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僕なりのボドゲの愛し方

※この記事は筆者のボドゲの購入やら所有やらの判断基準の悩みをつらつら記したものである。

記事構成は以下の通りです。

1、ボドゲを厳選したい

2、厳選したい理由

3、偏った愛し方

4、ボドゲ趣味とうまく付き合うために


1、ボドゲを厳選したい

僕はボードゲームが好きだ。

塾経営の仕事をし始めたときに子どもたちに楽しみながら学べる教材なんてのはないかなーと思ってネットで探していた時に出会ったのがボードゲームだ。今や休日には子どもたちにはまだ出来そうもないような重量級のゲームを仲間内で集まって遊んだり、妻と夜な夜な遊んだりと立派なボードゲーマーに育った。

最初は「リプレイ性があるから1回買ってしまえばずっと遊んでいられる!?なんてコスパがいい趣味なんだ!」と思っていたが、沼に入ってしまったが最後、どんなボードゲーマーでも陥る「ボドゲ大量所有状態」になってしまった。

棚には積みきれないような数のボドゲ。できれば他の趣味も楽しめるくらいにコンパクトにまとめたいという気持ちも芽生えてくる。すると「ボドゲの厳選」が必要になってくる。

「自分が本当に気に入った厳選ゲーム〇〇個」なんて枠を決めておくとなんかカッコいいじゃない。厳選したゲームにも愛着を持ててゲームにとってもいいことだと思う。

前置きが長くなってしまった。「ボドゲを厳選する」ということは「自分の中でのボドゲの評価」というのが判断基準になってくる。僕はこれがかなり苦手で悩んでしまうのだ。

一度10個に絞ってみたことがある。

全然枠が足りないことはさておき…このツイートをしたときに厳選するのはかなり難しいなと感じたのだ。厳選するということは「Aのゲームの方がBのゲームより好きな要素が多い」という仕分けをするということだ。これがかなり難しい。

最初っから波乱なのだ。まずすべてのゲームが自分で購入したものなのだから、ある程度愛着が湧いているゲームたちである。ジャケ買いして失敗したものを除けばほとんどが手放したくないものばかりだ。

プレイ回数を基準にする?いや、辛い。コロニストなんて年に1回プレイするかどうかくらいだけど1日あのゲームで遊んだ楽しさは忘れられない。ヨーヴィックだって年に1回くらい苦しい競りをしたいって思うから所有しているのだ。時折ふっと湧いてくる欲に対応できるようにしようとするとプレイ回数基準は難しい。

ゲームシステムを基準にする?無理がある。デッキ構築はドミニオンで基本的に満足できているが、ワカプレともなれば絞れない。オーディン、ナショエコ、アルル…どれも捨てられない。最近ハマっているリソースマネジメントだってクーパーアイランド、アマルフィ、ファラオンと傑作ぞろいだが世界観が違っていたり、他の要素で異なったりするから絞れない。

作者を基準にする?ウヴェやフェルト枠が足りなさすぎる。

ボドゲをするシチュエーションやその時の気分が多岐にわたりすぎて絞り込むのはかなり難儀なことだということがわかっていただけただろうか。


2、厳選したい理由

つらいしんどいと言っているが、この厳選する作業を僕はかなり好んでいる。厳選するということは「好きだったボドゲを切り捨てる」ことではない。「選び抜いたボドゲをより愛する」ことなのだ。骨の髄までしゃぶりつくすようにゲームを遊びたいのだ。そのためにも厳選作業というのは重要だと考えている。

そこで最近ボドゲレビューを書き始めた。気に入った点と気に食わない点を挙げていくことで厳選するときの判断材料にできると考えたのだ。

しかし、ここまで書いた3本(IWW、Amalfi、プロジェクトユニバース)は読まれることを意識した文章構成になりがちだったので、次回以降はもっと率直に、箇条書きぐらいの内容で書き上げていきたい。あくまでも自分が厳選するための判断材料なのだから。


3、偏った愛し方

僕のゲームを好きになる要素は正直かなり偏屈だと思っている。というより、僕は人間ができていないので邪な思いが湧き出てきてしまうのだ。

例えば、ボドゲを始めた当初に買い漁ったゲームでそこそこ評判が高ければ、最近あまりプレイしていないくせに手放したくないと感じる。これは「始めたころに買った品だから」という思い出補正がかかっていたりする。本当にそのゲームが好きなのかという判断基準をブレさせてしまう。

イッツアワンダフルワールドを初めてプレイしたときは嫌いだった。というのもカード構成やカードのシナジーを知らないまま自分だけが拡大再生産に乗り遅れて終盤はほぼお通夜状態。それがどうして今やソロプレイの記事をあげるまでになったか?答えは「翻訳を担当したから」だ。もちろんゲームをしっかり理解してからはある程度上手にプレイできるようになった。それでも対人戦ではこのゲームに苦手意識がある。それでも好きなのは自分で翻訳して作品になったことが嬉しいからだ。これは作品の愛し方を間違っているのではないだろうかと常に自問している。

クーパーアイランドはInstagramでプレイしている盤面が華やか(これは個人的にかなりプラスの判断基準である)だったし、BGGでルールを読んで面白そうだったから購入した。もちろんゲームとしてはかなり面白いのだが最終目標が少なかったり、オーディン程の選択肢の広さを感じたりはしない。それでも他に抜きんでて好きなのは「他に持っている人がいない」からだったりする。インストをして楽しんでもらい、華やかな盤面を写真にとってSNSで挙げてもらうと嬉しく感じる。これも偏った愛し方をしているといえるだろう。

オーディンの祝祭の愛し方もかなり紆余曲折してきた。ハマったのはオーディン人気がある程度落ち着いてきたころだった。僕もそろそろ重量級ゲームにのめり込みたいという意気で高い買い物をした。それから毎晩ソロプレイをしてSNSにアップした。その「投稿に反応がくること」が嬉しかった。なかなか点数が上がらない中、友人たちが点数アップのコツを教えてくれた。この頃から教えてもらった通りにやったら点数が上がる、逆を言うと教えてもらったとおりにやらないと点数が上がらないという状況に苦しみ始める。しばらくは「教科書通りに問題を解くとできる」楽しみ方になっていた。ある程度重量級の思考ゲームをこなせるようになり、拡張が出る頃には柔軟なプレイができるようにはなってきた。それでも最初の頃の(自ら望んで)矯正されてプレイしていた(そしてそれで喜んでいた)記憶は拭い去れない。オーディンに対する思いや考え方はかなり濁っているのでまた記事にしてみたい。

ドミニオンなんてのは僕がひと昔にカードゲームやポケモンを「惰性で続けている」状態に今陥っている気がする。ドハマりした当初は何にも考えずに熱中していた。しかし拡張が出続け、富山ドミニオン会を開催し続けていくうちにふと湧き上がってくる気持ちがある。これずっと続けていくのか?富山ドミニオン会があるからやっているだけじゃないか?・・・もちろん、やりたくない気持ちが出てきたわけではない。やりたい気持ちが弱まってきているのだ。そもそも作者のドナルドだって第8拡張ギルドでドミニオンシリーズは完結すると言っていたらしい。それが商業的な理由なのかなんなのかわからないが、今や第13拡張まで生み出されている。カードの能力がインフレしてきているし、第8拡張までと比べればかなりピーキーな動きを強いられる。ドミニオンにハマった理由はこれまでのカードゲームと違って全てのプレイヤーが同じスタート地点に立って始められることだった。しかし今ドミニオンを好きなのは「自分はドミニオンが好きな人であること」を維持したいからなのではないだろうか。「富山ドミニオン会の主催だから」ではないだろうか。コロナの影響でドミニオン会を中止している今、考えるべき時なのかもしれない。

老子敬服は偶然engamesであの「ねいじまさんとプレイ」しなかったらここまでハマらなかったかもしれない。アルルは「塩さんの熱い話」を聞かなかったら買ってないかもしれない。ディテクティブはあれだけ苦労して「日本語訳しながら遊んだ」から好きなのかもしれない。

もちろん、そのゲームが好きじゃないと続けて遊んだりしないけれども、購入した理由にこういうのが入っていたりすると、自分がそのゲームを好きな理由に付加価値を与えてしまうのだ。ゲームを厳選するときにそういう価値を抜きにして考えたいのだが、どうしても無意識に判断材料にしてしまっている。


4、ボドゲ趣味とうまく付き合うために

そのボドゲとの付き合いが長ければ長いほどいろんな思いや感情が湧いてくる。ではそれが自分の厳選されたゲームに入ってくるかというと、その思いや感情に引っ張られていることも多々ある。本当に繰り返しプレイをしたいのか?ただ思い出にしがみついて所有していたいだけではないのか?

ボドゲを厳選するのは難しい。プレイしていて「このゲーム楽しい!」と感じるのは一緒にプレイした人たちが楽しかったからであったり、好きな作者だからだったりという別要素も含まれてくる。そんな中で「自分が翻訳したから」だとか「自分しか持ってないから」だとか「好きと言っている自分になりたい」からだとかいう邪な思いも出てきて邪魔をしてくる。

ボードゲームという趣味と金銭的・精神的に健康に向き合っていくために、ただ購入してプレイを重ねるだけではなく、ときには厳選もしていきたい。

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