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COVID-19の水際対策と日本帰国時の強制隔離の備忘録 (2022年1月時点版)

2022年1月10日にアメリカから帰国した際の強制隔離の様子を残しておこうと思います。

この時点での水際対策は以下の通りでした。

日本帰国時には、
・現地航空機出発時刻の72時間以内のPCR検査(詳細条件あり)の陰性証明
・陰性証明書は原則として日本政府指定用紙に記入され、かつ担当者の署名があること
・日本到着時に空港にて抗原検査を行い、陰性であること
・特定地域からの帰国者は、前項の検査結果の内容に関わらず、一律に隔離所での強制隔離
・強制隔離期間は滞在した国と地域によって異なる
・隔離の有無に関わらず、全ての帰国者は14日間の自宅待機が求められる。

まず72時間前の陰性証明書ですが、これがなかなかの難関です。日本政府が求めていた検査は、検体の採取方法、検査方法が非常に厳しく指定されていたために、それに対応した検査ができる場所を不慣れな現地で探す必要があります。さらに、原則として日本の指定用紙に記入するべしというのも大きなネックです。これについては徐々に緩和はされて、機関が発行した原本でも認められる運用になっては行きましたが、この時点では指定用紙以外の証明書では入国することができませんでした。

出発72時間以内に検査を行い、陰性結果が分かり、指定書類を紙で受け取れる場所というのは非常に難易度が高い要求です。また証明書取得には検査費用と合わせて250ドル程かかりました。これらによって日本は事実上の鎖国状況にあったと言えます。

私の場合はさらに厄介なことに、長い綿棒を鼻から突っ込まれてグリグリやれれる「鼻咽頭ぬぐい」は怖くて痛くて絶対にできません。そのため、その時点で米国本土に少なくとも3箇所しか確認できなかった、唾液で上記の条件を全部満たす証明書を発行できるクリニックに行きました。このクリニック(ラボ)のサイトは現在リニューアル中ということになっていますね。どういう実態だったのか興味がありますね。

ロサンゼルス郊外のクリニックでの唾液によるPCR検査の陰性証明書、担当者の自筆サイン有り
上の結果を元に、日本政府指定の用紙に書き直してもらった陰性証明書


今回はカリフォルニア州に「滞在」したために5泊6日間の強制隔離になるわけですが、実はカリフォルニアに滞在した理由はこのクリニックで検査をするためだけです。そのためだけに、ロサンゼルスで空港から出たわけです。このときの滞在先はネバダ州ラスベガス)であって、ネバダだけなら隔離は必要無しでした。「飛行機の乗り継ぎで空港施設から出ることがなければ、それは滞在とはみなさない」という日本政府の運用だったからです。これも自己申告なので、完全に性善説です。

さらにこの陰性証明書についてはどう考えてもいい加減です。この証明書が正規のものなのか、日本入国の際に検疫所は判断する材料を1つも持ち合わせていません。対応できる検査所リストがあるわけでもなく、時差がある日本から電話をかけて確認するわけでもなく、とにかく要件を満たした「紙」さえ提出できればOKなのです。実際に格安で証明書だけ書いてくれる怪しいサービスはオンラインで山ほど目にしましたし、最初だけ正規の書類を手に入れれば、あとはいくらでも改ざん可能です。

形式主義ここに極まるということで、これのどこが水際対策なのかと、コロナ期間中に5回、出入国をした者からすると思います。はっきり言います。100%ザルでした。同時に、ザルでなくすることはこれまた100%不可能です。

アメリカはその点では明確で合理的な運用を行っていたと思います。アメリカの当時の入国条件は

・ワクチンを2回以上接種している公的証明書(これは最後まで3回ではなかった)
・出発24時間前(正確には前日以降、出発時刻まで)の抗原検査またはPCR検査の陰性照明

これを満たさないと現地の空港から飛行機に搭乗できませんでした。自国に入ってきてからバタバタするよりは、予め元栓処理をするという考え方です。前日以降の検査であれば、日本だと1000円とか自治体によっては無料で受けられましたので、不正をするコストは見合わないという現実がありました。


日本出発の前日に受けたPCR検査の陰性証明 これには生年月日とパスポートナンバーが記載されていないので、自分で記載すればOKにしていた航空会社が多い


ということで、わたしはカリフォルニア州に滞在したため、規定に則って強制隔離に入ります。羽田空港で入国審査と通関を終えると、隔離所行きのバスに振り分けられます。この隔離書の振り分けルールは今ひとつはっきりせず、またさらに理由がわからないのですが、何故かバスの行き先、収容先到着までは一切知らされません。いわゆるミステリーツアー状態です。これがなかなかドキドキもんでして、収容先は横浜や六本木、池袋、浅草、和光市などという事前情報があったので、横浜がいいなあとか甘いことをぼんやり思っていたわけです。

想像ですが、和光ですとかアパホテルですとか伝えると、ゴネる人が出ることを嫌ったのかもしれません。

羽田空港を出たバスはすぐに高速湾岸線に入るのですが、入ったのは都心方向。つまり横浜ではないことがまず確定します。じゃあ六本木がいいなあとか思っていると、バスは中央環状線C2に入ります。この時点で浅草方面もなくなりました。大橋JCTで3号線に入れば六本木だと思っていたらあっさりと通過。さらに初台も通過。さらにさらに池袋も通過してそのまま5号線に入ります。だんだんと絶望感が漂ってきます。

外環道に入ったところで、収監先が和光であることを覚悟しました。和光市や税務大学校には何の恨みもございませんが、正直ハズレだと、このときは思いましたよ。

隔離決定書類


さて、「入所」に関する説明を入り口に3メートル間隔に置かれた椅子に座って聴きます。要するに部屋からは出られないということだけは分かりました。

非常に味気ない無機質な部屋で6日間を過ごします。最初に部屋に入った時の動画がありました。広めのワンルームでバストイレ付き、ベランダもあります。ベランダには出てはいけないとされていましたが、外の空気を吸うために1日に何回か出ていました。

またこれは後でわかってくることなのですが、アパホテルなどに入所した人は11平米とかいうものすごく狭いところで過ごしていた方も多く、この税務大学校は正確な広さはわかりませんが、元々ホテルではなくて寮であり、20平米以上はあったと思うのでその点では良かったかなと思っています。


部屋からの眺め。向かいの建物にも同士がたくさん収監されています
和光はイメージ程遠くはありません

隔離中は原則部屋からは一歩も出ることはできません。唯一の例外は洗濯をするときです。各フロアに洗濯機と乾燥機があり、洗濯をしたいときには電話をすると、空き状況に応じて担当の方が部屋に来てくれます。来てくれると言っても洗濯をしてくれるのではなく、洗濯スペースまで同行して、洗濯機を自分でセットして、部屋に戻るまでをずっと同行するのです。40分後くらいでまた部屋に来てくれて、今度は乾燥機にセットし、3時間後くらいに引き取りのためにまた部屋に来てくれるというパターンです。つまり洗濯エリアと部屋の間は監視状態です。担当の人は態度が悪いということは全くなむむしろ皆さんとっても親切でした。

あと隔離期間中はMySOSというアプリに登録することが求められます。こここから1日2回、ランダムにビデオ通話がかかってきます。このときに顔と背景とGPS位置情報をシステムが自動判定します。なかなかの監視下にあることが実感できる瞬間です。

MySOS

さて、隔離開始の翌日には厚生労働省からメールが届きました。搭乗していた飛行機の、私の座席から前後3列内に感染者が出たとのことです。この時点ではこれだけでは濃厚接触者扱いではなくなっていましたが、すこし前だと私は発症の有無に関わらず濃厚接触者となり、濃厚接触者専用の別の場所収容施設に移送されていました。私はこの時はセーフでした。

同じ飛行機から感染者が出たという連絡メール


全額国の費用で3食昼寝付きの隔離生活ですので、あまり文句は言えないといえばそのとおりですし、そもそも隔離に意味がないのではないか、という視点に立てば、とんでもない無駄遣いだったと思います。

隔離期間中の食事は3食全て支給されます。1日3回、お弁当がビニール袋に入れられた状態で、各部屋のドアノブにぶら下げられます。すべての部屋の配送が完了すると、館内放送で食事をしてくださいのアナウンスが流れます。それを合図に食事を受け取ります。

で、食事についてはやはり一言言いたいです。以下に昼食、昼食、夕食をそれぞれ2日分載せておきます。
【朝食】山崎パンの菓子パンが2個 野菜または果汁のジュース
【昼食】毎日同じ弁当容器に入ったお弁当、インスタント味噌汁、紙パックのお茶
【夕食】毎日同じ弁当容器に入った丼もの、インスタント味噌汁、紙パックのお茶

結局内容は6日間、全く同じパターンでした。食材まで同じではありませんが、ほぼ同じ構成と見た目であったので、流石に気分が滅入って行きます。

朝食その1
朝食その2
昼食その1
昼食その2
夕食その1
夕食その2

1月ですから廊下はそれなりに寒くて、配られてから食べるまでには結構な時間がかかっているので、お弁当は完全に冷たくなっています。下の写真は洗面台にお湯を張って温めるというのを何度かやってみましたが、期待したような効果はなかったので数回で諦めました。

この食事については施設によってかなり格差があり、ネット上では羨ましいような食事も主に関西方面の施設では見かけました。豪華なものを期待はしませんが、流石にこれを6日続けられたのは本当にしんどかったです。感染者が多い地域からの帰国者は、10日隔離といたはずです。10間これを食べ続け、生野菜や果物もなしで過ごすと確実に身体を壊しそうな気がします。

食べ終わったらドアの外に出しておきます。扱い的にはこれらはすべて汚染物という範疇だろうと思います

こうなることは事前に予想ができていましたので、隔離所が決まった段階で家人に連絡して支援物資を依頼しました。物資と言っても全部食料と飲料です。これも制限は特にないというか、チェックはなかったようですが、直接の受け渡しはできず、フロントのようなところに預けると1日1回部屋まで配送されるという方式でした。幸いなことに、小さいながらも部屋には冷蔵庫があったので、これらを備蓄することができました

補給物資
この千切りキャベツは本当に助かっりました
キャベツが沢山、缶ビールも
こうなることを見越してアメリカから持ち込んだ紙パックのワイン

アルコールは禁止となっていましたが、アメリカから持ち込んだ紙パック(軽いから)のワインと、支援物資として缶ビール12本を歌人に補給してもらいました。ほかにはジュースと果物、そして圧倒的な野菜不足になるのはわかっていたので、大量の千切りキャベツとドレッシングです。この千切りキャベツがなかったら体調をおかしくしていたように思います。補給物資は隔離期間中に全部キレイにお腹に収まりました。

インスタントコーヒーと粉の緑茶もアメリカからです。


隔離期間中の3日目と、5日目に、唾液検体による抗原検査が行われます。これらを2回ともクリアできれば、6日目に隔離所を晴れて退所できます。

検査キット


収監期間中には毎日15時位から続々と新たな収監者がバスで運ばれてきます。40人乗りくらいのバスに半分くらい乗せていたと思います。1日に7、8台くらいだったでしょうか、1日150名くらいということになると思います。

今日も新たなゲストたちがやってくる

一方の退所も毎日発生します。退所のバスは13時頃に入所のときと同じ場所にやってきます。このバスは羽田空港の第3ターミナルまで、退所者を運びます。つまり日本に入国した状態まで時計を巻き戻されるわけです。このときには公共交通機関の利用は14日間禁止されていましたので、6日目に羽田に戻されても、そこから迎えの車を自分で用意するか、ハイヤーを頼むか、さたに8日間空港ホテルに自費で宿泊するかの選択になります。

退所者を羽田に送り返すバス

私の場合は家人に羽田まで自家用車で来てもらいましたが、だったら和光に来てもらってもいいと思うんですけど、それは許されない運用です。一律時間の巻き戻しのみ。

面白かったのは、羽田に移送される最中にMySOSからビデオ通話の着信があり、待機場所として登録されている税務大学校とは異なる位置にいることがわかるために、警告メッセージが出たことです。この警告を何度も受けるとどうなったんでしょうね。

羽田からはおそらく半分以上の人が公共交通機関で自宅などに向かっていたと思います。どう考えてもそこを制限や監視できる訳では無いし、そもそも意味もないと思います。ここでも水際対策というものは「やってる感」が満載です。

最初の待機期間は1月24日まで
途中でルールが変わり、待機期間が3日間短縮されました。その通知がMySOSに届きました
そして11日目にやっと喪が明けました

このときは安全な場所からの帰国者は14日間の自宅待機というルールの時期でしたが、途中でこれが3日間短縮されて11日間となりました。この11日間の工程をまとめるとこういうことになります。

1月10日 羽田帰国 抗原検査陰性 バスで和光市の税務大学校入所
1月11日 隔離1日目
1月12日 隔離2日目 洗濯
1月13日 隔離3日目 抗原検査陰性
1月14日 隔離4日目 洗濯
1月15日 隔離5日目 
1月16日 隔離6日目 抗原検査陰性 退所 バスで羽田まで移送 羽田から自家用車で帰宅
1月17日 自宅待機 
1月18日 自宅待機
1月19日 自宅待機
1月20日 自宅待機
1月21日 自宅待機終了
*11日から21日まで、毎日2回ビデオ通話による位置確認あり

以上、最も水際対策が厳しかった時の隔離報告でした。なかなか貴重な体験ができたとは思っています。なお2023年4月29日午前0時から、日本入国に際してのすべての制限は撤廃されました。また欧米などについても殆どの国で制限は少なくなっています。これは本記事執筆時点の情報です。

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