文藝賞受賞作「ビューティフルからビューティフルへ」(日比野コレコ)

純文学の新人賞受賞作は安全じゃないから読むの苦しいんだよな。「ビューティフルからビューティフルへ」はとびきり「安全じゃない」わ。

とか。Twitterで言ってみたけど。

読み終えました。さきの文藝賞受賞作。「ビューティフルからビューティフルへ」。著者は日比野コレコ。
この回は、もう一作、安堂ホセの「ジャクソンひとり」も受賞していて、あと、同時期に発表されたすばる文学賞受賞作とか、新潮新人賞受賞作も読んだのだけれど、なんとなく「ビューティフルからビューティフルへ」について触れてみる。

文藝というのはわりと若い女の子を取ってきた印象がたぶん多くのひとにあって、ようは綿矢りさの印象がつよく、数字でそれを示せてるわけではないんだろうけれど、「またJKか」っていうのは言われちゃいますよね。私も一巡目はそういう視点で読んだ。その迷いを消すためにだ。だから二巡目は作者ではなく作品として読んだ。いや、一巡目から迷わずに読めちゃう人もどうかと思うけど。ピュアすぎて。

「ビューティフルからビューティフルへ」は比喩がすごい多い。で、比喩それぞれの癖がいちいち強い。というのは、たぶん誰もが思うところなのかと思うけど、私個人の印象としては、これはわるい意味でなく、「比喩があんまりうまくないな」と思ってしまった。決めにいった球がことごとくストライクゾーンを外れてるあのかんじ。で、これはなんだろう、と思ったとき、(つまりなんで「わるい意味でなく」なのかというと)一人称それぞれの登場人物がみんな「ことばぁ」に日本語を習ってるから比喩がうまくないんだなって。で、三人の視点人物がいるんだけれど、それぞれのパートの比喩がわりと似ているのも、かれらの抱えている特別なようで凡庸な青春の発露なのかなと感じました。比喩がちょいちょい古いのがおもしろいんですよね。意外とノスタルジックな作品です。商店街のうえを歩くところとか、青いペンキを被るところとか、すごいいいなあと思った。映画になりそう。これたぶん、作者は文章がとびきり巧いから、こういう比喩を使わなくてもおなじぐらいいいものが書けると思うんです。作品はお洒落なイメージだけど、本質的には、センスよりは技術で書く、真面目なひとだと思う。安堂ホセのがよっぽどやばそう。ちなみにいちばんいいなと思った比喩は「食べ物は、落とされたところが皿やと思う」です。これはダイの言葉をパクってばかりだったビルEのほんとうの言葉だと思う。

三人の視点人物、ナナ・静・ビルEのなかで、前者ふたりは女子で、後者ひとりが男子なんですが、作者はたぶん女性なのに、ビルEのパートの描写がいちばんリアルだった。これ、40代子持ち男性管理職が書いてるんちゃうん、っていうぐらい。私が読んできた「女性による男子の描写」っていうのは、理想化・濾過されて、やたらきれいな、透明なことが多かった。でもこの作品のビルEはちゃんと汚くて、ちゃんと濁ってる。よっぽどいい男性の友だちがいるのか、よっぽど観察眼に優れてるのか。

こういう比喩をらんぼうにぶん回して書く。ていうのは、他にもしてる人いると思うんです。私も読んだことあるし。でも私の知るかぎり、そういうひとは一次で落ちることがほとんどだから、なにがそれを分けたのかなって、考えたりしました。ひとつは、前にも書いたけど、そもそもの文章力の圧倒的高さ。もうひとつは、比喩の暴力が突き抜けてるところじゃないかなと思いました。こういう、暴力って言葉を使っちゃいましたけど、人間はそれを躊躇なしに行えるものではない。たとえ小説であれ。でもそうしないと、生身の人間には届かないと思うんです。この作品はちゃんと刺さった。この作品だけが刺さった。えぐい深いところに。書くときの戸惑いのなさはこの作者のギフトかもしれないなあ、と思って、友だちにはなりたくないけど、今後の作品をたのしみにしています。

もうじき、芥川賞の候補が発表されると思うけど、この作品は選ばれてほしくないなあ、と思いました。芥川賞を私は、語弊をおそれずにいえば、つまらない作品を選ぶ場だと思っています。だれかの物差しで測らないで。それに、日比野コレコはそういうプライズがなくても一線で戦える作家だと思うし。

ちなみにこの作品は文藝冬号でも読めるけど、11月17日に単行本が販売されます。

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