I could care less now.

春の賞の結果がでました。

新潮新人賞→一次落ち
文藝賞→一次落ち

新潮のほうは、まあダメだろうな、と思ってたので、いいんですけど、文藝のほうは、某プロの添削で「この小説は高い評価を得てもおかしくない」という前提でいくつか修正案をいただいたものを反映した作品だったので、えー、というかんじ。

某所に添削してもらった作品につき、まったく結果が出てないので、今後は依頼するのは止めようかなあ、と思っています。意味がなかった、とは思ってなくって、まちがいなくいい作品にはなったし、経験としてもいいものをもらったとは思うのだけれど、ただ、添削をもとに直した作品は、自分のものではなかった。自分の言葉で書くのがいちばんだいじ、という原点に帰ろうかと思います。それは、読んだひとがそう感じるかどうかはどうでもよくて、書いた本人がそう感じられるかがいちばん大事なんだと思う。どんなに下手でデタラメであっても、自分の言葉で書かれた作品は、たぶんすごくタフ。

あとは、じょうずに書こうとしすぎたかなあ、という反省があります。さいきん読んだ本で「小説に慣れると終わり」みたいな一節があり、そのとおりだなあ、と。あるていど書くと、こう書けばいいかな、みたいなルーティンが自分のなかにできていくので、そういうのはよくない。いつも、初めての小説を書くように、緊張しながら、書くのがだいじなんだろうなあと思いました。

添削のフィードバックはともかく、なんとなく、個人的には今回の文藝は落ちるかなと思っていたので、I could care less now、というかんじです。文藝賞ってとにかく「文藝」を取ろうとするイメージがあるので、その点で、マッチしてなかった。

ただ、そういう「傾向と対策」みたいなのは、もう止めたいです。受賞作を追うのも、読書のたのしみを越える程度のものについては、どうでもいいや。自分の言葉で書く、もそうなんだけど、なんのために書くのか、って言われたら、べつに賞を取りたいわけでも、商業作家になりたいわけでも、小説でごはんを食べていきたいわけでもない。

なんのために、を考えたときに、小説は手段のひとつにすぎなくて、それ以外のいろんなことを、ちゃんとやっていきたいなと思いました。さきの記事にかいた「イロカワ文学賞」もそうなんだけど。福島のことをいろいろ勉強したり、誰かのために何ができるのかを考えたときに、たとえそれが小説でなくても、力をつくしたい。

というかんじで、群像新人文学賞に投稿してみました。来年の春に向けて8月ぐらいから書いてた5作品のうち、1作が思いのほか早くしあがったので、それを送るかたちです。もともと群像用に書いてた作品は、野性時代に送ってしまったので、もう間に合わないかと思っていたところ、なんか出てきた。群像向けに書けばそうならなくって、群像向けに書いてないのにそうなったあたり、書くということは、どうにも、ままならんなあ。でも、今回は、ちゃんと自分の言葉で、書きたいことが書けたので、結果はともあれ、よかったです。きせずして、これが30代さいごの作品となりました。まだまだつづくよ。

今年はあと、太宰治賞に2作送るつもりで、それでおわりです。いちおう2作ともすでに書けているけれど、もうちょっと見直すかな。

あたらしい書き方が見つかったようで、ちょっとたのしい。

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