鶏が先

 だって、テレビを点けたらたまたまバラエティ番組で、出演者がそのフレーズを使ったんだ。彼女は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「知ってる言葉があるからって、安易に口にし過ぎでしょ。例えとして雑すぎる。」
そして続けた。
「問いに答えられないことをもって、はい論破、という輩には、それが矛盾を突くどころではなく単に意味のない問いであることが分からないんだ。その体系内で成り立たないような問いが全部無意味だということではないよ。でもそれは体系に外がある視点を持ち得る限りであって、真偽を問えるような話ではないよね。」
 止まらないねえ。ポイントの切り替えを試みる。
「あー、じゃあ問いが意味をもつように条件を加えていくのはどう?例えば親子丼ならどう?」
「そこまで限定すると狭義の経験則が適用できるけれど、当初の問いとは全く別物になったねえ。」
 狭義の経験則を適用して答えて欲しかったのに、答えへの到達を終点にしたかったのに、彼女は条件を加えるということ、条件を外すということについて話し続けている。
 言葉が先か疑問が先か、存在が先か言葉が先か。澱みない言葉の先にはあるのであろう彼女の存在が曖昧になっていく。


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