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「いま安楽死と尊厳死を考える」シンポジウム(20日開催)。佐々木淳Dr.のFacebook転載です。

安楽死の選択が存在することで、人々はより幸せになる(不幸が小さくなる)のか。

宮下洋一さんから安楽死容認国での実情を聞いて、それらの国々でも安楽死が存在することで生じる苦悩が存在すること、少なくとも日本においては幸せになる人よりも不幸になる人の方が多いのではないかと感じた。

安楽死の主要な要件は大きく3つ。

①代替治療がないこと

②耐え難い苦痛があること

③本人の明確な意思があること

①代替治療がないこと:

実際には治療法がないというケースだけではない。治療の中止や不開始を選択するのは本人。治療法がないということではなく、治療をしたくない、ということで安楽死が選択できる。

もちろん人生の最終段階であれば、治療をしてもしなくても残された時間はさほど変わらないということはあるだろう。しかし、治療すれば生活や人生を取り戻すことができる人の場合はどうだろうか。

宮下さんは、安楽死を希望するがん患者に、医師が治癒する可能性を説明して治療につなぎ、その後、20年間、病気のない状態で人生を謳歌しているケースを紹介してくれた。安楽死の妥当性を判断した一人目の医師は安楽死を許容、しかし二人目の医師が彼女の治療を積極的に提案した。「生きていてよかった!」と今の気持ちを表出する彼女が、かつて病気の治療を拒絶し安楽死を希望した理由は、実は家族関係だった。

日本でもALSのような神経難病において、人工呼吸器の装着を希望する人としない人がいる。疾患そのものが治癒するわけではないが、医療機器と残存機能を活用しながら、生活を継続し、社会で活躍している人も多い。しかし中には、病院で「呼吸器の装着は悲惨だ」「機械をつけると一生療養病院から出られない」などと医師個人の価値観や経験の範囲内での説明をされ、治療を断念する患者もいる。

弁護士の長岡さんからは、日本において憲法や条約、関連法でその権利が保障されているにも関わらず、障害福祉サービスが不当に給付制限されている実情が紹介されたが、家族に介護負担をかけられないと治療の終了を希望する人もいる。

患者の家庭環境や医師のスタンス、そして社会的支援によって本人の意向が変わるような状況は果たして適切なのか。

②耐え難い苦痛があること:

痛みは主観的なもの。その人が置かれている環境によっても苦痛は大きくもなれば小さくもなる。その判断は本人の自己申告に依存することになる。

もともとがんの終末期の耐え難い「痛み」からの逃避を目的に議論が始まったはずだが、最近は「精神的な苦痛」に対象が拡大、要介護高齢者、精神疾患、裁判の被告人や受刑者、そして「夫婦同時安楽死」まで認められるようになっている。例えば夫亡き後、一人で生きていきたくないと妻が安楽死を希望するケースも増えているとのことだが、このようなケースは安楽死以外の支援についての提案が必要なのではないか。

③本人の明確な意思があること:

文化的に自己決定が尊重される欧米においては、本人が自分の本当の気持ちを表出することは難しくない。本人の哲学や人生観に基づいて行われた決断は否定されるべきではない。

しかし安楽死の選択に社会的要因が関わっているケースも少なくない。このようなケースを安楽死で解決することは果たして正しいのか。環境によって意向が変わる場合(こんな状況なら死にたい、こういう状況なら生きていける)、まずは本人の意向確認の前に、必要な社会的サポートを提供すべきではないか。

また、日本においては、自分の本当の気持ちを表出せず、周囲の意向を尊重した選択をする(遠慮する、忖度する、空気を読む)人が少なくない。このような状況で表出された本人の言葉で、後戻りのできない選択を強いるような状況が生じることは避けねばならない。いまも医療現場では「DNARとった」「ACPした」みたいなノリで意思決定が行われているが、この延長線上で安楽死の同意がとられるようになれば、日本は世界最大の安楽死大国になるかもしれない。

宮下さんの報告からは、安楽死という選択が存在することが、欧米においても、必ずしもすべての人にとって心地よいものではないことを伺い知ることができた。

例えば、スペインでは神経難病の人たちが、安楽死が認められたことで暮らしにくくなったと感じている。

一方で中米では、神経難病の人の訴えに基づき、憲法裁判所が死ぬ権利を認め、安楽死が制度化された国もある。

その人にとって最善の選択として安楽死を求めること自体は、否定されるものではないのかもしれない。

しかしその前提として、その人が自分自身の真の意向として「最善の選択」ができる環境が必要であること、そしてそれは伝統的安楽死容認国においても、必ずしも達成できていない状況を理解できた。

全国の在宅医療関係者が幕張に集結した今週末。

学会での活動は法人の仲間たちに任せ(悠翔会は10件の発表に加え、ワークショップやシンポジウムで複数の座長を担当させていただきました)僕は主催する在宅医療カレッジ札幌2024へ。

安楽死容認国での現場の取材を10年にわたって重ねておられる宮下洋一さん、障害のある方々の生きる権利に向き合う弁護士の長岡健太郎さん、そしてユニバーサルホスピスマインドの普及に取り組む日本エンドオブライフ・ケア協会の千田恵子さん、3人のパネリストと会場に参加された方も含め「安楽死と尊厳死」について3時間議論した。

安楽死を推進すべきかどうか、ではなく、安楽死が認められる国々の文化的背景、意思決定(支援)の在り方について、改めて考えさせられた。

いずれにしても「欧米よりも遅れている」ではなく「欧米とは文化的背景や意思決定の在り方が根本的に異なる」日本。

ACPに関する取り組みもようやく始まったばかり、という感じだが、そもそもACPも欧米から輸入された概念。ここを掘り下げていくことで、もしかすると自分たちにとって本当に大切なのは何なのか、そんな議論につなげていくことができるのかもしれない。

そんなことを思った。

とりあえず、以下に宮下洋一さんの基調講演の概要を共有します。

宮下洋一さんが安楽死をテーマに取材活動を開始したきっかけは「生と死」に対する強い関心。

本当に安楽死は必要なのか。

時間がたってみないとわからないのではないか。

継続的な取材をすることで安楽死の本質が見えてくるのではないか。

そう考え、10年間、取材を重ねてきた。

その間、安楽死容認国も増えてきた。

そして、その実態も見えてきた。

安楽死には「積極的安楽死」と「自殺幇助」の2つがある。

●積極的安楽死(オランダ・ベルギー・ルクセンブルグなど)

医師が致死薬の液体を患者に直接投与し、死に至らせるもの。

※その対義語として「消極的安楽死」があるが、これは安楽死というよりは、治療の不開始や中止、緩和的措置などによって結果として死期が早まるもの(尊厳死・フランスや日本など)

●自殺幇助(スイスなど)

患者自ら致死薬を服用する、または致死薬の点滴のバルブを開くことで死に至るもの。

オランダやベルギーなどでは積極的安楽死が容認される一方、スイスでは積極的安楽死は殺人罪として取り扱われるなど、国によって容認される手段・方法は異なる。

「安楽死伝統国」における死者数は増え続けている。

●オランダ 年間9068人(全死亡の5.4%)

●ベルギー 年間3423人(3.1%)うち外国人(主にフランス人・ドイツ人)110人

●ルクセンブルグ 年間34人

●スイス 支援団体Exitによるものだけで年間1756人

スイスでは自殺幇助目的での渡航が許されている(ディグニタスやライフサークルなどの支援団体がある。ディグニタスだけで250人、ライフサークルで90年、年々増えている。日本人も累計6人)

●コロンビア 年間322人

近年、北米やオセアニア、欧州を中心に安楽死容認国が拡がってきている。

●オレゴン州で1997年容認されたのを皮切りに、ワシントン、バーモント、カリフォルニア、コロラド、ハワイなど10州で自殺幇助が認められている。ただしニュージャージーは廃止の方向。

●カナダ:2016年、安楽死と自殺幇助の双方を容認。2022年は13241人。7年間で合計4.5万人が安楽死を選択。

●オーストラリア:2017年以降自殺幇助が認められる州が増加、現在は2州を除き容認。

●ニュージーランド:2021年に容認。

●ドイツ:近年まで禁止されていたが憲法裁判所が死ぬ権利を容認、自殺幇助を容認する方向に。スペインでは積極的安楽死&自殺幇助が容認されたが、神経難病の患者から生きにくくなったという意見も。オーストリア(自殺幇助)、ポルトガル(積極的安楽死&自殺幇助)、エクアドル(積極的安楽死:ALSのある患者が死ぬ権利を訴え、それを憲法裁判所が認めた)と容認国が増えている。フランスは2024~25年の法制化に向けて動いている。

スイス自殺幇助団体ライフサークル

・会員であること

・明瞭な意志を持ち合わせていること

・回復の見込みがないこと

・受け入れがたい機能不全状態であること

・耐え難く制御不能な痛みを抱えていること

・治療内容の報告を受けていること

・周囲からの影響を受けていないこと

・長期にわたる死の願望があり、それが反映されていること(短期的なうつ状態などの除外)

・独立医からの診断を受けていること

・家族に自殺幇助を報告してあること

スイス入国から自殺幇助までの流れ(外国人患者の場合)

・2-3日前にスイスのホテルに入る

・団体の代表が患者を訪問し、主に意思確認の診察を行う

・独立医が同じ診察を行い、患者に矛盾点がないか判断する

・団体の弁護士が最終判断を行い、ゴーサインを出す

・早朝、施設に向かい、死亡後の遺体処理の書類にサインをする

・ベッドに横たわり、点滴と致死薬が入れられる

・医師が質問し、同時にビデオ撮影を行う(名前・生年月日・点滴のストッパーを開いたときにどうなるかわかるか(本人が死亡することを理解していることの確認))

・手首に止めたストッパーを開き、20~60秒で死に至る(内服を選択することもできるが確実性が下がるので選択されないことが多い)

安楽死を選択したある81歳女性。

担癌状態だが末期がんではなかった。10年前に夫が他界し、老人ホームで暮らしていた。

検査と薬漬けの人生は望まない。また老人ホームで死ぬまで生活を続けることが耐えられない。これまでの良い人生が身体の衰退によって奪われてしまう。

夫からの4000枚のラブレターをスーツケースに入れ、それをベッドサイドに置いて旅立った。

亡くなる前に彼女はこう語っていた。「もし満足のいく人生を送ってこなかったら、もう少し長生きしようと思うかもしれません。」

安楽死を選択した68歳女性、スウェーデン人の産婦人科医。

膵癌で余命半年。耐え難い痛みを耐え抜くことの報酬でもあるのか? 死ぬ姿を子供たちに見せたくない。夫だけに最期の顔を見つめていてほしい。

同じく産婦人科医の夫は、いまは別の女性と暮らす。

夫は、自分は安楽死をしたいとは思わないと。

安楽死の選択には、本人の生に対する哲学が反映される。

それに対して、いい、悪いという評価をするべきではないかもしれないが、少なくとも安楽死がすべての人にとってよい選択肢である、というわけではない。

安楽死が容認される条件の1つは「代替治療がない」こと。

しかし治療を継続するか、放棄するか、最終的に判断するのは本人。そこに絶対的な基準があるわけではない。患者本人の生活・家庭環境も関係する。

本人が治療を望まなければ自殺幇助を申請し、医師が認めれば実現が可能になる。

もう1つの重要な条件は「耐え難い痛み」と「回復の見込みがない」こと。

しかし、その判断基準もあいまいだ。痛みは個人差が大きい。その強さは患者の自己申告に基づく。一般的には10段階で8-10と患者が自己申告される痛みが24時間×1週間続けば「耐え難い」と判断されるが、その判断も患者の自己申告に依存する。

若い世代では上記の条件を満たすことが求められるが、85歳以上であれば、耐え難い痛みでなくても、回復の見込みがあっても、患者の考えが尊重される。

安楽死を法制化した国々では、当初想定していなったことが起きている。

そもそもの目的は耐え難い痛みを持つ、余命わずかながん患者を苦痛から解放することにあったはずだが、その「苦痛」の対象は、「身体の痛み」から「精神的な痛み」に拡大解釈されていく傾向がある。

・高齢者の複合疾患を理由とした安楽死が増加

・夫婦同時安楽死も増加傾向(ご主人ががん末期余命わずかで安楽死が認められた、その妻が健康だが夫がいない人生が考えられない

安楽死が認められる)。片方が健康であっても夫婦であれば同時に安楽死ができるようになった。

・受刑者が裁判または刑期の途中で安楽死(逃亡中に警察官が発砲、下半身不随に)被害者の遺族は判決前の安楽死に対して不満が強かった。

・精神疾患患者を安楽死させ訴訟になるケースも。

そもそも「安楽死をしたい」という意思を尊重することが、本当にその人の幸せにつながるのか。

78歳のジャネット・ホールは2000年に肛門癌を発症、自殺幇助決意し、一人目の医師はそれを容認した。しかし2人目のケネス・スティーブンス医師が治癒可能であることを理由に反対、本人を説得し治療に専念させた。がんは根治し、24年経た現在も無病で経過している。彼女はいま「生きててよかった!(Great to be alive!)」と話す。

彼女が自殺幇助を決意した主たる要因は実は家族関係だった。ケネス医師は彼女の家庭環境に介入し、関係修復も支援した。

「人々は、耐えられない痛みのせいで安楽死を選ぶのではないのです」

ケネス医師はいう。

安楽死を希望する人の特徴

・White(白人)

・Well Educated(高学歴)

・Wealthy(裕福)

・Worried(心配性)

なぜ発展途上国では安楽死が求められないのか。

それは先進国では周囲のサポートが少ない、孤立している人が多いのではないか。

・子供がいない

・家族間の問題

・重度精神疾患など

実際、社会からのサポートが少ない人が、安楽死を選択する傾向が強い。

日本の現状

・刑法199条(殺人罪)患者の意思表示の有無に関わらず薬物投与による致死は殺人罪。

・1991年に東海大学医学部付属病院で、1998年に川崎協同病院で医師による薬物投与による安楽死事件あり、いずれも医師に有罪判決。

・京都ALS患者嘱託殺人

西洋諸国の人々の考え方

・苦しむ姿を家族や友人に見せたくない

・安楽死は権利ではなく、医師と患者の選択肢の1つ

・安楽死は最期に「さようなら」が言える美しい別れになる(それを美しいと感じる価値観がある)※ただし日本でも行われている終末期鎮静でも鎮静前に「さようなら」は言える

・いかなるものであっても個人の選択が家族によって尊重される傾向が強い

・「死の権利」や「自己決定の権利」は普遍的なもの/ただし「普遍的価値観」は欧米とアジア・日本では異なる部分がある(特に生や死、意思決定に関する考え方)。

日本人における安楽死の現実

・日本では積極的安楽死・自殺幇助は容認されていない。

・上記を選択するならスイス・ベルギーに行くか、オランダ・スペインに移住するか。

・末期がんの場合は安楽死が容認されるレベルくらいまで進行すると、体力的に欧州まで移動するのが難しくなる(結果として神経疾患の患者が多くなっている)。

・外国語で最低限の意思疎通が必要。

・家族間での問題が起きやすい(安楽死を願う裏には、家族の問題が隠れていることも。それが解決すれば安楽死が必要ない人も多い)

・「本人の明確な意思」が外的要因による意志の可能性がある/欧米人の意志表示はその人の本当の意志によるものだが、日本では個人の意思表示は必ずしもその人の本当の意思を反映していない。

・死を個人のものと捉えられない文化的な難しさがある。

安楽死取材を通じて感じていること

・人には人それぞれの死に方・生き方がある。すべての人が安楽死をしたいと思うわけではない。周りからの圧力に弱い日本人。迷惑にならないように生きるという文化。安楽死をしたいといったとき、それが本人の本当の意志なのか。

・死に方は他人が決めることではない。その人の本当の意志で安楽死がしたい、周囲の同意がある、そんな安楽死を望む余命わずかながん末期の患者、それがその人の生き方、その人の選択なら否定されるものではないはず。

・しかし、まだ生きることができる患者に対する安楽死は慎重さが必要。その線の引き方が難しい。欧米では安楽死をしたいという患者がいれば、その人の生き方の反映であれば、反対はしない。それは文化の違い。

・そもそも安楽死・尊厳死・緩和ケアの違いを国民が知らない。この辺の違いをきちんとメディアが伝えないといけない。

・容認国の歴史はまだ浅く、今後も取材が必要。オランダ(2002年)では1970年代から死ぬ権利についての議論が重ねられてきた。そのような議論の積み重ねがないまま、それを取り入れることはすべきでない。

・死を急がなくてもよい社会にすることが先決。精神疾患の患者さんの要望が多いことを考えると、社会的サポートの充実が必要ではないかと思う。



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