尾道で小説を書くよ(帰宅)

尾道で執筆する企画
「ライターズ・イン・レジデンス・尾道」
ほんとは1週間の予定だったんですが、
仕事があったので今日帰宅しました。

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楽しかった!

ただ楽しかった要素というのは
妻とおいしいもの食べたり、妻と探索したり、
妻と景色眺めながら部屋でのんびりしたり…
というところにあったので、執筆の成果としては…うーん。

いちおう2稿が完成したし、2稿の読み直しも出来たんですが、
それは家にいても出来ることなので。
あるいみ「家で書くのがいちばんいい」と確認できた点で
よい体験だったかな、と思います。
たぶん今後、執筆合宿の類はやらないと思います。
そのほうが書けるひともいるとは思うのですが、
(というか多数派かもしれないんですが)
自分はそうではないと分かった。

ともあれ、繰り返すけれど、旅自体はすごく楽しかった!!!
一緒に来てくれた妻に、大・大・大感謝です。
ありがとう。

昨日の記事で「書くことが分かった気がする」というようなことを書いてましたが、大したことでもなんでもないのでいちいち披露することでもないんですが、それは「無限次元球の中心を目指すこと」なのかなと思ったりしました。

尾道を歩くと、そこかしこでアート表現活動をしてる人がいっぱいいました。
昔よりずっと増えてると思う。
そういう時代なんでしょうね。
誰でもアートができる。
文芸もそうで、文学フリマなんかは書くひと・出店するひとがどんどん増えてます。

一般に、関与するひとが増えれば増えるほど場のレベルは上がる、と言われているかと思います。
「裾野が広がれば頂点も高くなる」みたいな言われ方もしますね。
例えば野球なんかはそのモデル化が当てはまると思うんですが
(それこそ尾道市程度の人口しかないのにMLBトップレベルの野手をたくさん輩出しているキュラソー島なんかは例外として)
文芸界隈はそうとは思えない。
書くひとが増えても場のレベルは上がるどころか、下がってる気がする。
(実際、プロ作家の数は増えていますが、販売部数は減っていってるという、負の相関が起きています)
なんでだろう、と時々考えていました。

野球はたぶん、優劣が明確なんだと思います。
AとB、ふたりのプレイヤーがいれば、どっちが上かは対決すればはっきりと表れる。
優劣の指標が一次元なんだと思います。
だからその一次元で、頂点の高さで、界隈のレベルをモデル化することができる。

でも文芸は、優劣がまったく明確ではない。
AとB、ふたりの作家がいたときに、どっちが上か簡単に現わすことができない。
構成力、文体、描写、キャラ造形、語彙力etc…優劣を現す次元が多すぎる。
それが一次元の場合、野球のように、山、というモデル化ができました。
でも二次元なら、それはモデル化としては、円、になると思います。
中心のほうがレベルが高い、というわけです。
そして三次元なら、球。
これを繰り返して次元はn通り、むしろnを無限として発散するので、文芸界隈のモデル化は、無限次元球になるんじゃないかと思います。
そしてその球は、大きくなればなるほど(つまり作家が増えれば増えるほど)中心の熟度が高まるわけではない。
むしろ薄まってしまう。でかい西瓜が美味しくないのと同じですね。

いまの文芸界隈は、肥大化して中心の熟度が薄まった無限次元球なのかなああ、とかそんなことを考えたりしました。

いずれにせよ、上手くなりたい、と考えるひとたちは、その中心を目指すわけです。そう志したとき、最も大切なのは、「孤独になること」なんじゃないかなあと思います。無限次元球の周縁にはそこにいることをある種正当化してくれる楽しい交流が発生していますから。そこで満足していれば、ずっと中心にはたどり着けない。何かに、誰かに、おもねることなく、たとえ無限次元球がどれだけ肥大化していようとも、実直に、孤独に、中心を目指すこと、それが「書く」ということなんじゃないかな、と思ったりしました。

まあ長々と書きましたが、書いてみれば「なんだそんなこと」というような、誰もがうっすら気づいてるような、当たり前のことでしかないんですけど。そして、これまでにやってきたことを変えるものでもないです。
これからも、これまでと同じように、実直に書いていこうと思います。

立ち位置が確認できた。
書くことに関していえば、それが分かった意義深いイベントでした。

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