が高校3年生のころ
隅野さんの最後の大会あいさつで、タイピングはスポーツだし、e-sportsになるために活動をしていきたいとおっしゃっており、そして、最後にはタイピングの競技はオリンピックなどにもなってほしいとあいさつがありました。
これに関しては、会場にいた私にとっては共感の内容でした。

私も隅野さんの意見には大賛成です。
ただ、残念なことにタイピングという競技は、他のゲームなどとは違い、メディアなどにもまれに取り上げられることはあるものの、ほとんどは上記に挙げたようなゲームなどが取り上げられます。
そして一番注目されないというところは、タイパーはキーボードを使って対戦などを行いますが、一般の方にとってはキーボードというものは仕事の一部としか考えていないでしょう。
まずは、キーボードということに関して、仕事のためだけではなく、こういうタイピングのゲームなどにも使っているんだよということをアピールできていったらいいなとは思っています。

ただ、これだけは言えると思うのは、「FPS」や「パワプロ」にせよ、これはどちらも生まれた時は”ゲーム”の位置づけです。
本当に近年、ゲームなどがe-sportsになったのは最近といえると思います。
つまり、何が言いたいのかというと

どのゲームにせよ、何かのきっかけがあれば興味を持ってもらうことができ、どんな競技かということを知ってもらって、認知度を広めていくことによって協力が得られ、その後、スポーツとしてどんどん認知され、最終的にはe-sportsになっているのではないか?と私は考えます。

これは甘い考えだと言われるかもしれませんが、何を言われても構いません。
私はタイピングをe-sportsにしたい。
その一心で、これからは活動していきたいと思います。

しかし残念ながら、現在、コロナなどの影響もあって、RTCは開催されていません。

ただ、私が夏に東京ゲームショウの東プレブースに行った時、社員さんに少しだけRTCのことなどのお話を伺うことができました。
そこである光の兆しが少しだけ見えたような気がします。

ほぼダメ元でRTCについて聞いてみました。
すると、ようやくコロナが収まってきた昨今、社員さんの方もほとんどの方がRTCをやりたいとおっしゃっていたのです。

今まではやる方針ではいて、発表もするチャンスが何回かあったそうですが、コロナが増えたりして発表できないということでした。
そこで、今年から来年にかけては
期待してもらってて良いということをおっしゃっていただき
これを聞いたときは、嬉しいという感情しかありませんでした。

RTC自体は、レベルの高い大会であり、これこそe-sportsに近いといえますが、たった1つのきっかけかもしれないけれどもそれをもっともっと作っていきたいと思います。

そのため今後は、他のある方と協力することになり、本当にタイピングのe-sports化の実現を目指して、活動を進めていくことにしました。
これは先ほども書いたとおり、何かしらきっかけがないと興味は持ってもらえません。

まずはタイピングの認知度を高めていくことからが一番の重要なところではありますが、最終的には企業様などの後援などが入り、最終的には今、行われているようなe-sportsのようにしていき、RTCに取って代わる競技を作っていけたらなと勝手ながら思っています。

現在は私ともう1名の方で協力してやっていこうとはしていますが、かなり長距離な計画なので、これから2人で補えないものもあるかと思います。
もしよろしければ、ご賛同いただけるのであれば、今後お手伝いいただけると本当にうれしく思います。

ただ私自身、今まではタイピングのe-sports自体、軽く考えていたばかりでしたが、今までのさまざまなことやRTCのことなどを思い出し、本気で考えるようになり、ついに動き出しました。

自分自身、皆さんと競い合って、いつかはRTC以上の大きな大会で対戦したいと勝手ながら思っています!
これを願って、今後は活動していきたいと思います。

さいごに

ここまでいろいろなことを書いてきましたが、ついに最後となります。

タイピングは本当に未知なる領域であり、努力すれば未来は変わると思っています。
皆さんは今、どんな目標をもってタイピングをされているでしょうか?
そして、目標を決めたものはいいものの、達成できず違うものに走って逃げたくなる気持ちもあったと思います。
私もそうでした。

ただ、皆さんの協力があってこそ、ここまでの成長ができたと実感しています。
私は今までの皆さんの出会いがなければ
タイピングを続けていることはなかったかもしれません。

そして、まれにボイスチャットなどで厳しいことも言っていることもあるかと思います。
それは本当にごめんなさい。

ただ、皆さんは本当に伸ばす力は持っているのです。
「努力すれば叶う。」
これだけは忘れないでいてほしいと思います。

本当に最後とはなりますが、来年度からはタイピングのe-sports化に向けての活動とRTC出場を目標に頑張っていきたいと思います。

今年も1年、皆さんありがとうございました!
そして、長々とした文章を最後までご覧になってくださった方々
ありがとうございました!

「自分に厳しく、自分に鬼になれ」
これも引退まで貫いていきます。

2022/12/26
            issei








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