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あなたが「変わる」時はいつか?

「急に具合が悪くなる」は、思った以上に多くの皆さんの手に届き、発売3ヶ月にしてすでに5刷が決定しました。ありがとうございます。

圧倒的に引用されているのは、4便で宮野さんが「私は不運ではあるが不幸ではない」と宣言する箇所、最終便で宮野さんが、偶然と運命を通じて世界を愛すると綴っている箇所です。

自分ではいかんともし難い理不尽に見舞われても、これは不運ではあるが不幸ではないと、その状況に力強く抗おうとする姿。たとえ死が目の前に見えていたとしても、それでもなお世界を愛するという宮野さんの姿に多くの人が心打たれたことが窺えます。

またこのような「強くて前向きな個」は、どんな苦境にあっても強い意志を持ち、前向きに未来を切り開くことを称える現代社会の価値観とマッチするとも言えるでしょう。

ただ、この書簡のメッセージはここに集約されるわけではありません。

むしろそれと矛盾するようなメッセージも詰め込まれているのがこの書簡の面白さであるため、本日は私の見る限り、誰一人取り上げていない第6便「変換とか、飛躍とか」に注目してみたいと思います。


注目されない6便の中にある「緩い個」

5便「不運と妖術」では、「不運」とはじめ書いていたにもかかわらず、途中でそれが「不幸」にすり替わってしまったことに対する磯野の内省と、宮野さんへの謝罪から始まります。

とはいえ、この章の磯野便のポイントは謝罪にはなく、核になっているのは「変化」です。

この書簡のほとんどは、私が問いを投げ、それに対し宮野さんが答える形式で進んでいます。実は3便あたりから「そろそろ変化球が欲しい」と私は宮野さんに言われていました。

私はそのための工夫を色々してみるのですが、いざ書き出すと変化はつかず、4便に至っては、宮野研究の本丸である九鬼周造についての問いという、変化球どころか超直球を投げてしまいます。

「変わる」はいったい何が引き起こすのか?

そのヒントを得るため、私は、この書簡の裏側で交わされていたやりとりを見返し、それを踏まえた上で、意識的につながりのない話題を混ぜ込み、間隙を作って宮野さんに返しました。

宮野さんは「全然謝ることないのに」と言いながら、これまでと違う形の返信を読み、「ボールが返ってこない!」と答えます。それに対して私は、「むしろ手紙が問いで終わる方が変なのでは?と思い、原点に返ってみた結果なんだよね」と答え、次のように加えました。

”私の中では、今回の話、結構これまでとつながっているんですけどね。決めるは自分でやっているんだろうかとか、偶然とか、不確実性とか。私たちは一貫した物語を作りたがるけど、現実は飛躍と間隙だらけで一貫性なんてないし、むしろそれが大事だし、生きることを面白くしているのでは、っていうのが裏にあります。”

宮野さんからはそれ対し、「むしろそれを書簡に書くべきだったのでは?付け足してもOKだぞ」と返信がきたのですが、こうやって手紙をアップデートするのはやはりルール違反だろうという話し合いのもと、磯野便には手を加えないこととし、その後に、宮野さんからの返信がありました。

(ちなみに、変更を加えるならここじゃなくて、5便まで戻って不運と不幸の混同を削除したいと言ったら、宮野さんに「あれは”良いやらかし”だからダメ」と却下されました…。)

それを受け、私たちの裏側での会話を宮野さんも見返しつつ、「これまで自分は、はっきりとした意志をもち、降りかかる現実に毅然と対峙し、そこにダイブするような自分を描いてきたけれど、「変化とはそんな劇的なものではなく、もっとぬるっとしていて気づいたら変わっているようなものかもしれない」と答えています。

私たちは決断だけでは生きていけない

現代は「変わる」ことを奨励する社会です。
なりたい自分を思い描き、それに達成するためのプランを考え、そのプランに必要ないものを切り捨てながら目標に向かって進む、「硬くて強い個」が称賛されます。

他方、6便で私たちが描いたのは、それとは正反対の個です。決断も抵抗もせず、自分とはどういう存在かも決め打ちせず、だからこそ不用なものと必要なものの腑分けもしない「緩い個」。

でもその「緩さ」ゆえに、その個は、世界から余分なものが入り込むことを許します。その結果、気づいたら自分そのものが変わっていて、しかもそのあり方は以前よりも少しだけ心地よいものであったりすることがある。

第5便で描かれた物語に巻き込まれず、怒りによってそれに抗い、それは不運ではなく不幸ではないと現実に立ち向かう強い個。確かにそのような個は魅力的で、私たちを奮い立たせてくれます。

とはいえ、時間の流れの中にある私たちの人生を、そのような毅然とした個で埋め尽くすことは可能でしょうか?

自分の意思とは関係なく変化する気分や体調、予想不可能な動きをする他者と共に生きねばならない限り、自分を奮い立たせる強い個だけでは不十分であると私は思います。

私たちの日常は決断と覚悟ではできていません。むしろ私たちの日常は、トイレに行ったり、ご飯を食べたり、掃除をしたりする「戦う強い個」とは無縁の振る舞いで埋め尽くされています。

つまり、言葉によって奮い立つ強い個には賞味期限がある。

それでは「強い個」の間を埋めるものは何か?それこそが「緩い個」ではないかと思います。自分で決めた、という瞬間もないけれど、世界とゆるゆる関わっているうちに、気付いたら自分の中身が入れ替わっている。そんな変化。

私たちは字を読む時、そこに確かにある紙に注目することも、余白にハイライトを引くこともありません。

でも紙がなければ字は存在しない。

多くの方が注目した5便と10便で描かれる「強くて輪郭のはっきりした、前を向く個」。他方、誰もに注目されない6便の中にある「緩い個」。

この二つは字と紙のような関係にあり、変化の鍵は意外と「緩い個」という余白の中にあるのだと思います。

お手元に「急に具合が悪くなる」がある皆さん。
この年末に第6便を振り返ってもらえれば嬉しいです。


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