大きく振りかぶるならどこでも。

ついに読み終えた…。
ここ2ヶ月ぐらい、ずっと同じ本を読んでた…。

R.A.ディッキーの自伝、「Wherever I Wind Up」のことです。
メジャーリーグにいたナックルボーラーですね。

ナックルボールというのは、投げる瞬間にボールを指で弾くことにより、
ボールを無回転にすることでつよい空気抵抗を与え、
予想外の大きな変化をさせる、そういう球種のことです。
もっともロマンがある変化球だと思います。
投げてる本人もどこへいくか分からないわけだから。
キャッチャーも捕れないとかままあるし。
ナックルボールを受けるときは、キャッチャーはソフトボール用の
おおきなミットを用意したりしてね。

ナックルボーラーというのはようは、
ひたすらナックルボールばっかり投げる、
そういう投手のことです。
完全にナックルボールだけを投げる投手を
フルタイムナックルボーラーと呼ぶそうですが、
R.A.ディッキーはフルタイムではないかな。
たまに速球なんかも投げるし。

R.A.ディッキーは、メジャーリーグ・ベースボールの投手として
最高の栄誉である「サイヤング賞」を
ナックルボーラーとして初めて受賞した、そんな歴史的な投手です。

こんな動画があったり。

このR.A.ディッキーという投手、すごい苦労人なんですよね。
まあ大学卒業後、ドラフト1位でレンジャーズに指名されるわけですが、
メジャーに昇格したのはやっと27歳のとき。
しかもそのあと泣かず飛ばずで、
34歳にはマリナーズに移籍させられちゃうわけです。
34歳で移籍っていうのはもう絶望的ですよね。
このへんで、R.A.ディッキーがナックルボールを習得するエピソードがいい。
代表的なナックルボーラー・チャーリーハフにナックルボールを教わる場面なんですが、

「蝶々は弾丸じゃない。それで狙うことはできない。行かせるだけだ」
「ナックルボールは1日で投げられる。でもそれでストライクを取るのは生涯かかる」
「コントロールするためには、投げろ。投げ続けろ。毎日投げろ」
「ナックルボーラーがゲームを壊す姿はほんとうに醜い。だから自分で自分のピッチングを信じないといけない。たとえ他の誰もが信じてくれなくても」

そしてR.A.ディッキーはこう気づく。

「もし正しさとか論理を求めるなら、別の球種を投げたほうがいい。何をしようとしているかマネージャーに理解されたいなら、やはり球種を変えたほうがいい」

この頃から、R.A.ディッキーの投球が変わっていくわけです。

といっても、まともな投手になるのは36歳のとき。
メッツに移籍して、ようやくローテーション投手になる。
そして38歳で、やっとサイヤング賞を取る。
1996年に入団して2012年に球界のエースになるまで
16年もかかった。

相当な苦労物語だった。でもそれが面白い。
靱帯が生まれつき無くて契約を渋られたりとか、
ゴルフボールを池から拾ってワニに追われたりとか、
ミズーリ川を泳いで渡ったら一流になれると勘違いして溺れたりとか、
声Aと声Bが頭のなかで会話してたりとか、
韓国に行きそうになって「メジャーの投手にとって韓国とか台湾とか日本に行くのは死に等しいぞ」と諭されたりとか、
タイガース戦で3イニングで6本ホームラン打たれたりとか、
駐車場をようやく借りられてめっちゃ喜んでたりとか、
とにかく苦労がやばい。

あとやっぱり、ベビーシッターに性的虐待を受けていたエピソード。
カウンセリングを繰り返した結果、ようやくそれを(おそらく)克服
するわけですが、その最後の告白。
彼を一番苦しめていたのは、「神を呪ったこと」なのだと。
R.A.ディッキーはクリスチャンなので。
宗教の物語としても壮絶だった。

野球の物語としても秀逸でしたけど、
これは本人が書いたのだろうか…めっちゃ文章がうまい。
もともとR.A.ディッキーは俳句で賞を取ったことがあるそうです。

Lifelike buttercups
Sway in graceful unison
With the midnight breeze

という俳句だそう。

文体が綺麗で、私は文体が弱いので、勉強になりました。
英語特有なのか、リズムがすごくいい。

あと、野球に対する考え方も、勉強になる。
R.A.ディッキーいわく、一番大事なのは情熱と一貫性なのだと。
一貫性というのは、結果の一貫性なのではなく、過程の一貫性なのだと思います。
日々をどのようにルーティンで過ごせるか。
その一貫性を高いレベルで達成している選手の例としてイチローが挙げられています。
一貫性を失った場面、R.A.ディッキーはマウンドで、
自分のなかにイチローを探そうとする。
でもそれは、どこにも見つからなかった、と。

それと心に残ったのは「最高の投手とはなにか」という記述。
最高の投手とは、最高の球を投げる人、ではないのだと。
そうではなく、最高の投手は、プランを持ち、どうやって実行するかを知っていて、どう競うかを知っており、それを続けることを決して止めない人のことなのだと。
いい言葉だな、と思います。
私も作家として、そうでありたい。最高の作家を目指して。

あと、ナックルボールは純文学に似ているな、と思いました。
誰よりも優れた純文学を志す身として、学ぶものは多くあった。
たとえばこんなふうに言い換えてもいいはずです。

「純文学はエンタメじゃない。それで狙うことはできない。行かせるだけだ」
「純文学は1日で書ける。でもそれで書きたいように書くのは生涯かかる」
「コントロールするためには、書け。書き続けろ。毎日書け」
「純文学作家が小説を壊す姿はほんとうに醜い。だから自分で自分の執筆を信じないといけない。たとえ他の誰もが信じてくれなくても」

「もし正しさとか論理を求めるなら、純文学を書かないほうがいい。何をしようとしているか読者や編集者に理解されたいなら、やはり書くジャンルを変えたほうがいい」

彼のいうとおり、私たちはいつでも、どこでも、オーセンティックであるべきだ。
いつでも、どこでも、大きく振りかぶろう。

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