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「アート思考」と「煎茶」考察⑤   ー「アート思考」から「クリティカル思考」、そして「茶席での対話」ー

なぜ「アート思考」が今必要なのか。
どうやって「アート思考」を鍛えればよいのか。
「アート思考」って何か。
この辺りのことをこれまで書いてきたつもりです。

その前に、アート思考と対比させて、
「サイエンス思考」という言葉も使いました。
「サイエンス思考」=「客観・分析・論理」
そして、
この「サイエンス思考をこれまでに我々は身に付けてきた!」
「しかしアート思考は身に付けられていない。」
「これからはこちらが必要なのに。」
という文脈で話を進めてきました。

けれども、
この考察にかなり刺激を与える記事が、
2021年2月23日の『朝日新聞 朝刊』に掲載されていましたので、
まずはご紹介させていただくところから今回の話を起こしていきたいと思います。


記事を書いたのは、イギリス生まれのデービット・アトキンソン氏。五輪組織委・有識者懇談会メンバーのお一人です。以下は引用です。

  日本人は思い込みや俗説が多い。専門家に確認しない、検証しない。
    (中略)
   日本の決定的な問題は、クリティカルシンキング(批判的思考法)が
  十分にできていないこと。これは、仮説を立てて、ロジックを分解し、
  データで検証し、結論を導き出すもの。
          大学の問題が大きい。クリティカルシンキングができるようになるの
  は大学生の年齢。人間というのは勝手な思い込みをする生き物なので、
  それをなくすため大学教育が発達した。
   大学の4年間、先生とのやりとりで、思い込みで発言したら、根拠は
  なんですか?評価に客観性はありますか?と聞いて答えさせる。日本の
  大学はそれが十分できていない。
   だから日本は事後対応しかできず、いつも後手に回る。事前に仮説を
  たてて議論しても、受け入れられないのです。予想はできるのに、何も
  手を打たない。

(『世界一寛容な日本』願望に近い ー思い込みや俗説、検証しない・・・足りない批判的思考ー より 一部抜粋)
デービット・アトキンソン(五輪組織委・有識者懇談会メンバー)

 
なかなか手厳しいご指摘です。
何より厳しいのは、
「『サイエンス思考』は日本人が受験から大学までで身に付けるけれど、『アート思考』をこれからは鍛えなければならない」、という私のこれまでの考察に「待った!」がかかったところです。
そうです、「サイエンス思考」も、日本人は出来ていない、と言われているのです。

いわんや「アート思考」をや。
(まして「アート思考」は、言うまでもなく日本人にはできていない)

という感じでしょう。

私の考察の中で使ってきた「サイエンス思考」という言葉は、
氏が言うところの「ロジックを分解し、データを検証し、結論を導き出す」ということと同義でしょう。
また、「アート思考」という言葉は、氏が書くところの「仮説」や「仮説をたてる」とほぼ同義ではないかと考えます。

デービット・アトキンソン氏は、
日本人はデータ分析に基づく論理展開もできないし、
その前に「仮説を立てる」こともしない、というのです。

「仮説を立てる」、つまり、
事態を全体的に直感で捉えて「こうではなだろうか。」と結論を仮設定し、それを検証するための入り口として「問い」を立て、問題を提起する。「結論の仮設定と問題提起力」と言ってもいいかもしれません。

ちなみに、『13歳からのアート思考』 末永幸歩 2020 ダイヤモンド社 では、「①『自分だけのものの見方』で世界を見つめ、②『自分だけの答え』を生み出し、③それによって『新たな問い』を生み出す」とあります。

デービット・アトキンソン氏は「日本の決定的な問題」として、「仮説を立てて、ロジックを分解し、データで検証し、結論を導き出す」ことのできないことを指摘しており、これをよく見れば、
「『アート思考』×『サイエンス思考』が出来ていない」という指摘のようです。

そして氏は、日本人が出来ていない思考方法をまとめて「クリティカルシンキング(批判的思考法)」と言っています。
いわば、「アート思考」×「サイエンス思考」=「クリティカルシンキング(批判的思考法)」、日本人にはこの思考法がない、というわけですね。

「思い込み」「俗説」を鵜呑みにしてしまう日本人。

それと、アトキンソン氏は指摘していませんが、
日本人が重要視し鵜呑みにするのは「○○さんが言った意見」です。
「◎◎さんが言っているから」「××さんがそういうから」
こういうことを意見の正しさの根拠にしてしまうのです。

そこには「アート」も「サイエンス」もありません。
もちろんクリティック(批判/批評)もありません。

かく言う私も、こうやってこのような内容を書いていて、
耳が痛くなってきます。私自身、アトキンソン氏に指摘されるべき日本人そのものだからです。受験と大学で一応は培ったと思っている弱いサイエンス思考と、「思い込み」「俗説」「○○さんの意見」を検証しないところ。
(しかし、「煎茶」を通して「アート思考」は学ぼうとしているつもりです。)



ちょっとここで辛いことを書かなければいけないようです。

「俗説」を作り上げ、出版し、大量にばらまき、
神格化した「◎◎さん」「○○先生」像を作り、流布させ、
「○○」こそが絶対的に正しい、と大衆に「思い込」ませる。

実はこれ、江戸時代に茶文化がやってきたことなのです。

いや、意を決してはっきり書きましょう。

神格化された「千利休」像を作り、流布させ、思い込ませてきた。

これ、江戸時代、元禄時代以降、茶文化がやってきたことなのです。
「批判/批評」はもってのほか、という文化になっていったのです。

数年前、あるお茶の先生方がおっしゃられている会話をお聞きして、
衝撃を受けたことがあります。

「ご亭主に出していただいたお茶碗やお道具に対して、『批評』は絶対にしてはいけないよね。」

というものでした。

「ご亭主がおもてなしして出してくださったものに対して、他のものと比較したり、批評を加えるなんて絶対にダメ」

ということでした。

私が考えるに、
「比較し、批評する会話こそが美術作品を前にした座での対話ではないか」
と思うのです。

ここで誤解をしてはならないのですが、
批評/批判とは、何かを「けなす」ことではありません。

いまここで見ている、あるいは触れているモノを、まずは「主観的に、直感的に、全体的に」とらえて、「このように言えるのではないか」と仮説を立て、それを「客観的に引いた目線で頭の中で類例と比べ、分析し、論理的に」いまここで見て触れているものを位置付ける、
これが批評/批判というものでしょう。

掛け軸や茶道具という美術品を目の前に集う座(サロン)では、
このような批評こそが対話されて深みが出て来るのです。
さらに言うと、
批評してネガティブ評価導き出すのではなく、
批評してどんどん良さを見出していくと、
その対話は深く、発展的なものとなっていくでしょう。

それなのに、ご亭主におもてなししていただいた道具や掛け軸に対して、
「結構でございます」とだけ無批判に言っておけばOKな「座」に、何の深みがあるというのでしょうか。

ポジティブな批評。
「○○○○が、×××なので結構ですね。」
「△△△が、◎◎◎◎のところがなんともいいですね。」
生産的なポジティブ批評が、
積み重なっていくような対話を茶席で展開させたいですね。


さてさて、今回は一度ここで終わっておきたいと思います。
日本人が苦手とする思考方法、
「アート思考」×「サイエンス思考」=「クリティカル思考」
そしてこの、「クリティカル思考」に基づく対話こそが茶席の対話だ、
そういうお話でした。

次回は、この話の流れで、
「茶席での対話」という話に移ろうと思います。

「クリティカル」"critical"、「批評」、
さらには漢文脈における(つまり、漢文の言葉で出て来る)「評」。
この辺りをキーワードに展開します。

今回は次回へのつなぎのような回になりました。
次回からは、
「アート思考」と「煎茶」考察 ーアート思考とその先へ!ー
といった内容になりそうです。
アート思考には、そこから先がありそうです、
次回もよろしくお願いします。

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