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キリスト今日の核心をなすもの

キリスト今日の核心をなすもの

 ナザレのイエス・・・ 地中海東部 出身 ユダヤ人
 ユダヤ教から独自の教え
 ローマ宗教・ユダヤ教とも対立し、迫害受ける。
 処刑後に弟子たちが、その教えを広めていった。
 主の教義は、「愛」「人」のとらえ方
 パウロが物語を創造した。いわばストーリーテラー。脚本家。ドラマ作家。それがキリスト教の普及の原動力となった。その結果として、古代哲学がキリスト教的にゆがめられた。

<見解>
 宗教は金儲けに過ぎないという観念が捨てきれず、特にキリスト教は罪が深いものという先入観が多い。例えば、長崎の五島列島の五島市を訪問したことがあるが、キリスト教で救われるどころか、異教徒扱いされ、江戸時代に迫害された歴史が知られている。愛・人の捉え方を純粋に広めるのであれば、あえて布教という行為をする必要がどこにあるのだろうか。金集めの道具にすぎないのではなかったのかという素朴な疑念を持ち続けている。パウロはビジネスの天才であり、2000年も続く巨大集金ストーリーを創作した、偉大な人物であろう。彼に、どのような思想があったのかわからないが、少なくとも、どんな批判でも愛で受け止め、トランプで例えればジョーカー的なものを愛と定義したのではないか。2000年以上継続している宗教ビジネスのキーファクターは「愛」であり、「愛」がビジネスになることが証明されているのではないか。仮に、ベンチャー企業を立ち上げ、莫大な利益を得ようとすれば、企業のクレド(教義)としては、金儲け第一主義ではなく、表向きは「愛」第一主義にしておけば、結果として多くの利益を得られるだろうというヒントを得た気がする。例えば、日常生活や仕事で行き詰ったら、果たして「愛」はどこにあるのだろうかと自問自答する習慣をつけることで、解決に至ることが多いのではないか。
 先週からの中観派から抜け出していない観念状態で生活しているが、今週はキリスト教のパウロがドラマ化した「愛」=「金」という新しい観念をチャンプルしていってみようと思うところである。中観派的な解釈をすると、愛や金は幻想・まぼろし・残像であり、愛そのものは存在しているが、その瞬間の愛は固定化されることはない。ということは、金そのものは存在しているが、通貨取引ではないが、金の価値は変動的であり、終値で固定化されているのは自然の摂理に反しているということではないか。よって、キリスト教についても、幻であり、世の中のキリスト教というのは固定化されているようで、固定化されていないものであるといえる。その時々によって、教義も変化するし、人間の観念も流動的であるといえるのではないか。すべては、ある概念を固定化することで摩擦が生じ、そのギャップを活用して、人々を幸せにすることも不幸せにすることもできるものと解釈したところである。
以上(1160文字)

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