四月は君の嘘、よみました。

私はいわゆる「J-BOY」でして、
なんJはかれこれ5年ぐらい前(あの頃は2chの「なんでも実況板」だったのかな?)から親しんでまして、
北京留学のときも、妻とのSKYPEとなんJに救われるぐらい(そこ並列しちゃう!?)好きでした。

で、最近なんJまとめを読んでいたところ、
「タイトルの回収が秀逸だった漫画」みたいな
スレがあったわけです。

読んだなかでは「寄生獣」があがってましたね。
わかるわかる、あのタイトル回収は名場面。
それと「四月は君の嘘」という漫画があげられていて、
未読だったんですが、検索したら絵柄が好みだったので、
さっそく読んでみました。

「天才ピアニストがステージで弾けなくなる」場面から始まるわけです。
まあありきたりですよね。
恩田陸「蜜蜂と遠雷」の主役のひとり栄伝亜夜も同じでしたね。
使い古された設定だなあ、と思いながら読み進めたわけですが…。

結論からいう。
まいった。いやまいったね。
「鼻から泣く」という泣き方を初めてした。
ここ数年か、十年ぐらいで読んだ漫画のなかでベスト。
生涯に読んだ漫画でも、猫なら三本の指に入る。ニャー
いちいちnote記事書いちゃうぐらいやばかった(語彙)。

ここ数年ぐらい、漫画から離れていました。
わりとネカフェという非日常空間が昔から好きなので、
たまにネカフェでトレンド調査も兼ねて売れ線の漫画を当たったりしてたんですが、
しっくりと来る作品がなかった。
小説を多く読むようになったこともあり、
陳腐なようだけれど漫画の表現の浅さが気になることが多かった。
それがここに来て、小説を越える漫画を見つけた。

やっぱり同じ素材ということで「蜜蜂と遠雷」とは比較してしまいますね。
あの作品も好きだったんですが、「四月は君の嘘」とは、ピアノ演奏の表現性能がまるで違う。
(「表現力」という言葉を使うと数字の上下で判断できるみたいなニュアンスがあるので、
「表現性能」という言葉を使います)
「蜜蜂と遠雷」がピアノ演奏を「言葉」で表現してるとしたら
「四月は君の嘘」はピアノ演奏を「心」で表現している。
その点で軍配が上がるかなと思います。

小説と漫画の比較といえば、
「小説家は漫画を描けないから小説を書いているんだろう」と言われることが
たぶんアマチュア界隈限定だと思うんですが、ままあります。
これは半分当たっていて、半分間違っていると思う。
私も、漫画が描けたら漫画を描いてると思います。
ゲームが作れたらゲームを作ってると思う。
ピアノが弾けたらピアノを弾いてると思う。
野球でもしそれができるなら、野球をしてると思う。
「半分間違っている」と思うのは、
「小説家は漫画を描けないから小説を書いているんだろう」という言葉には、
「表現する側がその手法を選ぶことができる」という傲慢があるように思うからです。
逆じゃないでしょうか。手法がその人を選ぶんじゃないでしょうか。
これは何も「小説に選ばれている」みたいな偉そうな口をききたいんじゃなくて、
むしろ「そうでしかありえなかった」という卑屈さです。
一部の天才を除けば、なんだってそうでしょう。
「やりたい仕事」や「やり方」を選べるひとなんて、100人いれば100人はそうじゃないはずです。

そして、小説と漫画はどちらが上というものでもないと思う。
あえていえば、あるときは小説が漫画を越え、
あるときは漫画が小説を越え、
あざなえる縄のようにお互いを高めあっていく、そういうものだと思います。
私もいつかは「四月は君の嘘」を越える小説を、例えばピアノを題材にした小説という形で、
読むことになるんだろうと思います。
またそれは自分が小説を読み、あるいは書くうえでのモチベーションにもなると思います。

もっといい小説を書きたいな。
今までしたことのない泣き方とか、笑い方とか、
そういうのできる小説が書きたい。
新しい小説、というのは、決して未知のものではなく、
既知だけどいつの間にか忘れている、そういう遠いものを取ってくる小説のことだと思います。
そういう小説が書きたい。
たぶんそのためのやり方のひとつは「四月は君の嘘」にあったように、
誰かのために書く、ということなんだと思います。
たぶん書くひとは、作るひとは、無意識のうちにでもそれをしてるはずなんです。
たとえば小説のなかに現れる人物の、表情、手癖、嘘をつくときの笑い方、趣味、好きな食べもの、
そんなもののなかに人生で出会った誰かが潜んでいるんだと思う。
それをもし大切に書くことができれば、ちゃんと遠くにあるものを近くに拾ってくれる、
新しい小説になるんじゃないかって、そう思います。

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