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第 1 回 イントロダクション:経済史について

概要

経済史は人間社会の経済活動の歴史をあつかう学問である。特に、300 年前の 18 世紀にヨーロッパで誕生し、世界各地に拡大した資本主義経済の歴史が主な対象となる。その一方で、20 世紀以降のアジアの経済発展に刺激されて、アジアの過去の経済に焦点を当てることで、資本主義経済の歴史を理解しようという「アジア交易圏論」も盛んとなっている。さらには、西洋で誕生した資本主義経済だけでなく、過去 2000 年にわたり世界各地で育まれてきた多様な経済システムに光を当てる、「グローバル・ヒストリー」という分野も注目を集めている。

1.経済史の意義

経済史とは:経済学の一分野であり、過去に起こったさまざまな経済現象について、その発生メカニズムや背景を明らかにする。

経済学の他分野には「理論」や「政策」がある。⇒これらが現在の私たちにとって重要であることに疑問はない。

なぜ経済史を学ぶのか?

(1)歴史の教訓:現在の私たちは、【過去に人間が経験した事柄を学ぶことで、】現状を深く理解し、次にとるべき道・行動に生かすことができる。

例:発展途上国は経済先進国の歴史・経験から学び、経済発展を目指す。

(2)常識の相対化:現在の私たちが当然と考えている事柄は、過去においても共通していたとは限らない。【歴史を学ぶことで、常識から距離を置き、】新たな視点を得ることができる。

例:100 年前の日本人の離職率は、現在のアメリカ並みだった⇒「終身雇用」は日本文化に根差したものではない。

(3)歴史的経路依存性:現在の私たちを取り巻く経済事象は、【歴史的な蓄積】の上に存在している。現状を正確に理解するためには、過去から現在に至るプロセスを知る必要がある。

例:キーボードの文字配列は合理的ではない。50 年前のキーボードは早打ちすると壊れてしまうため、文字を打ちづらく配列した。⇒人々がその配列になれたので変えられない。

(4)経済理論の実験場:経済学者が考え出した理論が現実に当てはまるのか?その【妥当性を検証する実験場】として、歴史(データ)が用いられる。

例:金融恐慌の発生理論を実証する⇒現実に恐慌を起こすわけにはいかないので、1929 年に起こった世界恐慌のデータを用いて検証する。

2.西洋中心史観の経済史

経済史の時代:伝統的な経済史が取り組んできた重要なテーマが、資本主義の発生と拡大のメカニズムであった。その考察対象は 18 世紀~20 世紀前半の西洋主導の世界経済であった。

18 世紀にイギリスではじまった産業革命は、【飛躍的な生産能力】の向上をもたらし、機械産業をベースとした経済発展が始まった。

その後、西洋で発展した【機械産業、自由競争、自由主義経済(植民地化)】は世界各地に拡大し、グローバル経済が形成された。

*伝統的な観点:西洋は「優れた」社会・文化・技術力を有していたから資本主義を生み出すことができ、世界各地の「遅れた」国家・社会は西洋資本主義を受け入れることで経済発展を遂げることができる。⇒ 【西洋中心主義】と呼ぶ。

大塚史学・・・大塚久雄がリードした日本の経済史研究

西欧で資本主義が発生したのはなぜなのか?そして日本社会で資本主義が発生しなかったのはなぜなのか? 西洋に追いつき、追い越せの近代化論が根本にあった。

・西欧(特にイギリス)では、封建社会の解体と大衆の自由な政治経済活動があったからこそ、資本主義が発生した。

・アジア・アフリカでは専制君主制や伝統的な農村が解体されなかったため、資本主義が自生的に発生しなかった。

戦後の日本経済史をリードする学問潮流となった。

しかし・・・1960 年代以降になると、日本の高度経済成長とともに、学問的な説得力を失なっていった。⇒ 西洋社会ではない日本でも、資本主義による経済発展は可能であった。

大塚史学の停滞以降も、「優れた」西洋と「遅れた」アジア・アフリカという【西洋中心主義】は影響力を持ち続けた。

1980 年代まで、中国やインドといったアジアの大国はいまだ経済発展を遂げておらず、中国経済史やインド経済史では「西洋中心史観」による研究が続いていた。

3.アジア交易圏論

東アジアの奇跡:1970 年代以降になると、高度成長を遂げた日本に続き、アジア NIES や東南アジア諸国も工業化による経済発展をみせた。

「なぜ、日本は西洋地域ではないにもかかわらず、本格的な経済発展を遂げたのか。」

⇒「なぜ、アジアは西洋以外の地域の中でも、工業化・経済発展を遂げることができたのか」

こうした新たな議論にこたえるため、アジアの歴史的な経済発展に焦点を当てた研究が現れた。この新たな研究潮流を「アジア交易圏論」と呼ぶ。

アジア経済の独自性・自律性を強調し、「西洋中心史観」とは距離を置いた視点から、アジア経済の歴史を読み解くことが目指された。

(1)アジアの物産複合

アジア特有の【生産と消費の体系】を物産複合と呼ぶ。アジアの物産複合は 19 世紀の西洋経済の圧力の中でも消え去ることはなく、アジア地域市場の発展につながった。

例:アジア固有の棉花からつくられる厚手の綿布が古くから好まれていた。それに対して、西洋綿布は薄手でありアジア市場に浸透せず。厚手綿布を生産できた日本とインドがアジア市場に綿布を輸出した。

(2)アジア商人ネットワーク

アジアでは古くから【華人商人、インド系商人、倭寇】といった貿易の担い手が活躍していた。そういったアジア人商人たちの商売は、19 世紀の西洋経済の拡大の中で衰退したわけではなく、むしろ【新たなビジネスチャンス】をとらえて商売を拡大させた。

(3)アジア間貿易の成長

19 世紀の西洋進出の中で、アジアでは西洋

との貿易だけでなく、【アジア地域内の貿易】も急速な成長を遂げた。このアジア間貿易の成長は、アジア固有の物産複合や商人ネットワークを基盤とするものであり、アジアの世界市場への統合だけでなく、アジア地域内の【国際分業の形成】にもつながった。

例:東南アジアでは欧米向けのゴム生産輸出が拡大⇒ゴムを生産する現地住民や中国移民の生活必需品の需要が拡大⇒アジア各地から東南アジアに食糧や衣類が輸出された。

*近代アジアの経済発展と世界市場への統合は、西洋資本主義経済の拡大なくしては実現しなかったが、アジア固有の市場や貿易のシステム・ネットワークも重要な役割を果たしたことが、次々と明らかにされた。

⇒現在の日本におけるアジア経済史の流行を生み出した。

4.グローバル・ヒストリー

18 世紀以降の近代経済史の相対化

21 世紀の世界では、資本主義経済、国民国家、民主主義といった近代化の原動力は常識ではなくなった。

近代、国家、資本主義経済を中心テーマとする経済史では現実に起こっている様々な問題に示唆を与えることができない。

東西冷戦の終結、ローカルな民族紛争、宗教対立、地球温暖化、などなど。

⇒18 世紀以降の西洋資本主義経済の拡大という近代化を見直すために、18 世紀以前の世界各地の多様な発展に目を向けようという新たな学問潮流が起こった。

⇒ アメリカではじまった新たな歴史学を「グローバル・ヒストリー」と呼ぶ。

グローバル・ヒストリーの特徴

(1)あつかう時間の長さ:従来の経済史は 30~80 年⇒100 年以上、時には 2000 年

(2)テーマの幅広さ:従来は経済現象のみ⇒【文化、環境、疾病】などに拡大

(3)西洋中心史観の相対化:西洋資本主義だけでなく、非西洋地域の多様な発展がテーマ

(4)空間の広さ:従来の一国史⇒【地域的比較史、地域横断的交流】

(5)脱史料主義:従来は史料のみが考察対象⇒【歴史的分析や地域間関係】の情報も考察対象

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参考文献

浜下武志・川勝平太編 2001『アジア交易圏と日本工業化 1500-1900(新版)』藤原書店。

金井雄一、中西聡、福澤直樹 編 2010『世界経済の歴史 グローバル経済史入門』名古屋大学出版会。

水島司 2010『グローバル・ヒストリー入門』世界史リブレット 山川出版社。

水島司、加藤博、久保亨、島田竜登 編 2015『アジア経済史研究入門』名古屋大学出版会。

岡崎哲二 2005『コア・テキスト経済史』新生社。

杉原薫 1996『アジア間貿易の形成と構造』ミネルヴァ書房。

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これでご希望のテキストを補完しました。何か他にご希望があればお知らせください。


第2回 近世アジアの経済発展
概要
近世(およそ15世紀~18世紀)には、アジア各地の経済はインドのムガル帝国や中国の明・清王朝の秩序の下で発展を遂げた。特に、各地の市場経済の拡大は目覚ましく、地域内・地域間での分業の発達によって人口増加、生活水準の向上、商品生産の増大がみられた。

### 1.大分岐論争
西洋中心史観:ヨーロッパ諸国は経済的に優れていたから、資本主義経済を生み出すことができた。この考えに修正を加える研究が欧米の研究者の間から出てきた。

- ポメランツの大分岐論争
18世紀までの【イングランド】と【中国の揚子江地域】の経済力はほとんど同じであった。物価、生産規模、エネルギー消費量、人口増加といった数値データを用いて実証された。

新たな問:なぜ、イングランドでは産業革命が起こり近代的な経済発展を遂げたのに、東アジアではそれが起こらなかったのか?

回答:ヨーロッパ人は【豊富な天然資源利用可能で、アメリカ大陸の豊かな資源】にアクセスすることができた。地理環境条件が恵まれていたという、外部要因の決定論が提示された。

- アレンの生活水準論争
15世紀から20世紀にかけての世界各地の一般大衆の賃金や生活水準を比較。大分岐論争が提起した西欧と東アジアの経済力の拮抗という問題が、生活水準という重要な指標によって検証された。

結論①:西欧内部の経済格差。北西のイングランドやオランダの生活水準は上昇したが、南欧のイタリアなどは低かった。

結論②:西欧とアジアの比較。18世紀から20世紀にかけて、イングランドやオランダの生活水準は中国や日本の生活水準を上回っていた。しかし、【イタリアの生活水準は日本や中国】と同じレベルにあった。

⇒ 大分岐論争が修正しようとした西欧(北西部)の優位は揺るがない。西欧といっても多様性があり、アジア地域が西洋よりも経済的に劣っていたわけではない。

人々の「生活」が比較的豊かであった西欧諸国は、アジアの産品を輸入するようになった。イングランドで豊かな生活を送る人々が、産業革命によって飛躍的な生産性を獲得した際には、アジアとの貿易が重要な役割を果たした。

⇒ 近世のアジア経済の特徴を理解すれば、産業革命の発生を理解することにつながる。

### 2.東アジア
(1)中国の明・清王朝
明朝(1368-1644年)・清朝(1644-1912年)の中国経済は大きな変化を遂げた。

- 人口の増大:17世紀まで【1億人】を超えなかった人口が、17世紀末から【19世紀初頭にかけて4億人】まで増加した。

⇒ その後、中国の人口は20世紀初頭にかけて6億へ、2016年には約13億にまで増大した。

人口増加の背景:
① 王朝の税制整備によってこれまで把握されなかった人口が記録された
② 内陸山岳地帯の開発による居住地拡大
③ 商業流通の拡大によって分業が進み、生産性の向上がもたらされた

⇒ 生活必需品が十分に供給されたことで膨大な人口が扶養できた。

- 商業経済の発達:18世紀の中国は【農村と都市の間の商業流通】が急速に発達し、市場経済が地方にまで浸透した。

商業化のエンジン:
① 流通経路の整備(内陸河川網の開発、北京と華南をつなぐ大規模運河の開通)
② 貨幣流通の拡大(海外からの銀貨の流入+王朝による銭貨の大量供給)
③ 海外市場への輸出(茶・絹・陶磁器)主にアジアや西欧へ輸出された。

- 朝貢貿易体制:中華帝国を中心に周辺国が従属する地域秩序を【冊封体制】と呼び、その秩序の中で行われる貿易を朝貢貿易と呼ぶ。

中国の王朝は【海外貿易を管理】するため、周辺のアジア諸国と朝貢貿易を行った。中国との貿易は朝貢貿易に限定され、それ以外の民間商人による貿易は厳しく取り締まられた。しかし、民間貿易も王朝の監視を潜り抜けて活発化した。⇒ 倭寇の躍進

朝貢貿易によって、日本からは【銀】、【タイ】からは米、インドネシアからは【海産物】、インドからは【絹布や薬品】が中国に輸入された。中国からは絹や装飾品といった商品が輸出された。

(2)日本の江戸幕府
1603年に徳川家康が江戸(現在の東京)に幕府を置いた。

- 江戸を中心とした経済体制:金貨・銀貨の流通、身分制度の確立、参勤交代による中央集権政治と流通機構の開拓、商業都市としての大阪経済の発展など。

- 江戸幕府の貿易体制:幕府は日本と諸外国との貿易を4つの港に限定した。
① 【長崎の出島】(対オランダ)
② 【松前藩】(対北海道・北東アジア)
③ 【対馬藩】(対朝鮮)
④ 【薩摩藩】(対琉球・東南アジア・中国)

- 人口増加:1600年 1200万⇒1700年 2800万⇒1800年 3000万

- 勤勉革命:人口は増加したが、島国では開墾地は限られた。さらに貿易制限のため海外からの産品の輸入も限られる。⇒ 一人当たりの労働時間を増やして土地当たりの収量を上げた。【人々の勤勉性・労働集約】によって、江戸期の日本経済は人口増加と自給自足を達成した。

### 3.南アジア・東南アジア
(1)インド・ムガル帝国
北インドを中心としたイスラーム王国であったムガル帝国(16世紀~19世紀)によって、インド全土が統一され、経済発展が進んだ。

- 一次産品生産の増大:穀物・砂糖・インディゴ・アヘンといった一次産品の生産が農村部で拡大し、それら産品が国内に流通した。また、海外貿易によってアジアや西欧にも一次産品が輸出された。

- 綿布産業の発展:沿岸都市部では綿織物産業が大きな発展を遂げた。内陸で生産された綿花を用いて、色鮮やかなインド綿布が織られた。インド綿布は世界各地に輸出された。

- イン

ド洋交易圏の発達:アラビア湾・インド沿岸部・東南アジア西部が商業ネットワークで緊密に結びつき、インド洋を中心とした貿易が拡大した。アラブ商人、インド商人、アルメニア商人などがインド洋を舞台に商業活動を活発に行った。

【地中海交易圏】⇔ インド洋交易圏 ⇔【南シナ海交易圏】⇔【東アジア交易圏】

インド洋交易圏は西欧とアジアをつなぐ結節点として重要な位置にあった。

(2)東南アジア・港市国家
東南アジアの沿岸部には多数の港が繁栄し、【貿易を財政基盤】とする港市国家が誕生した。

例:マラッカ王国(15世紀~16世紀)はマラッカ海峡に位置し、東南アジア各地から胡椒や海産物が集まる中継貿易港として繁栄した。また、中国や日本の産品とインドの綿布が交換される中継貿易拠点であった。インド洋交易圏と南シナ海交易圏の結節点として、世界各地の商人がマラッカを訪れた。マラッカ王国はアラブ商人による影響を受けたイスラーム王朝。しかし、王朝の官僚は現地人だけでなく、アラブ人、ペルシア人、華人、インド系などがいた。国際都市国家であった。

1511年ポルトガルがマラッカを占領し、マラッカ王国を滅ぼした。マラッカ王国の王族は周辺の港に逃亡し、新たにジョホール・リアウ王国を建国した。1640年、オランダがマラッカを攻撃し、ポルトガル勢力を駆逐した。

- 「商業の時代」:1450-1680年の東南アジアにおける【貿易の発展、商業農作物生産の拡大、イスラーム国家】の繁栄が起こった。この繁栄の時代を「商業の時代」と呼ぶ。

スパイス、砂糖、ナマコ、亀の甲、フカヒレ、沈香といった東南アジア原産の希少な産品が世界中に輸出された。こうした東南アジアの豊かな産品に引き付けられて、ヨーロッパ諸国の貿易拠点が建設されていった。オランダ東インド会社、イギリス東インド会社、スペインなど・・・19世紀の植民地化へ

### 4.イスラーム経済圏
中東地域で7世紀にイスラームが誕生し、イスラーム文明圏が形成された。イスラームは世界中に拡大し、独自の宗教に基づいた社会経済体制を形成した。

- イスラーム経済:活発な商業活動。しかし、金融活動では利子が禁じられる。またハラールという戒律がある。=豚・酒の禁止など。

- オスマン帝国:トルコを中心に14世紀~20世紀にかけて中東地域を支配したイスラーム王朝。アジアとヨーロッパの民族や文化が交わる文明であり、柔軟な政治制度や法体系によって広大な領域を統治した。商業による経済発展。地理的な優位:地中海交易圏とインド洋交易圏をつなぐ要所に位置する。アラブ商人による国際商業ネットワーク:西はイギリスまで、東は東南アジアにまで商業活動を展開した。

【】内を補完しました。

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第3回 西洋文明のアジアへの進出
概要
15世紀以降、西洋諸国は経済の活力を増していき、アメリカ大陸やアジアへと経済利益を求めて進出していった。アメリカ大陸は西洋諸国に植民地化されていった一方で、アジアでは現地に強力な帝国があり、西洋の影響力は限られていた。アジアに進出した西洋勢力の中でも、オランダやイギリスの東インド会社は、組織的な統治とビジネスによってアジア地域内の貿易で大きな利益を上げ、徐々に植民地を拡大させていった。

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1.西欧の主権国家の形成
主権国家体制:16世紀~18世紀の西欧で誕生した国家による国際秩序をさす。
国ごとに【領域を持ち、その住民を統治する君主・国家機関の主権】が認められている。
13世紀・中世までの西欧にはローマ帝国による支配体制が存在していた。
⇒14世紀に黒死病が蔓延し、全人口の半分近くが死亡したと推計されている。
人々の生存基盤が脅かされ、農民紛争や宗教戦争、宗教改革が頻発した。
⇒民衆は強力な王権・国家統治による保護を望み、政府が強力な権限(徴税・軍事・外交)を有する主権国家が次々と確立していった。
ウ ェ ス ト フ ァ リ ア 条 約 : 30 年 戦 争 の 講 和 条 約 と し て 1648 年 に 締 結 さ れ た 。
【戦争指揮と兵員の所在】を国家に認め、国家主権が最上位となることを認めた。
⇒ ローマ帝国の消滅
ドイツを中心とした 30 年戦争は悲惨な惨禍をもたらした。⇒今後、戦争が肥大化・暴走しないための国際法が必要だとされた。(グロティウス「戦争と平和の法」)
この条約は国家に立法権、課税権・外交権を認めた
⇒以後、西欧の国家体制は【中世封建国家から主権国家体制】へ
財政・軍事国家:近世西欧で構築された【軍事活動に重きを置く国家統治体制】をさす。
近世の西欧では度重なる戦争のため、膨大な戦費が国庫から支出された。
戦争遂行のためには高度な統治体制を築き、国民を統治し、重税をかける必要があった。
また国債を発行して、国家財政を拡大させるという新たなシステムも形成された。

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2.西欧の商業革命
16世紀に西欧で起こった対外進出と貿易成長による社会経済の変化を商業革命と呼ぶ。
十字軍遠征:中東・アジアの知識・文化・豊かな産品が西欧にもたらされ、西欧社会の中にオリエンタル・ブームが発生した⇒ ルネサンスへ
中東やアジアの知識は西欧の技術革新につながった。
火薬による銃器、遠洋航行のための羅針盤、活版印刷による知識共有など
西欧諸国はアジアの産品(特に香辛料や陶磁器)を求め、貿易を拡大した。
15世紀まで、貿易の中心地は地中海の都市=イタリアのヴェネツィアやフィレンツェ
西欧とアジア間にはオスマン帝国があり、直接アクセスできず⇒アラブ商人を介した貿易

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16世紀の大航海時代
スペイン国王の支援を受けたコロンブスが大西洋を渡りアメリカ大陸に到達した。(1493年)
ポルトガルの国家事業によって、ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸南端を経由したアジアとの直接航路を開拓した。(1498年)
⇒ アジアとの直接貿易が拡大+アメリカ大陸の植民地化・資源獲得の開始
西欧における貿易中心地は【地中海のイタリア諸都市から、大西洋沿岸のポルトガル・スペイン】へ移動した。

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17世紀の主権国家の台頭
スペイン・ポルトガルの商業発展は、王族や商人に莫大な利益をもたらした。
一方で、国家体制が未成熟であったため、対外貿易や植民地の利益を国家財政に取り込むことができなかった。
17世紀に入ると、主権国家を構築した【イギリス、フランス、オランダ】が台頭した。
⇒貿易の中心地は【ロンドン(イギリス)やアムステルダム(オランダ)】に移動した。

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大西洋奴隷三角貿易
①英仏によるカリブ諸島の植民地化⇒プランテーション開発⇒労働力としてアフリカ奴隷が運び込まれた。
②英仏によるアフリカ西岸の植民地化⇒アフリカ人奴隷とインド綿布や銃器の交換⇒アフリカ奴隷をカリブ諸島に輸出し、引き換えに、砂糖、煙草、綿花が英仏に運ばれた。

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大西洋三角貿易の構造
西欧【綿布(インド産)+銃器】⇒西アフリカ【奴隷】⇒アメリカ【砂糖+煙草】⇒西欧
大西洋三角貿易の一つの経路は【アジアの産品(綿布)】に頼っていた。
=西欧にとってアジアとの貿易は、アメリカ大陸からの資源輸入の生命線であった。

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3.西欧勢力のアジアへの進出
16世紀以降、西欧勢力はアジアに積極的に進出し、直接航路を開拓した。西欧勢力はポルトガルを筆頭に、アジアに植民地を形成し貿易拡大を進めた。
(1)ポルトガル
ポルトガルは1510年にインドのゴアを植民地として、アジアからポルトガルへの香辛料の輸出を拡大した。
その後、スリランカ(1510年)、東南アジアのマラッカ(1511年)、中国のマカオ(1550年代)を植民地として、アジアとの貿易拠点を確立していった。
日本にも到来し、ポルトガル商人は南蛮貿易の主な取引相手となった。(1543年鉄砲伝来)
17世紀になると、オランダやイギリスのアジア進出に圧倒されて、アジア貿易における影響力は衰退していった。
(2)スペイン
1492年にスペイン国王の支援の下、コロンブスがアメリカ大陸に到達
⇒スペイン勢力は大西洋を越えてアメリカ大陸に進出・植民地化
1519-22年、マゼラン艦隊が大西洋⇒南アメリカ南端⇒太平洋⇒東南アジアへ到達
スペインは大西洋+太平洋経

由でのアジア進出を進めた。
1571年、フィリピンに植民地マニラを建設し、そこを拠点に対アジア貿易を展開した。
ガレオン貿易:アジアでは銀がお金として高い価値を持っていた。
スペイン領メキシコは銀の一大産地=メキシコで鋳造されたスペイン・ドル銀貨はアジアで広く流通した。
⇒スペインの大型ガレオン船は【メキシコからフィリピンに銀貨】を運び、それをもってアジアの香辛料を購入した。それをスペインに運び、大きな利益を上げた。

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4.オランダとイギリスの東インド会社の台頭
17世紀以降になると、主権国家を確立した北西欧諸国が発展し始めた。
主権国家は莫大な財政を必要とした⇒商業資本からの税収を財政に取り込んだ。
その結果、国家によって特許が与えられた商社が貿易を独占するようになった。

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西インド会社:17世紀にオランダやフランスなどで設立された商社
主に、西欧諸国とアメリカ・西インド諸島との貿易を独占し、大西洋奴隷三角貿易を担った。
しかし、奴隷貿易の廃止や貿易自由化が進み徐々に解体されていった。

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東インド会社:【イギリスやオランダ】で設立された商社、アジアとの貿易を担った。
1600年のオランダ東インド会社は【世界初の株式会社】であった。
西欧とアジアとの貿易を独占し、単なる商社ではなく、【植民地統治を担う統治機関】としても機能した。

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(1)オランダ東インド会社
1600年に、オランダにあった6つの商社が合併してオランダ東インド会社を設立した。
アジアにおける統治権、徴税権、条約締結権を有するなど、オランダ国王から特権を与えられた特許会社であった。
スリランカ、東南アジアのジャワ島やモルッカ諸島、マラッカ、日本の長崎出島に支店・植民地を置き、アジア域内貿易を展開した。
オランダ東インド会社のアジア域内貿易
①日本【銀・銅】⇒ 東南アジア【皮革】⇒ 中国【絹・陶磁器】⇒ 西欧
②日本【銀・銅】⇒ インド【絹織物】⇒ 東南アジア【香辛料】⇒ 西欧

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(2)イギリス東インド会社
1600年、イギリス王女がイギリス東インド会社に特許状を与え、アジアにおける貿易の独占を許可した。初期には東南アジアや東アジアへの進出を目指したが、オランダ東インド会社との競争に敗れて、東南アジア・東アジアから撤退した。
⇒ 貿易活動を中東~インドに集中させた。
18世紀までのイギリス東インド会社はインドを拠点とした遠隔地貿易に投資した。
イギリス【銀貨】⇒ インド【絹織物】・中国【茶・絹】⇒ イギリス
オランダ東インド会社のアジア域内貿易とは異なり、単純な直接貿易が主体であった。
18世紀後半にインドムガル帝国から植民地を獲得⇒アジア域内アヘン貿易を拡大+商業だけでなく植民地統治の機能も強化していった。


第4回 産業革命と工業化の時代
概要
18 世紀にイギリスで起こった産業革命は、経済システムを大きく進化させた。蒸気機関を筆頭に新たな技術が次々と開発され、イギリス経済の生産性は飛躍的に向上した。そしてイギリスではじまった工業化は西洋諸国へと拡大し、西洋資本主義経済は急速に拡大していった。西欧で産業革命が始まった理由としては、エネルギー資源の利用、法制度の整備、知識の蓄積、政府による産業保護といった複合的な要因が絡んでいた。

### 1.イギリスの産業革命

産業革命とは・・・18世紀から19世紀にかけてイギリスを中心に起こった産業の発展と社会の変化をあらわす。石炭を膨大な熱エネルギーに転換する【蒸気機関という新たな技術】が発明され、それが工業部門に導入されたことで【飛躍的な生産性の上昇】がもたらされた。

- プロト工業化論:産業革命の起源を、18世紀以前の西欧における工業化に見出す議論
- 18 世紀以前から徐々に西欧における農業と工業の分業体制は形成されていた。
- 16 世紀の人口増加⇒農村では労働力が過剰⇒余った農民が低賃金で工業品を生産した。
- 農業と工業の分業+農村と都市の分業・・・衣類 ⇔ 農作物 ⇔ 家具・農具

- 技術の発展:イギリスでは1760年代~1830年代にかけて技術革新が起こった。
- 1769 年に【ジェームス・ワット】が新型の蒸気機関を発明した。蒸気機関が綿織物産業に導入され、大量の衣類が工場で製造されるようになった。

- その他の重要な発明
- 1733 年:ジョン・ケイの【飛び杼】機織り機の高速化が実現
- 1764 年:ハーグリーブスのジェニー紡績機 綿糸生産の効率化
- 1779 年:クロンプトンの【ミュール紡績機】強靭な綿糸の大量生産が可能に
- 1785 年:【カートライトの力織機】蒸気機関による自動機織り機が綿布生産を拡大
- 鉄鋼業、製糸業、ガラス製造業、化学薬品などの分野で次々と技術革新が進み、イギリスの産業全体の規模と範囲(産業の種類)が大幅に拡大した。

### 2.エネルギー資源の利用

なぜ、人類史上初めての産業革命は西欧のイギリスで起こったのか?
答え① 【イギリスは豊かな資源(エネルギー)が利用可能だったから。】

- 17 世紀のイギリスでは鉄鋼業や建築・造船業が勃興した。⇒大量の木材・木炭が利用され、森林が消滅してしまった。ロシアや北欧諸国から木材を輸入していた。
- 18 世紀になると【コークス製鉄法】が発明されて、製鉄に石炭が用いられるようになった。
- 製鉄業の拡大とともにダーラムやニューカッスルの石炭業が発展した。18世紀のイギリスは全世界の石炭生産量の85%を有していた。

- 蒸気機関の発明:18 世紀半ばに、石炭を動力源とする蒸気機関が発明され各産業に導入された。⇒石炭需要が大幅に増大した+炭鉱からの排水問題も蒸気機関による排水ポンプが発明されて解決⇒石炭生産のさらなる増加

- 輸送インフラの整備:旧来は炭鉱からイギリス各地への石炭の輸送は馬車
- 1760 年代には運河が開拓され、石炭輸送費が減少⇒国内の石炭市場が拡大
- 1830 年には蒸気機関車による鉄道輸送が開始+蒸気船による運河輸送の開始⇒石炭輸送費が大幅に低下⇒石炭価格の下落⇒石炭需要の増大⇒石炭生産のさらなる増大

- イギリスにおける年間の平均石炭生産量
- 1540 年頃 約 20万トン
- 1650年頃 約150万トン
- 1700年頃 約 300万トン
- 1750 年頃 約 450万トン
- 1800年頃 約1000万トン

産業革命の背景には、【木炭・木材から石炭へ、というエネルギー革命】があった。その後、20世紀初頭まで石炭はエネルギー資源として世界の産業を支えた。

### 3.法制度・政治制度の整備

なぜ、人類史上初めての産業革命は西欧のイギリスで起こったのか?
答え② 【個人の所有権・財産権を保護する法制度が整っていたから。】

- 制度経済学派:経済発展は、効率的な制度があってこそ可能であると主張する経済学者のグループ。効率的で整備された制度があると、【取引費用】が引き下げられ、【市場経済と分業】が進み、それが経済成長につながる。

- 16 世紀~18世紀の西欧諸国では一連の効率的な制度が作り上げられていた。

- (1)トップダウン型の法制度
- 16 世紀以降の西欧の主権国家では、統治者が自らの正当性を主張するためローマ法に基づいた法体系を築き上げた。その中で、国家と民衆との関係が明文化されていった。単なる支配・服従関係ではない⇒支配者の権利と被支配者の権利が明確に記された。⇒王権が文書によって規制される。王と臣下の関係が契約関係となった。

- イギリス議会政治の出現
- 17 世紀のイギリスでは、【君主である王と貴族の代表からなる議会】が統治を担っていた。
- ピューリタン革命:イギリス国王チャールズ1世は清教徒(ピューリタン)を弾圧した。清教徒には地主、都市の商人、ヨーマン(自営農民)といった大衆が多く、議会を支持した。国王支持の王党派と議会派との間で対立が起こり、1642年にピューリタン革命が勃発⇒王党派は敗北し、国王は処刑。王政を倒し共和制(国民の代表からなる議会が最高の権限を持つ)が樹立された。
- 名誉革命:ピューリタン革命後、クロムウェルの独裁政治により共和政は退廃した。⇒その後、王政が復活した。これに対して1688年に議会は革命を起こし、国王を追放した。オランダ出身の新たな国王の下

、立憲君主制が樹立された。(無血の革命=名誉革命)

- イギリスでは18世紀までに【議会制】が整備されていた。= 発明家や資産家の【所有権】が保護されており、技術開発を促進した。

- (2)ボトムアップ型の法制度
- 西欧では中世の時代から市民による自治組織や商人ギルドが発達していた。自治組織(コミューン):市民が集団を形成し、自らの社会生活を統治した。王権による圧政から自治体を守る機能を果たした。⇒自治組織が最終的には都市国家となり、民主的な統治をおこなっていた。例:ドイツの都市国家 ハンブルク、ブレーメン、ハンザ同盟など。「都市の空気は自由にする」市民の権利や経済利害は整備された民主的な法制度によって保護されていた。

- 商人ギルド:【同じ職種や同じ出身地の商人や職人】が互助組織を作り上げ、集団的権利を保護した。「共同体」を形成することで、取引契約や罰則規定を共有し、【信頼の非対称性による取引コスト】を削減した。ギルドのルールは高度な法制度として整備された。⇒こうした商人・職人ギルドが現代の「法人」企業の原型となった。企業内取引は取引コストを引き下げる役割がある(ウィリアムソンの取引制度分析)

- イギリスで始まった産業革命は、技術革新やエネルギー開発といった華やかな大転換によってもたらされただけではなく、【200年以上かけて法制度と政治体制が整えられた社会資本】が準備されていたことも重要であった。

### 4.政府の産業保護

なぜ、人類史上初めての産業革命は西欧のイギリスで起こったのか?
答え③ 【政府による産業保護が行われていたから。】

- 産業政策:国家が市場介入を行い、経済発展を促す政策を採用する。インフラ整備、規制緩和、補助金などが工業化に効果を発揮する。

- 産業保護によるイギリス貿易の構造変化
- 18 世紀までイギリスはインドから綿織物(棉花)を輸入し、逆に毛織物(羊毛)を輸出。インドの色鮮やかな綿織物はキャラコと呼ばれ、イギリス社会で大人気となった。⇒綿織物の輸入は増加。一方で毛織物はあまりアジアでは売れなかった。⇒貿易赤字が増大し、支払いとして銀貨がインドに送られた。イギリス政府の重商主義にとっては危機的状況(自国産業が育たず、資金が流出)

- イギリス政府の産業保護
- ①キャラコ禁止令:イギリス政府は大衆によるインド綿布の消費を規制するため、1700年に【キャラコ輸入禁止法】+1720年には【キャラコ使用禁止法】を施行した。
- ②関税政策:イギリス政府はインドから輸入される綿織物に1798年には【18%】、1813 年には【85%】の高関税をかけて輸入をブロックした。
- ③産業補助:インドはイギリス植民地=イギリス政府がインドの関税を決定できた。イギリス綿織物の輸入に対するインドの関税は5%⇒イギリス綿織物の輸出促進+綿織物産業に補助金を支給して、産業発展を促した。技術革新+政府の産業政策=イギリスは綿織物を自国で生産できるようになった。さらに、19世紀前半にはアジア・アフリカにイギリス綿工業品を大量に輸出し始めた。⇒ イギリスは【インド綿織物の輸入代替工業化】を成し遂げた。


第5回 西洋資本主義経済の成長と拡大
概要
19 世紀以降の産業革命によって強力な経済力を得た西欧諸国は、さらなる経済発展を遂げ
るため世界中に経済活動を拡大させた。西欧諸国の商社や商人によるアジア・アフリカ・ア
メリカへの進出をバックアップしたのは、工業製品の輸出、自由貿易の拡大、そして新たな
技術によるインフラの向上であった。本講義では、19 世紀の西洋資本主義経済が、その影
響力をいかにして世界中に拡大していったのかを学ぶ。
1.工業製品の輸出と一次産品の輸入
・イギリス綿製品産業の発展:18世紀末に【蒸気機関を用いた紡績機や力織機によって飛躍的な生産性】の向上につながった。
綿織物の製造過程:棉花から綿を取り出す⇒綿から糸をつむぐ(紡績)⇒糸を機織り機によ
って布に仕上げる⇒綿布を製品に裁断・仕立て、完成
産業革命以前、衣類の製造は手作業+木造製造機が主体。時間と労力のコストを要した。
紡績と機織りの作業に機械が導入されたことで、【大量生産と大幅なコスト削減】が実現した。綿織物は大量生産によって、手織りの製品と比べて安価に供給された。
・海外への輸出拡大
18 世紀までの綿織物貿易はインドが圧倒的なシェアを持っていた。
棉花はインド原産の植物、その後、中東から西欧へ、さらにアメリカ大陸へ伝搬した。
インドでは綿織物産業が発展し、安価な労働力+技術の蓄積によって多種多様な綿織物を
生産し、西欧、中東、アジア各地、アメリカ大陸にまで輸出した。
18 世紀後半になるとイギリスは、産業革命によってインド綿織物の輸入代替を達成した。
さらに、19世紀初頭以降にはイギリスから綿工業品が世界中に輸出され始め、19世紀半ば
までには世界市場を席巻した。
・イギリス製鉄業の発展
鉄の製造には高温エネルギーが必要で、18 世紀初頭までは木炭にエネルギーを依存してい
た。しかし、木炭では大規模な熱源を得ることができない。
18 世紀後半にダービー家によって【コークス(石炭を純化したもの)】が開発された。
安価な熱源の大量供給⇒製鉄生産の大規模化・コスト削減⇒安価な鉄の供給
鉄の大量供給による鉄道建設の拡大⇒【世界中で鉄道建設が進んだ】
⇒イギリスから鉄が大量に輸出された。
・一次産品の輸入
西欧諸国は工業製品をアジア・アフリカに輸出し、その代わりに工業原料や食糧を輸入した。
インドの棉花、西アフリカのアラビアゴム、東南アジアの砂糖、中国の茶、日本の生糸など
が西洋諸国に輸出された。西欧の工業生産とアジア・アフリカの一次産品生産との間の国際
分業が形成され、世界貿易は飛躍的な成長を遂げた。
・アヘン三角貿易
18 世紀までのイギリスは中国から茶や生糸を輸入したが、中国に輸出できる商品がなかっ
た。= 支払いとしてドル銀貨をアジアに送った。
19 世紀になるとイギリスは銀貨の支払いを減らすため、植民地化したインドを拠点とした
アヘン三角貿易を作り上げた。
イギリス【綿織物】⇒ インド【アヘン】⇒ 中国【生糸・茶】⇒ イギリス
多角的な貿易決済システムによってアヘン貿易は成長し、中国ではアヘン中毒者が続出
⇒ 1842年にイギリスと中国清朝間のアヘン戦争勃発・・・イギリスが勝利し、中国の貿
易自由化+香港の割譲 香港を拠点にアヘン三角貿易はさらに成長していった。
2.商業・金融ネットワークの発達
・商人や商社の海外展開
18 世紀まではアジアと西欧との貿易は東インド会社が独占
19 世紀に入ると、アジアの貿易にアメリカ・デンマーク・ドイツ系の商社が進出し、自由
に貿易活動を展開し始めた。
⇒イギリスの民間商人たちの間で東インド会社の独占貿易に対する不満の声が高まった。
イギリス東インド会社の特許状(貿易独占権)は20年ごとに更新
1813 年、東インド会社の【インド貿易の独占】が停止
1833 年、東インド会社の【中国貿易の独占】が停止
⇒アジアの貿易独占廃止によって、アジア市場は民間商人に解放された。
ジャーディン・マセソン商会:インドを拠点にアジアの貿易に参入したイギリス系商社
インドから中国へのアヘン輸出、中国からイギリスへの茶の輸出から莫大な利益を上げた。
幕末開港後の日本でも、横浜・長崎に支店を置き、明治維新の志士達に資金や兵器を提供。
・国際銀行ネットワークの発達
1830 年代までに、西欧の商人や商社は世界各地に貿易業を展開していった。
しかし、西欧に比べて、アジア・アフリカの金融業は未発達で、ヨーロッパとの遠隔地貿易
の決済に大きな支障が生じていた。
1830 年代まで、特許状をもつイギリス東インド会社がアジアの金融業を独占していた。
特許状の強み ①政府お墨付きの金融機関となる
⇒【社会的信用が増し、預金や資金の獲得がしやすくなった。】
②株主有限責任性=銀行が破綻した際に、株主は全負債を負担する必要はなくなった。
⇒【多くの株主をひきつけ、企業資産の拡大につながった。】
アジア進出を目指す金融機関は政府に特許状を申請し、1830年代以降になると特許状を獲
得した金融機関が経営拡大を遂げた。
特許状を取得した銀行は、ロンドンを拠点にアジア・アフリカに銀行支店を次々と開設
グローバルな支店ネットワークと為替業務によって、遠隔地貿易の決済を円滑化した。
・荷為替手形の誕生
遠隔地の間の貿易の決済では、輸出業者と輸入業者の間での決済は、商品輸送証明を付けた
為替手形で行われた。その取引は国際銀行が仲

介した。
具体例:5ページの図を参照
3.自由貿易の拡大
・自由貿易の発展
自由貿易とは、【関税や非関税障壁が無いか、限りなく低い状態で行われる】貿易である。
・18世紀の重商主義
ヨーロッパ諸国は、国富の蓄積を重視し、特定の商社を優遇する独占貿易を促した。
特に、貨幣や貴金属の国外への流出を避けるため、輸入を制限した。
貿易は特権的な商人や商社によって独占されていた。例:東インド会社
・19世紀の西洋の自由貿易
イギリスの経済学者デービット・リカードが比較優位に基づく貿易理論を考案した。
⇒貿易に参加するすべての国・人はそこから利益を得ることができる!
⇒重商主義を捨て、貿易自由化を進めるべき!
1860 年に英仏間で史上初の自由貿易協定、【コブデン=シェヴァリエ協定】が調印され、その後、西欧主導の自由貿易体制が世界に拡張した。
・西洋諸国とアジア・アフリカ諸国との間の不平等条約
西洋主導の自由貿易体制は植民地化や不平等条約を軸に展開した。
*【南京条約】:1842 年にアヘン戦争に勝利したイギリスが中国清朝と結んだ条約
香港をイギリス領とし、中国の貿易を開放することが取り決められた。
*【パウリング条約】:1855 年にイギリスとシャム(現タイ王国)との間で結
ばれた通商条約。バンコクの貿易は自由化され、イギリス綿工業品が大量にシャム国内に輸
入された。シャムからは食料としてコメが輸出された。
*【日米修好通商条約】:ペリーの黒船来航をきっかけに、江戸幕府と米国との
間で通商条約が結ばれた(1858年)。その結果、250年続いた江戸幕府の貿易規制は終わり
を迎え、その後、イギリス、フランス、ロシアなどとも通商条約が結ばれた。
貿易自由化は権力者の経済力を奪った反面、大衆には大きな利益をもたらした。
4.交通・通信インフラの革命
・19世紀の交通通信革命
西欧社会で生まれた科学技術は、経済活動を促進する様々な用具を生み出した。
中でも遠隔地との貿易を促進したのが輸送機器と通信機器の発達であった。
・蒸気船
19 世紀初頭、石炭を燃料とする蒸気船が開発され、世界の海に蒸気船でつなぐ航路が発達
1822 年、イギリスでペニンシュラ・オリエンタル蒸気船会社が設立された。イギリスとア
ジア・アフリカ・アメリカをつなぐ蒸気船定期便を運航し、世界の物流を促進した。
・海底電信ケーブルの敷設
1870 年代に、イギリスとフランスの間のドーバー海峡に海底電信ケーブルが設置され、電
子通信で情報をやり取りすることが可能となった。その後、アジア・アフリカ・アメリカま
で電信ケーブルは拡張し、世界中の情報が素早く伝達され、情報収集は政治的・経済的に重
要性が高まった。
・海運の効率化
1869 年、【地中海と紅海を結ぶエジプトのスエズ運河】が開通した。
1875 年にはフランス人レセップスからイギリスに運営権が売却され、イギリスの対アジア
貿易の拡大に活用された。
1869 年以前はアジアと西欧間の海運は、アフリカ・喜望峰回りで【3か月以上】
かかった。⇒ 運河経由で【2週間~1か月】に短縮した。
イギリスとアジア間の蒸気船航路も設置され、海運は劇的に増大していった。

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第6回 自由貿易体制の構築
概要
19世紀に工業化を進めた西洋諸国は、世界中にその工業製品を輸出した。こうした西洋主導の世界貿易の成長を支えたのは自由貿易の拡大だった。19世紀の半ばにヨーロッパで構築された自由貿易体制は、その後、植民地化や侵略戦争を背景にして、アジア・アフリカに拡大していった。自由貿易はアジア・アフリカの権力者・支配者の利益を損なうものであったが、分業の発達によって生産と消費を担う一般大衆には貿易の利益をもたらした。本講義では19世紀の自由貿易体制の構築について学ぶ。

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### 1.自由貿易思想の誕生

#### (1)近世ヨーロッパの重商主義
17世紀以降、西欧諸国は国富の蓄積を重んじ、特定の商社の独占貿易を認めた。
①貨幣流出の阻止:【貨幣や貴金属の国外への流出】を避けるため、輸入をブロックした。
②独占貿易:貿易は【特権的な商人や商社】によって独占された。

#### (2)自由貿易主義の誕生
1776年、イギリスでアダム・スミスが【『諸国民の富』】を出版した。
国富とは、金銀財宝だけではなく、【人々の豊かな生活】であることを主張した。
1819年、イギリスでデービッド・リカードが【比較優位に基づく貿易理論】を考案した。

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### 2.西欧の自由貿易主義の拡大

#### (1)イギリス自由貿易体制
1820年代以降のイギリスで、リカードによって生み出された自由貿易理論が、現実の経済政策に影響を及ぼし始めた。
・穀物法の廃止:イギリスでは古くから海外からの穀物輸入に関税を課していた。
1815年、ナポレオン戦争が終了し、西欧諸国との貿易が復活=穀物輸入が拡大
農業から利益を得る【地主所有貴族】が穀物輸入への関税を主張(穀物関税法の施行)
⇒ イギリス国内の小麦価格が高騰し、【労働者階級】の生活が困窮した。
⇒ 1839年に【マンチェスターの産業資本家】を中心とした反穀物法同盟が結成され、穀物関税の反対運動が起こった。しかし、議会は穀物法を温存し続けた。
⇒ 1845年、アイルランドで飢饉が発生し、多数の人命が失われた。⇒穀物輸入の制限をなくし、労働者の生活向上を!⇒ 1846年、穀物法が廃止された。
加えて、1849年には、イギリス船籍以外の船舶の貿易を制限した【航海法】が廃止

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### (2)最恵国条項ネットワークの拡大
1860年代にはいり、イギリスは次々と輸入品の関税を廃止していった。イギリスで生産されていない物品(ワイン・煙草・コーヒー・茶など)のみ関税が課された。
・1860年の英仏通商条約・別名【コブデン=シェヴァリエ条約】
定義:通商条約を結んだ国々の間では、【第三国との通商条約の条件が無条件に適用される】ことを約束する条項
⇒ 最恵国待遇により、B国は【A国の鉄製品の関税を5%】に引き下げる。
例)B国がD国と鉄製品関税を撤廃する条約=B国と最恵国待遇条項をむすんでいたA国とC国の【鉄製品関税も撤廃】=ABCD国の間の鉄製品関税は撤廃!
西欧諸国間では加速度的に関税率が低下⇒ 自由貿易が浸透+【西欧域内貿易】が急成長

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### 3.西洋植民地化と貿易政策

#### (1)インドの植民地化と関税政策
1830年代までにイギリス東インド会社はインド全域を植民地化し、イギリス・インド帝国(British India)が成立した。
・イギリス綿工業品の流入
イギリスはインドの綿製品を輸入代替し、さらにインドにイギリス綿工業品を輸出
インドにおけるイギリス綿工業品の関税【5%】
イギリスにおけるインド綿製品の関税【50-80%】
⇒ インドに大量のイギリス綿工業品が輸入され、【インドの綿製品産業】は衰退した。

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#### (2)イギリス自由貿易港の発展
・シンガポール
1819年、東南アジアのマラッカ海峡南端にイギリス東インド会社がシンガポールを設立
西洋商人+【多様なアジア商人】が集まる貿易ハブとして発展
アジア有数の自由貿易港となり、イギリスの【対東南アジア貿易】のハブとなった。
・香港
1842年、アヘン戦争に勝利したイギリスは南京条約によって中国清朝から香港を獲得した。
イギリス植民地となった香港は、自由港として【中国南部】の貿易ハブとなった。

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### 4.不平等条約による貿易自由化
交易条件とは:国際貿易における【商品の交換比率】であり、貿易の利益を示す指標
交易条件が高まるほど、同じ輸出量で【より多くの輸入量】を得ることができ、輸出国の住民の【実質所得】が上昇する。
1830年代にシャム米1ピクル(約60キロ)の輸出で【0.3枚】のイギリス綿布輸入
⇒ 1870年代までに、【1.2枚】の綿布輸入まで増加 ⇒ 自由貿易によるイギリス綿工業品輸入によって【シャムの稲作農民の実質所得は約3倍】に増加した。

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他にご希望があれば、お知らせください。

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第7回 国際通貨システムの形成
概要
国際貿易の成長は、その決済を円滑に進めるための国際通貨システムの機能に支えられている。19世紀には世界の国際貿易が成長するとともに、西洋主導で形成された金本位制が世界各地に普及していった。金による同一の価値尺度を基盤とした金本位制は、イギリスのロンドンを中心とした国際金融ネットワークとの連動によって、世界中のカネの動きをコントロールした。本講義では国際通貨システムの発展の歴史を学ぶ。

1. 貨幣の役割
※貨幣とは、高い流動性という他の財にはみられない特別の性質を持つ金融資産であり、それ自体が価値を持つ。貨幣の価値は利子率や為替レートで表される。

・貨幣の3つの基本的機能
(1)交換手段:より多くの財やサービスの取引を【より少ない費用】で成立させる機能 ⇒異なる需要を持つ人々と異なる供給を持つ人々を貨幣が仲介する。
(2)計算単位:【異なる財の価値】を表示する費用を低くする機能
物々交換:様々な財の間の交換比率が必要となり、計算が困難、取引費用が大きくなる。
貨幣利用:様々な財の価格が一つの単位(貨幣)で表示され、取引が容易になる。
(3)価値保存手段:貨幣を保有することにより、【財・サービスの購買力】を保存することができる機能
例)バナナ1本(100円)=1週間以内に消費 100円硬貨=長い期間保存できる。

・通貨の為替レート
自国通貨と外国通貨との交換比率 1ドル=120円 1ポンド=150円 1ユーロ=130円
⇒ 国際的な通貨制度の機能が為替レートを決める。
(1)固定相場制:1946年から1970年代初頭まで、アメリカドルと金との交換を基盤とした固定相場制度が採用された。 例)1ドル=360円
(2)変動相場制:1970年代以降、政府による為替市場への介入を最小限に抑えたうえで、市場の需要と供給によって為替レートが決定される変動相場(フロート)制に移行した。1970 年代・1ドル=360円 ⇒ 1990年代・1ドル=100~150円へ

2. 金本位制以前の西洋とアジアの通貨システム
・西洋諸国の貴金属本位制
本位制とは:一国の貨幣制度の基準を特定の貴金属の価値に置き、その貴金属の貨幣を流通させる。金属貨幣の【自由な鋳造と融解】を認め、貨幣の信用力を保証する。一国内のあらゆる取引の価値尺度が、その金属貨幣を基準とする。さらに、各国の【中央銀行】は、貴金属貨幣と引き換えに紙幣を発行した(兌換紙幣)
⇒ 政府によって貨幣・紙幣価値が保証され、取引が円滑に行われる。

・主な金属本位制
(1)金本位制:【1816年】にイギリスは金本位制を採用した。それ以前は金貨と銀貨の両方が流通していたが、公式に政府が金本位制に移行したことで、イギリスは完全な金本位制となった。1854年にはイギリスと強い貿易関係にあったポルトガルも金本位制を採用した。
(2)銀本位制:古くから西欧諸国で採用されていた貨幣制度である。16世紀にスペインがアメリカ大陸に進出し、【メキシコやペルー】の銀鉱山から大量の銀を西欧に持ち込んだ。この銀によって大量の銀貨が西欧に流通するようになり、貨幣流通量の増加による物価上昇が起こった(価格革命)。スペイン帝国の銀貨は【ピアストル】と呼ばれ、高い信用力によって広範囲での取引を促進した。
(3)複本位制:一国内で【金貨と銀貨】を流通させる貨幣制度である。【金貨】だけでは価値が大きすぎて少額取引に不備がある。一方、【銀貨】のみでは大口の取引に対応しきれないという問題がある。そこで、政府が両貨幣の交換レートを固定して、両方が本位貨幣として流通できるようにした。18世紀のオランダ、19世紀にはアメリカとフランスが複本位制を採用した。

・アジアの貨幣流通システム
アジアでは17世紀から銀貨が広く流通した。ラテンアメリカ産の銀貨や日本の銀が標準貨幣として取引に用いられた。その他、少額貨幣として銅貨や貝殻が流通していた。
(1)スペインドルの流通:18世紀にスペイン領メキシコで大量に鋳造された銀貨は【ピアストルやスペインドル】と呼ばれ、世界中で流通した。アジアには大西洋経由【メキシコ ⇒ 西欧 ⇒ アジア】と太平洋経由【メキシコ ⇒ マニラ ⇒ アジア】でスペインドルは流入した。スペインドルは純銀率が高い高品質貨幣であり、中国や東南アジアで用いられた。1811年にメキシコがスペイン帝国から独立=スペインドルの製造はストップ。1820年代からメキシコ独立政府がメキシコドルの鋳造を開始。メキシコドルはスペインドルと同じ規格で製造され、アジアでも流通力を有した。
(2)銅貨の流通:アジア各地では政府や民間商人によって多様な銅貨・銭貨が鋳造された。大口の取引は銀貨で支払われ、小口の取引、日用品の売買、税金の納入には少額貨幣の銅貨・銭貨が利用された。銅貨は一枚当たりの価値が小さいため、大口取引では利便性が低かった。取引の種類による貨幣利用 地域間の貿易決済=【銀貨】 大都市の市場取引=【銀貨+銅銭】 地方市場の売買=【銅銭】
(3)インド植民地通貨制度:インドでは近世から現地で製造された銀貨であったルピーが流通していた。インド内部でも多種多様なルピーが存在し、地域ごとに通貨流通圏を形成。1830年代になるとイギリス東インド会社が通貨改革を進め、多様なルピーを【会社ルピー(Company Rupee)】に統一した。⇒ これによって通貨圏ごとに分かれていたインド国内の市場は、共通通貨での取引が可能となり、市場統合も進んだ。

3. 国際金本位制の拡張―西洋諸国の場合
1850年までの西洋の通貨システムの状況 金本位制:イギリス・ポルトガル 銀本位制:オランダ・ドイツ諸邦・イタリア・スペイン 複本位制:フランス・アメリカ 1850年以前、金

は銀に比べて産出量が少なく、貴重であった。⇒ 経済力が高い国でないと金本位制は採用できなかった。

・ゴールドラッシュ:1848年にアメリカの【カリフォルニア】で、1851年【オーストラリア】で金鉱が発見された。⇒ 世界中から一攫千金を狙って移民が殺到し、金を採掘し始めた。⇒ 世界の金産出量は1848年~1870年までの間に、年平均で10倍に増加、20年間の総産出量は、それ以前の300年間で産出された量に匹敵した。大量の金がアメリカ国内に流通⇒ アメリカは実質的な金本位制に移行。大量の金が西欧に流入⇒ 金本位制であった【イギリス】と複本位制であった【フランス】が金を吸収⇒ 西欧における金貨の流通量が増加し、1870年代以降に、西欧諸国は次々と金本位制に移行した。

・アメリカ複本位制(金と銀)から金本位制へ(1853年~1873年にかけて)
・フランス複本位制(金と銀)から金本位制へ(1873年)
・ドイツ銀本位制から金本位制へ(1871年)

西洋諸国は共通の金本位制を採用し、【金の価値】にリンクした為替レートは安定 19世紀末以降、金本位制の国々の間では【貿易】が飛躍的に成長した。

4. 国際金本位制の導入―アジアの場合
19世紀末になると、それまで銀貨をベースとしていたアジア諸国の通貨システムは、西洋経済の圧力(植民地化や不平等条約)によって、金本位制へと移行した。
・金為替本位制:国内では金貨を発行せずに、【金本位制の国との為替】を無制限に交換することによって、貨幣の兌換を保証する貨幣システム。主にイギリス植民地で採用された。例:イギリス植民地政府は紙幣や銀貨を発行+植民地政府はポンド建ての国債を保有し、紙幣や銀貨の兌換の準備保証金とする ⇒ 紙幣や銀貨の価値は金(ポンド)に支えられた。
・インド(ルピー):1894年に銀本位制から金本位制へ移行した。これによってインドはイギリス・ロンドンを中心とした多角的貿易決済に深く統合された。インド【一次産品】⇒西欧諸国【食糧・鉄鋼・軽工業】⇒イギリス【資本投資】⇒インド
・日本(円):1897年に銀本位制から金本位制へ移行した。【日清戦争の賠償金】を元手に金貨を大量に鋳造した。アジア各地に広く流通していた日本円銀も回収された。
・東南アジア:1875年にオランダ領東インド(ギルダー)が跛行金本位制(Limping Gold Standard)に。金貨が本位貨幣に設定されたが、実際の流通の大部分は銀貨が占めた。広大な海域に散らばった島々からなる東インドは、植民地政府が完全な統治をすることが困難であり、イギリス植民地シンガポールから銀貨が流入していた。1903年にイギリス領海峡植民地(海峡ドル)は金為替本位制を採用した。海峡植民地政府はイギリス本国の国債を準備金として、紙幣と銀貨を発行した。
・中国(元):1911年の辛亥革命によって清朝が滅び、中華民国が成立した。中華民国は1914年に銀本位制を採用した。世界恐慌の発生(1929年)によって世界の金融システムは崩壊⇒ 中国経済も大きなダメージを受けた。その中で複雑な銀本位制は不安定化⇒最終的に1935年に金本位制に移行。19世紀末以降に、アジア諸地域は金本位制に移行⇒ 西洋諸国の貨幣との【安定した為替レート】を維持し、西洋・アジア間の貿易成長を支えた。

【】を埋めて、内容を以下のように完成させました:

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第8回 アジアにおける西洋の衝撃
概要
19 世紀にアジアは西洋諸国の植民地化や不平等条約による開国によって世界経済の中に取
り込まれていった。近世までのアジアは独自の経済システムと豊富な人口をベースとした
生産力を有していた。近代のアジアの経済は、西洋諸国の進出の中で、どのように変容した
のか。本講義では西洋資本主義経済に組み込まれていった、アジア経済の近代化を学ぶ。

1.近世のアジア経済
・大いなる分岐
18 世紀までの中国揚子江地域とイングランドとの経済水準は同じであった。
豊富な人口、高い農業生産力、活発な工業生産
その後、19 世紀にイングランドが産業革命で経済発展を遂げた背景には、有利な地理環境
があった(石炭・新大陸など)

・帝国を中心とした経済
18 世紀の中国経済 清朝による【安定した統治体制】+農村と都市間の【分業】+地域間の交易の拡大⇒ 経済発展+人口増加
外国貿易の増加:アジア各地に中国産の手工業品を輸出(綿布・雑貨など)
アジア各地から食糧や林産物を輸入。西欧諸国には茶や絹を輸出=西欧からは銀貨を輸入
朝貢貿易体制 政府公認の貿易が拡大 民間商人の貿易は制限されながらも活性化
17 世紀~18世紀のインド経済 ムガル帝国による政治体制によって、商業活動・手工業生
産が活性化 ⇒ 農村からは【インディゴや砂糖】が都市に供給
⇒都市では綿織物が生産⇒ 農村に綿織物が供給+世界市場にインド綿布は輸出された。
18 世紀後半以降:イギリス東インド会社の植民地支配+ムガル帝国の崩壊=インド全域を
包括する広域経済圏は消失 しかし、地域ごとに分かれて市場経済は活性化した
人口増加:1600年に1億5千万 1800年に2億

17 世紀~19世紀前半の日本経済 【江戸幕府】による中央集権体制が機能
戦国時代には、中国から茶や生糸、東南アジアから砂糖、インドから綿織物を輸入していた。
その後、日本の産業発展とともに輸入商品の国内生産が拡大=【輸入代替】
⇒ 国内供給の確保により、江戸幕府による貿易制限(いわゆる鎖国)が可能となった。

日本は外国からの輸入を減らし、貿易を4つの口(蝦夷、出島、対馬、薩摩)に限定
貿易を許可されたオランダ東インド会社は、日本産の【銀と銅】を輸出した。

2.西洋植民地化
(1)南アジア
インド・プラッシーの戦い(1758年):イギリス東インド会社VSムガル帝国+フランス
イギリス東インド会社が勝利をおさめ、インド・ベンガルの支配権を手にした。
東インド会社のインド領土支配の開始⇒19世紀の前半までにインド全域が支配下に
1858 年イギリス東インド会社の解散⇒イギリス政府のインド省がインド支配を開始
ビルマ、スリランカ、アフガニスタン、パキスタン、バングラデシュもイギリス・インド植
民地体制に編入

(2)東南アジア
・イギリス領マラヤ
1824 年、【英蘭協定】によって東南アジアにおけるイギリスとオランダの勢力圏が確定
マラッカ海峡以北=【イギリス】勢力圏 マラッカ海峡以南=【オランダ】勢力圏
1826 年、ペナン、マラッカ、シンガポールによる海峡植民地が設立
1870 年代以降には、マレー半島の諸王国がイギリス植民地となった
1880 年代には、ボルネオ島のサラワクとサバがイギリスの保護領となった。

・オランダ領東インド
17 世紀、オランダ東インド会社がジャワ島のバタビアに商館を設置
1816 年、オランダがジャワの本格的な植民地化を開始
1830 年、ジャワ戦争によってマタラム王国が滅亡 ジャワ全域がオランダ植民地に
【強制栽培制度】制度:1830年~1870年にかけてオランダが植民地経済を収奪するために実施した制度。ジャワの農民は自らの農地の 20%で【砂糖、コーヒー、インディゴ】を栽培し、それを税金の代わりに植民地政府におさめた。オランダ政府の莫大な利益に。

・フランス領インドシナ
1820 年代以降、ベトナムの元(グエン)朝に英仏が貿易の開放を要求
1858 年にフランスは、フランス人カトリック宣教師の殺害などを理由に、南部の都市サイゴンを占領し、1861年にはサイゴンの貿易は自由化された。
1870 年代にかけてフランスは、ベトナム中部から北部の地域を支配下におさめていき、最終的には1884年に元朝をフランスの保護国とした。
カンボジアは1863年に、ラオスは1893年にフランスの保護国となった。
1899 年には、現在のベトナム、カンボジア、ラオスにまたがるフランス領インドシナ植民地が成立した。

・フィリピン
16 世紀(1571年)からマニラはスペインの統治下にあった。
フィリピン北部はスペイン統治の影響を受けたカトリック信仰の社会
フィリピン南部はイスラーム社会 現地のイスラーム王国が中国との交易で繁栄し、スペインによる植民地化に抵抗し続けていた。
19 世紀後半には、スペインの軍事侵攻によって徐々に植民地化が進んだ。
1878 年にフィリピン諸島の全域がスペイン統治下に収められた。
1898 年、スペイン・アメリカ戦争の結果、戦勝国のアメリカにフィリピンの統治権が移譲

3.アジア市場の開放
(1)自由貿易の拡大
・東南アジアにおける英蘭自由貿易:1824年の英蘭協定によって、東南アジア島嶼部はイギリスとオランダ勢力圏に分割
⇒ イギリス【自由貿易】VSオランダ【保護貿易】
⇒ 自由港シンガポールを拠点としたイギリス自由貿易が影響力を拡大した。

・東アジアにおける不平等条約:東

アジアの国々は欧米との条約により関税自主権を喪失
①1842年中国・イギリス間の南京条約 ②1855年 シャム・イギリス間のバウリング条約
③1858年 日米間の日米修好通商条約により江戸幕府の管理貿易政策は終了

(2)交通・通信インフラの整備
・蒸気船航路:英ペニンシュラオリエンタル蒸気船会社の蒸気船航路
サウサンプトン(英)⇒ アレクサンドリア(エジプト)⇒ ボンベイ(インド)⇒ シンガポール⇒ 香港(中国)
帆船による輸送は季節風に頼ったため不安定⇔蒸気船は安定的に大量の商品を運搬
1869 年にはスエズ運河が開通し、西欧とアジア間の輸送期間は大幅に短縮
⇒ アジア・西欧間の遠隔地貿易+アジア地域内の貿易が成長

・鉄道網:西欧諸国は自国の植民地に鉄道網を建設した。
近世の内陸輸送は河川か陸路に依存していた ⇒ 鉄道によって沿岸都市と内陸農村の間の大規模輸送が可能に
麦、米、綿花などが内陸から沿岸の都市部に鉄道で運ばれた。そこから海外へ輸出。

・通信設備:1850年代に海底電信ケーブルによる通信技術が発達 ドーバー海峡に海底電信ケーブルが敷設され、ロンドン・パリ間の即時通信が可能に。
1870 年代以降、電信ケーブルは地中海からアジアへ
ボンベイ⇔マドラス⇔カルカッタ⇔ペナン⇔シンガポール⇔バンコク⇔サイゴン⇔ハノイ⇔香港⇔上海
1870 年代以前はアジアから西欧への通信は手紙(3か月)⇒ 電信だと1週間程度
商人・企業は電信を用いて遠隔地の市況を把握し、効率的な商売を行った。

4.一次産品輸出と国際分業
18 世紀まで世界の中でも高い経済力・工業生産力を有していたアジア
⇒19世紀の西洋の進出によって、【一次産品輸出】地域として国際分業に統合された。

・インド
高い技術力+安価な労働力=インド綿製品の輸出産業
19 世紀、イギリス植民地支配によって、イギリス綿工業品が大量に流入。
インド綿製品は輸出市場を失っただけでなく、国内市場も喪失⇒インド綿織物産業は崩壊
内陸への鉄道網の拡張によって、農村での世界市場向け一次産品生産が拡大
棉花、インディゴ、砂糖、穀物、香辛料⇒西欧工業国へ輸出

・東南アジア
豊かな熱帯資源を有する東南アジアでは、18世紀までは多様な一次産品が輸出されていた。
19 世紀の一次産品は、大量・画一生産=【モノカルチャー産品】の輸出となった。
オランダ領東インドの【砂糖・ゴム】、イギリス領マラヤの【錫】、フィリピンの砂糖やマニラ麻 ⇒主に欧米工業国へ
東南アジア大陸部ではデルタの開発により【アジア市場】向けの食糧の生産が拡大
ビルマ、シャム、仏領インドシナの米と塩干し魚⇒中国・インド・東南アジア島嶼部へ

・中国と日本
19 世紀後半に貿易自由化により欧米諸国との貿易が拡大
中国・日本とも【茶・生糸・綿糸】といった在来産業による商品生産・輸出が成長
19 世紀末以降、日本では明治政府の主導+民間企業の成長によって工業化
アジア各地に軽工業品(綿布や雑貨)を輸出するようになった。


第9回 アジア域内貿易の発展
概要
19 世紀にアジア経済は西洋の進出を受けて近代化を遂げた。植民地化や不平等条約の下、アジア諸国は、西洋に一次産品を輸出し、引き換えに工業品を輸入することで国際分業体制に組み込まれた。一方で、アジア地域内の貿易も西洋との遠隔地貿易に匹敵する成長を見せた。アジア域内貿易は、アジア固有の生産と消費の組み合わせによるアジア独自の分業体制を基盤としていた。本講義では、19世紀におけるアジア域内の貿易の成長について学ぶ。

1.アジア域内貿易への着目
1980 年代までのアジア経済史:問題意識=遅れたアジア諸国は、いかにして西洋の経済発展に学び、それに追いつくことができるだろうか?
しかし、1960 年代までには日本が、1970 年代までにはアジアNIES や東南アジアで経済発展が起こり、工業社会が出現した。さらに、アジアの経済発展は、労働集約的工業化、開発独裁政治といった独自の特徴があった。
⇒アジア経済の発展にはアジア固有の経済システムが基盤になっているのでは?
⇒アジア経済の歴史を、西洋主導ではなく、アジアの自律的な発展として捉えられないか?
1980 年代に、日本の経済史研究者を中心に【アジア交易圏論】が盛んになった。

キーワード
①【アジア域内貿易】:アジアは広大で多様な国々・地域が存在する。アジア地域内の貿易に焦点を当てることで、アジア経済の自律的発展が分析しやすくなる。
②アジア固有の生産と消費:アジア地域には独自の生産物(茶・アヘン・米など)があり、アジアの消費者も現地の産物に親しんでいた。アジア固有の生産と消費の強いつながりは、西洋経済の進出の中でも破壊されず、むしろそのつながりは強まった。
③【アジア商人ネットワーク】:19世紀の貿易自由化による新たな商業機会には、アジア現地の商人たちも積極的な対応をみせた。特に、同族・同郷の信頼関係を基盤とした華僑ネットワークや、日本政府の支援の下、アジアで貿易を行った【日本の商社】が大きな発展を見せた。

2.アジア域内貿易の成長

19 世紀のアジア貿易の通説:植民地化されたインドや東南アジア各地は、一次産品の生産が拡大し、欧米との遠隔地貿易が拡大した。不平等条約を課せられた中国や日本も市場開放によって、欧米製品が流入し、欧米への一次産品輸出が増大した。アジアと西洋との間の遠距離貿易に注目が当てられてきた。それではアジア域内貿易は?
・杉原薫によるアジア間貿易の推計
アジア間貿易の定義:アジア諸国を、【東アジア】【東南アジア】【南アジア】【西アジア】の4つのブロックに分類し、それら4つのブロックの間の貿易を「アジア間貿易」と定義した。
4 つのブロックの間の貿易は、基本的に異なる性質の商品取引であった。食糧⇔衣類、工業原料⇔工業製品など
アジア間貿易の趨勢:アジア諸国の貿易統計を集計し、そこから1880年代~1913年にかけてのアジア間貿易の成長を推計した。
対欧米貿易:1883年1億4000万ポンド⇒1898年1億6000万ポンド⇒1913年4億3000万ポンド(年平均成長率:【3.7】%)
アジア間貿易:1883年5200万ポンド⇒1898年1億ポンド⇒1913年3億ポンド(年平均成長率:【5.5】%)
⇒ 貿易額の規模はアジアの対欧米貿易の方が大きいが、貿易成長率はアジア間貿易の方が高い。=アジアでは、西洋との貿易成長の裏で、さらに【アジア間貿易】が成長していた。

近年では、19 世紀の初頭からアジア間貿易は成長し始めていたことが実証されつつある。⇒ 西洋の進出以前から、アジアでは域内貿易が自律的に成長して始めていたのでは?
*アジア域内貿易の成長は、いかなる要因によってもたらされたのか?↓↓↓

3.アジア域内貿易の成長要因
(1)アジア域内分業
アジアの多様な地理環境=地域によって特徴的な産物が生産された。
インド【綿花・アヘン・綿糸】 東南アジア大陸部【米・塩干し魚】 東南アジア島嶼部【砂糖・ゴム・錫】中国【茶・生糸・綿花】 日本【生糸・綿製品】

アジア域内分業パターン① 東南アジア大陸部【米輸出】⇒ インド【綿花+綿糸】⇒中国【インド綿糸から綿布生産】
アジア域内分業パターン② 東南アジア大陸部【米輸出】⇒ 東南アジア島嶼部【砂糖輸出】⇒ 日本【大衆による砂糖消費⇒工業化】
アジア域内分業パターン③ 東南アジア大陸部【米輸出】⇒ 東南アジア島嶼部【ゴム・錫の輸出】⇒ 欧米工業国【ゴムを用いた自動車生産+錫による缶詰生産】
・アジア域内貿易の成長は、地域内の生産と消費が結びつき、各地域の間の国際分業が発達したことによって引き起こされた。
・東南アジア大陸部は、アジア域内分業の中でも食糧供給地として欧米向け一次産品の生産やアジア地域内の工業化に重要な役割を果たした。

(2)アジアの貨幣流通
アジア域内貿易の成長⇒アジア地域内での貿易決済の拡大⇒銀貨の流通拡大

ドル銀貨の流通
17 世紀からアジアにはラテンアメリカ産の銀貨や日本産の銀貨が広く流通し、標準貨幣としての地位を確立した。
19 世紀になるとメキシコ産の銀貨(スペインドルやメキシコドル)、日本円銀、アメリカ貿易ドル、フランスピアストル、英国ドルといった銀貨が流通し、貿易の支払に用いられた。
各銀貨の規格は、最も流通力が高かった【メキシコドル】と同一であった。

銀貨そのものが【商品貨幣】として信用力を有していた=国・地域を超えて、ほとんどの商人・企業が支払いとして銀貨を受け取ることが可能であった。
⇒ アジア域内貿易は、銀貨という同一の流通手段に支えられて成長した。

19 世紀末まで、アジア諸国は銀貨に基づく貨幣システムを維持したが、その後、西洋諸国との貿易の円滑化のため、金(為替)本位制に移行した。

(3)アジア商人・商社の流通ネットワーク
仲介商人の台頭
19 世紀後半に植民地化や不平等条約によってアジア各地で貿易自由化⇒西洋商人たちの商業の拡大⇒しかし、西洋商人はアジア諸国の市場や内陸生産地まで入り込めない。現地の商人を仲介してアジア市場の産品を取引した。仲介商人が西洋商人・企業の取引相手として繁栄=現地での豊富な取引経験+言語能力

商人ネットワークの機能
例① シンガポールを中心とした貿易自由化
価格競争力の高いイギリス綿工業品がシンガポールに輸入、しかしイギリス商人は現地市場に販路を持たない⇒アジア人商人たちが東南アジア各地に輸出し、利益を上げた。
例② 貿易自由化に伴って、シャムやコーチシナ(ベトナム南部)の米輸出が解禁
アジア人商人たちは、食糧需要が高まっていたインド・中国・日本に米を輸出

アジア域内貿易は、多国間をまたぐ貿易であり、政府による制度的保障は得られない。アジア人商人たちは、親族・同郷の人的ネットワークを利用して、商売を効率的に行った。

例)華人商人ネットワーク:中国からアジア各地に移民していった華人たちは、同郷出身者で幇と呼ばれる社会集団を形成。その集団内では信用取引により商品売買を行った。親密な個人間の信用関係を基盤とした流通ネットワークを形成し、不確実性の高いアジア市場での取引を拡大していった。

新たな技術への適応:19 世紀末になると、アジアに蒸気船航路や海底電信ケーブルが敷かれた。⇒交通・通信革命による商業のスピード・効率性アップ 新たな技術は西洋人だけでなく、アジアの商人たちも積極的に活用し、商売を展開した。

4.アジア域内貿易とグローバル経済の発展
アジアの対欧米貿易が成長するほど、アジア間貿易も成長するという連動性があった。

需要連関効果:ある地域の生産活動の拡大が、そこでの【消費財や必需品】への需要を高め、そこに周辺地域から供給が行われることで、生産活動の拡大連鎖が起こる現象。19 世紀後半のアジア間貿易の成長の一部は需要連関効果を基盤とした。
パターン:西洋における【工業原料】の需要増大⇒ アジアにおける工業原料の生産拡大 ⇒ 工業原料の生産者(移民)たちの【必需品】の需要拡大 ⇒ アジアにおける衣類や食糧生産の拡大と輸出
例)東南アジアで西洋向けの錫の生産拡大=中国人移民労働者が東南アジアに流入 ⇒ 東南アジアで食糧と衣類への需要拡大 ⇒ 東南アジア大陸部の米+日本の綿製品 ⇒ 東南アジアの錫鉱山に供給

*アジアの西洋への【一次産品】輸出が成長するほど、アジア域内の【必需品・消費財】貿易は拡大 アジアの必需品は現地固有の産品が多く(米や厚手の綿布など)、アジアでしか生産できなかった。=アジアで古くから形成されてきた生産と消費のつながりが背景にあった。

*19世紀のアジアでは西洋進出の中で、古い経済システムの一部は生き残った。グローバル経済の成長のインパクトを吸収し、アジア域内貿易の成長に転換しながら、アジア固有の経済システムを変容させていった。


第10回 インド経済の変容
概要
18世紀までインドはムガル帝国の強力な支配体制の下、経済の活性化が起こっていた。18世紀後半になると、イギリス勢力による植民地化が進行し、インド経済は西洋主導の資本主義世界経済の周辺部に取り込まれていった。その過程で、インド経済は工業国から一次産品生産国に転換したが、現地社会はグローバル経済のインパクトに様々な形態で対応した。インド経済の近代化について、多様な側面から学ぶ。

1.インドの植民地化
17世紀のインド経済:イスラム・ムガル帝国がインドの広範囲を支配
強力な中央集権統治を実行し、インドの生産・流通・消費が活性化
特に、沿岸都市におけるインド綿製品の生産が拡大し、インド域内市場+海外市場に供給された。18世紀まで、インド綿製品は世界の服飾・衣類市場を席巻した。

18世紀後半の植民地化の進行:1758年【プラッシーの戦い】で、イギリス東インド会社の軍隊にムガル帝国は敗北 ⇒ イギリス東インド会社による植民地化が本格始動
1780年までにベンガル地方の【徴税権】がイギリス東インド会社に引き渡された。
東インド会社は住民を統治し、税収を基盤に植民地統治を確立
⇒ 東インド会社は貿易会社から【統治機関】に変貌していった。
インド地域市場の発達:ムガル帝国のインド全域を包括する統治体制は崩壊した一方、18世紀末までインド各地の地域市場は活力を維持した。

分業体制:農村のインディゴ・砂糖・アヘンの栽培⇔都市の手工業品・綿製品の生産
地方レベルで都市と農村の分業が活性化し、インドの綿製品輸出は18世紀末まで規模を維持した ⇒ 特に東南アジアがインド綿製品の輸出先として重要だった。

インド内陸の植民地化:1800年~1830年にかけてイギリス東インド会社はインドの沿岸部から内陸にかけて植民地統治を拡張していった。
インド中央・デカン高原のマラータ同盟(連合王国)との3度にわたるマラータ戦争
東インド会社の勝利により、1820年までにインド中央部がイギリス支配下に。

インド植民地化の完成:1830年代までにインドの広範囲が植民地化された
直接統治 【ベンガル管区】 マドラス管区 【ボンベイ管区】
藩王国 ニザーム王国 マイソール王国 トラヴァンコール王国など
1858年に東インド会社が雇ったインド兵によるインド大反乱(セポイの乱)⇒ 東インド会社は解体 ⇒ 1860年代からイギリス政府のインド省が統治を担った。

2.アヘン三角貿易
イギリスの対アジア貿易:18世紀からイギリスは中国の茶・絹+インドの綿織物を輸入
イギリス製品はアジアで売れない⇒ アジア産品への支払としてドル銀貨を輸出
貴金属の輸出は国富の流出(重商主義)=銀貨を輸出せずに、アジア産品を輸入するには・・・

アヘン三角貿易の構造
インドの植民地化 ⇒ 住民からの徴税権 ⇒ 税収によるアヘンの購入
または納税の代わりにケシ(アヘンの原料)を栽培させた ⇒ インド産アヘンを中国に輸出 ⇒ アヘンと引き換えに中国の茶や絹を購入 ⇒ 東インド会社やイギリス商社が茶や絹をイギリスに輸出し利益を上げた。
1820年代以降になると、輸入されたイギリス綿工業品もアヘン購入に充てられた。
イギリス【徴税権・綿工業品】⇒ インド【アヘン】 ⇒中国【茶・絹】⇒ イギリス
インド植民地化を軸に、イギリスはアジア産品を大規模に輸入した。銀の輸出も減少
インドのアヘン生産・輸出は植民地政庁が管理する専売制=イギリス東インド会社と商社が利益を独占した。

中国経済へのインパクト:1820年代~30年代にかけて、それまで茶・生糸の輸出と引き換えに銀が流入していた中国⇒ アヘンが大量に輸入され、その支払いとしてインドに【銀・銀貨】が流出 ⇒ 中国では銀貨不足+【デフレーション】により経済活動が混乱

アヘン戦争:アヘンはドラッグ=中国ではアヘンが大量に輸入・消費され中毒者が大量発生
清朝政府はアヘンの悪影響を懸念し、官僚の林則徐を中心に輸入禁止策を実施。
林則徐は広東のイギリス商人たちを厳しく取り締まり、アヘンを没収・廃棄
清朝政府の暴力的な取り締まりに対し、イギリスは賠償を求める戦争を仕掛けた。
⇒1839年~42年アヘン戦争⇒イギリスの勝利 南京条約により香港割譲+中国貿易自由化
イギリスのインドを軸としたアジア市場の支配
インドの植民地化⇒(東南アジアへの進出)⇒アヘン三角貿易⇒中国市場への進出

3.工業品輸出から一次産品輸出への転換
工業国としてのインド:18世紀末まで、インドは世界の工業生産の20%以上を占めた。
高い技術力と安価な労働力による綿製品産業が発達=世界中にインド綿布は輸出
19世紀になると産業革命を経て、イギリス綿工業品が大量にインド市場に流入
イギリス綿工業品はインドの手織り綿布より安価で大量生産が可能
⇒インド綿織物産業は国際市場+インド国内市場を失い、壊滅的ダメージを受けた。

・一次産品生産の拡大:18世紀後半~19世紀前半、インドでは自然災害が頻発した
⇒ 自然災害に最も影響を受けるのが農業セクター=【農産物価格】の上昇
⇒ 農業従事者の実質賃金・購買力が【上昇】 ⇔ 工業セクターの実質賃金が【下降】
⇒ 労働力が【工業】セクターを離れ、【農業】セクターに移動
⇒ 綿製品産業の衰退(イギリス綿工業品が流入する以前に産業競争力を喪失)
+インド経済の農業セクターへの特化 アヘン、砂糖、インディゴ、綿花、香辛料など

19世紀以降、イギリスから綿工業品が流入=その支払いとして

、農業セクターで生産された一次産品が輸出された。
インドは、国内の工業セクターが衰退し、農業セクターへの特化によって、一次産品供給地域としてグローバル経済に統合されていった。

・インフラ整備による市場統合:イギリス植民地化によってインド全域に鉄道網が敷設+内陸河川の運航に蒸気船が導入⇒輸送コストの縮小⇒インド内陸農村の一次産品の生産拡大
鉄道ネットワーク 1850年代にイギリスからの投資によって建設開始
初期の鉄道は沿岸の港湾都市(ボンベイやカルカッタ)と内陸農村をつなぐ港拠点型のネットワーク ⇒ 1930年代までには、インド全体が鉄道ネットワークで統合された。

1860年代のコットンブーム:1861-65年にアメリカで【南北戦争】が発生し、イギリス綿製品産業向けの棉花の輸出がストップ ⇒ アメリカ棉花の代わりに【インド】棉花がイギリスに輸出 ボンベイ港に鉄道で内陸部から大量の棉花が運送された。
インド経済はアメリカ南北戦争のグローバル経済への影響の中で、棉花輸出により経済ブームを享受した。+インド内陸農村まで一次産品輸出地域として世界経済に統合された。

4.国際決済システムにおけるインドの役割
ロンドン宛為替手形の国際流通:18世紀後半から国際金融の中心地となったイギリス・ロンドンで決済の為替手形=ロンドン手形(London Bill)が国際取引で用いられた。
1820年代以降のロンドン手形流通構造
①イギリスの対アメリカ貿易:イギリスはアメリカ大陸からの【砂糖・棉花】などの輸入に対する支払いに、ロンドン手形を用いた。
イギリス【ロンドン手形】⇔ アメリカ【棉花】
②アメリカの対中国貿易:アメリカは中国から【茶・絹】を輸入し、その支払いの一部にロンドン手形を用いた。
アメリカ【ロンドン手形(一部銀貨支払い)】⇔ 中国【茶・絹】
③中国の対インド貿易:中国はインドから【アヘン】を輸入し、その支払いにアメリカから引き渡されたロンドン手形を用いた。
中国【ロンドン手形(一部銀貨支払い)】 ⇔ インド【アヘン】
④ インドに引き渡されたロンドン手形は、イギリス東インド会社によって回収され、ロンドンで決済された。

ロンドン手形の還流 イギリス⇒アメリカ⇒中国⇒インド⇒イギリス
19世紀前半のグローバルな商品流通をロンドン手形は支えた。
インドはイギリスの国際貿易の決済が集約される重要な位置を占めた。

・19世紀末のイギリス多角的決済構造:イギリスの経済力の拡大とともに、国際決済の構造はより複雑化
インド【一次産品】⇒アメリカ・西欧大陸諸国【鉄鋼・食糧・工業原料】⇒イギリス
イギリスはアメリカ・カナダ・フランス・ドイツなどに貿易赤字を有した。
インドはアメリカ・西欧諸国に貿易黒字を有した。インドの黒字は投資収益や本国費(植民地からイギリスへの上納金)によってイギリスに送られた。
⇒イギリスはアメリカ・西欧に対する赤字をインドの黒字で決済した。
多角的な貿易決済は世界の為替市場の中心地ロンドンで集約・決済された。
インドの役割=【一次産品】の輸出+イギリスの【貿易赤字】の解消+金融中心地ロンドンの発展

イギリス主導のグローバル経済のモノ+カネの流れにインド経済は従属

5.植民地経済による貧困
イギリスの植民地経済政策により、インドの産業は衰退し、農村経済も世界経済の変動に対して脆弱となった。また急速な人口増大(1億から3億へ)に農業生産性の向上が追い付かず⇒インドは最貧国に転落した。1700年のインド経済は世界全体のGDP【23】%を占めた⇒1950年には【3.8】%に低下した。

その後、第2次世界大戦後の独立、国民経済の発展以降も、低開発・貧困が継続
2000年代以降、グローバル化の中でインド経済も自由化路線を採用し、経済発展への期待が高まっている。

第11 回 中国経済の変容
概要
18 世紀までの中国経済は、増大する人口、市場経済の発達、貿易の成長を経験し、西洋経
済と同等の豊かさを享受していた。しかし、19 世紀に入り中国清朝と西洋諸国との間の度
重なる不平等条約によって、中国経済は徐々に一次産品生産国としてグローバル経済に統
合された。その中で、中国の市場構造は変化しながら、沿岸都市を中心に在地の商人や起業
家による工業化が始まった。閉じた帝国であった中国経済が解放され、西洋資本主義経済の
インパクトを取り込みながら新たな経済システムを構築していった様子を学ぶ。
1.近世中国の経済活性化
17 世紀末~18世紀(清朝初期)は中国経済の黄金時代であった。
・中国の人口
17 世紀以前、漢、隋、唐、などの時代:およそ4千万~5千万人
17 世紀末~19世紀初頭、清朝の時代:1億人⇒4億人 未曾有の人口成長
原因:清朝による戸籍整備、内陸山間部の開発、市場経済の発達による分業と生産拡大など
その後、20世紀後半にかけて中国人口は13億人まで増加した。
現在は13億7千万人 世界人口70億人の20%近くを占める超人口大国
・中国産品の貿易
中国域内での分業が進展した。華南の米、揚子江沿岸の生糸、福建の茶、その他、広大な中
国各地が産品生産に特化し、国内交易によって商品を交換した。
分業の進展による生産性の向上=人口増加
中国の豊かな産品は、西欧諸国をひきつけ、貿易が増加した。
中国市場で売れる西欧産品は無し=支払いとして西洋から銀貨が中国に輸入された。
中国 【茶・絹・陶磁器】 ⇔ 【銀貨】イギリス・アメリカ・フランス
・銀の流入と貨幣経済の浸透
18 世紀に中国には貿易を介して大量の銀貨が流入した。
当時の最大の銀産出国はスペイン帝国メキシコ=【スペインドル】
西欧経由+フィリピン経由で西欧商人が銀貨を中国に運んだ。
中国の銀使用:大都市での売買、【納税】・大口の取引・【貿易】など
清朝政府は銀の供給を海外からの輸入に頼った。
】銀貨
1
=貨幣流通の統治権はない ⇒ 銀貨流通は市場にゆだねられた。
中国の銭貨利用:中国清朝は銭貨を鋳造し、それを市場に供給した。銭貨流通は政府が統治
銭貨は農村での売買、農民の蓄財、小口の取引などに利用された。
中国の貨幣流通構造 上部構造(都市・貿易)は【銀貨利用】
下部構造(農村・小売)は【銭貨利用】
2.西洋の進出
19 世紀に入り、イギリスを筆頭に西洋諸国が中国市場の開放を迫った。
・イギリスのアジア進出
18 世紀後半以降、インドの植民地化 ⇒19世紀初頭、東南アジアの植民地化⇒ 中国市場
18 世紀の中国は海外貿易を一部の港(広東など)に制限し、自由な貿易を認めなかった。
イギリス東インド会社は広東に商館を置き、清朝の監視の下、茶・絹を輸出し、銀を支払っ
た。=イギリスとしては中国産品の購入に銀を払いたくない。(重商主義)
解決策①インド拠点のアヘン三角貿易:1820年代以降、インドのアヘンを中国に大量輸入
し、それと引き換えに茶・絹をイギリスに輸出。
解決策②東南アジア経由の三角貿易:18 世紀以降の中国では、東南アジア産品の需要が高
まっていた。【米、胡椒、海産物、森林産物】などが東南アジアから中国へ
イギリスは東南アジアにペナンや【シンガポール】といった拠点を設置し、
東南アジア産品を購入⇒ 東南アジア産品を中国に輸出し、引き換えに茶・絹を購入した。
・アヘン戦争(1840~42年)と南京条約
清朝高官の林則徐によるイギリス商人のアヘン輸入取締り⇒反発したイギリスと清朝との
間でアヘン戦争が勃発 ⇒ イギリスの勝利 【南京条約】の締結
条約内容:①香港割譲 ②イギリスへの賠償金支払い ③【広州】、福州、【厦門】、寧
波、【上海】の開港 ④貿易自由化(アヘン輸入の黙認)関税自主権のない不平等条約
それまで清朝の貿易制限にあった中国市場は、西洋諸国に大きく解放された。
⇒ 中国には大量のインド産アヘン+イギリス工業品が輸入され、茶・絹が輸出された。
・アロー戦争(1856~60)と北京条約
イギリス船籍アロー号を清朝政府が拿捕した事件をきっかけに、清朝と英仏連合軍との間
で起こった戦争。
⇒英仏連合軍の勝利で終結 天津条約(1858年)が結ばれた。
2
⇒天津条約締結後、清朝が条約履行を拒んだため、再び英仏連合軍が戦争を仕掛け、最終的
に天津条約を継承した北京条約(1860年)が締結された。
天津条約・北京条約=清朝と英仏米露との間で結ばれた不平等条約
天津の開港、中国移民の自由化、英への九龍半島割譲、賠償金、などが約束された。
さらに、1883~85 年のベトナム領有をめぐる清仏戦争、1894~95年の朝鮮をめぐる日清戦
争の敗北によって、清朝はアジアにおける支配力・経済力を衰退させていった。
3.中国市場の構造変化
・中国経済の世界経済への統合
19 世紀後半には貿易自由化によって中国と西洋諸国との貿易が拡大した。
中国産一次産品の輸出:茶、生糸、穀物、鉱物、棉花が世界市場に輸出された。
工業品の輸入:西洋諸国で生産された綿製品、鉄鋼、機械類などが輸入された。
中国は西洋諸国との間の国際分業体制に原料供給地域として組み込まれた。
・開港場市場圏の形成
18 世紀までの中国市場は「全国的な統一市場」ではなく、国内各地に「地域市場」が併存
し、それら「地域市場」が交易によって結びつく、【市場複合体】であった。
中国 「満州地域市場」⇔【華北地域市場】⇔「揚子江地域市場」⇔【広州地域市場】
19 世

紀に西洋進出によって、沿岸都市の貿易が解放=開港場として海外貿易が成長
⇒ 徐々に個別の「地域市場」と「海外貿易」が結びつきを強めた。
一方で、国内の「地域市場」の間の交易は減少していった。
19 世紀を通して、中国の【市場複合体】は解体され、地域市場ごとの海外への一
次産品輸出⇔海外からの工業品・アヘン輸入が行われる【開港場市場圏】が形成された。
中国 「満州地域市場」・・【華北地域市場】・・「揚子江地域市場」・・【広州地域市場】

外国
4.民国期の工業化と域内分業
【内陸農村⇔中小都市⇔上海⇔中小都市⇔内陸農村】⇔外国貿易】(1911-12 年):孫文を主導者として、清朝の支配を打倒して中華民
国を建国した革命。中華民国はアジア初の共和制国家であり、中国は近代国家として歩み始
めた。
3
・工業化の始動
第1次世界大戦(1913-19 年)によって、西欧諸国の経済力が衰退したのをきっかけに、
現地の【中国人資本家】が中小企業を次々に設立し、中国経済の工業化を進めた。
最初は【繊維業】が主体であったが、その後はマッチ、石鹸、セメントな
ど幅拾い工業製品が中国国内で製造されるようになった。
・上海中心の貿易構造の変化
19 世紀の中国の貿易構造=開港場市場圏
【内陸の農村生産地⇔沿岸の商業都市⇔外国貿易】という港湾都市を中心とする構造
中国経済が港湾都市ごとにバラバラに世界経済とつながっていた。
20 世紀前半になると上海周辺で工業化が進展し、中国国内交易が発達し始めた。
工業化を基盤とした貿易構造
【内陸農村⇔中小都市⇔上海⇔中小都市⇔内陸農村】⇔外国貿易
内陸農村から上海に【工業原料】(主に綿花)が供給され、上海からは内陸農
村の住民向けの【工業製品】(綿織物や日用雑貨)が供給された。
中国の膨大な人口の消費を基盤にした工業化が発展し始め、中国経済全体の統合へ
=工業都市中心の【国内広域市場】が形成された。
・中国市場構造の変遷
18 世紀まで【市場複合体】⇒19世紀・西洋進出による【開港場市場圏】⇒20世紀前半・工業化による【国内広域市場】

中国経済は西洋資本主義経済のインパクトを、上海といった沿海都市の工業化+国内統一
市場の形成につなげた。
・中華民国の貨幣制度
清朝中国は外国から流入した銀貨が貨幣として用いられていた。
⇒中華民国は自国で貨幣を鋳造し、近代通貨システムを構築する必要があった。
1914 年に銀貨を本位貨幣とする【銀本位制】が成立した。しかし、政府だけで
なく地方政府や市中銀行も紙幣を発行する複雑な貨幣システムが存続した。
世界恐慌の発生(1929年)によって世界の金融システムは崩壊⇒中国経済も大きなダメー
ジを受けた。その中で複雑な銀本位制は不安定化⇒最終的に1935年に【金本位制】
に移行
4 つの政府公認銀行のみ紙幣を発行できる法幣制度と通貨単位【元】が採用され、
中国経済を支える通貨システムは安定するようになった。

以下が「琉球大学 経済の歴史 第12回 東南アジア経済の変容」の講義内容です。

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**第12回 東南アジア経済の変容**

**概要**
19世紀に東南アジアでは西洋植民地化が進行し、東南アジア各国は一次産品供給地域としてグローバル経済に統合された。植民地化によって東南アジアは不自然な国境線で分断され、西洋工業国に従属する地域となった。しかし、一方で、イギリス自由貿易の影響の下、シンガポールといった貿易港を拠点にして、東南アジア各国の間の域内分業が形成された一面もあった。本講義では、19世紀の東南アジアで見られたグローバル経済への統合と地域経済の発展という2つの側面を学ぶ。

**1.東南アジアの植民地化と開発**
(1)島嶼部東南アジア
17世紀以降、スペインやオランダの植民地が設立=植民地都市(点)に過ぎず。
19世紀初頭になると、インドを拠点にイギリスが東南アジアに進出し、オランダ勢力と対立⇒1824年に英蘭協定が締結され、勢力圏が分割された。
イギリス勢力圏=マラッカ海峡以北 VS オランダ勢力圏=マラッカ海峡以南
⇒ 現在のマレーシアとインドネシアの国境線に継承された。
・英領マラヤ:1826年に【海峡植民地】が成立⇒1870年代以降はマレー半島の支配⇒1895年【マレー連合州(FMS)】が成立⇒1903年に【マレー非連合州】が成立
マレー鉄道の開通、投資環境の整備をもたらし、錫鉱山の開発が進んだ。
・蘭領東インド:1816年、オランダはジャワの植民地化に着手し、1830年にジャワ全域を支配下におさめた。⇒強制栽培制度(1830年~1870年)⇒1870年代以降、オランダ領外島の支配強化⇒20世紀初頭に蘭領東インドが確立
・フィリピン:16世紀からマニラはスペインの統治下にあった。1830年代にマニラの開港⇒19世紀後半スペインはフィリピン南部を植民地化⇒1878年にスペインはフィリピン全域を支配下に⇒1898年、フィリピンの統治権がアメリカに移譲

(2)大陸部東南アジア
19世紀後半になるとイギリスとフランスが大陸部東南アジアの植民地化を進めた。
・ビルマの植民地化:イギリス・ビルマ戦争(1824-26年、1852年、1885年)により、【コンバウン王朝】は滅亡し、イギリス植民地体制が成立した。ビルマは【インド植民地省】の一つの管区として支配された。
・フランス領インドシナ:1820年代以降、ベトナムの【阮(グエン)朝】に英仏が貿易開放を要求⇒1858年にフランスが南部の都市【サイゴン】を占領し、貿易自由化⇒1864年に仏領コーチシナの成立⇒1870年代にかけてベトナム中部から北部がフランス統治下⇒1884年に元朝がフランスの保護国 カンボジアは1863年に、ラオスは1893年にフランスの保護国となった。1899年、ベトナム、カンボジア、ラオスによるフランス領インドシナ植民地が成立
・シャム王国:シャム王国は東南アジアの中で唯一植民地化を免れた。1782年にバンコクを首都としたチャクリー王朝が成立(別名バンコク王朝/ラタナコーシン王朝)⇒18世紀末、イギリスとの間で領土紛争が発生⇒1826年のバーネイ協定によってマレー半島北部がシャム領に⇒1855年にイギリスとの間でバウリング協定が結ばれ、バンコクの貿易は自由化された。その後も、英仏の圧力にさらされた。

**2.一次産品輸出経済の発達**
①    錫:ヨーロッパにおける缶詰の生産が拡大すると、その原料として【マレー半島】の錫が供給された。錫鉱山の所有権は現地の王族が保有していたが、その経営は【華人商人】に委託され、【中国移民】労働者たちによって錫が採掘された。
②    ゴム:19世紀の末に南アメリカ産のゴムの木が東南アジアに導入された。20世紀に入ると【アメリカ】における自動車産業の発達とともに、タイヤの原料として大量のゴムが英領マラヤ、【蘭領東インドの外島】から輸出された。ゴムの木からとれた樹脂は一度【シンガポール】に集荷されて、ゴム板に加工されてから太平洋を経由して【アメリカ】に輸出された。
③    砂糖:主にオランダ植民地の【ジャワ島】を中心に砂糖生産が拡大し、それらは19世紀の間はヨーロッパに輸出されたが、20世紀に入ると圧倒的な人口を抱えていた【中国】や【インド】の大衆消費に供給されるようになった。【ジャワ】における砂糖生産は、砂糖プランターが現地の農民の農地を借り上げ、現地の労働者を用いて大量生産した。19世紀後半には、ヨーロッパでの甜菜糖(サトウダイコン)の生産が拡大し、東南アジア産の砂糖は競争に直面した。供給過剰による価格下落といった問題も生じた。
④    米:19世紀の後半になると、主に大陸部東南アジア(シャム、ビルマ、仏領インドシナ)の【デルタ地域】における米生産が増大した。デルタでは移住した現地農民が米を生産し、余剰米を市場に供給した。英領ビルマで生産された米は西欧とインドに輸出された。西欧輸出米は食料ではなく【工業原料(製糸業)】に用いられた。シャムと仏領インドシナの米は、中国、インド、日本、そして東南アジア地域内に輸出され、アジアの大衆の【食料需要】を満たした。

**3.自由港シンガポールの貿易構造**
1819年2月に、イギリス東インド会社の貿易港がマレー半島南端のシンガポール島に設立
シンガポール社会経済の発展は、貿易成長を基盤としたものであった。
貿易成長 → 移民労働者、商品、資本が小さな都市に集中した。
貿易成長率 1831年~1873年に4倍、さらに1873年~1913年に4倍

・シンガポール貿易の成長要因
①    地理的優位性:マラッカ海峡の南端に位置したシンガポールは、【インド洋】と【南シナ海】をつなぐ要所に位置し、西欧・インドと中国との間の【中継貿易拠点】として機能した。19世紀の海上輸送の主力は帆船であり、冬季の北東季節風と夏季の南西季節風による海上交易

の接続点として有利な位置に存在した。
②イギリス工業品の流通拠点:18世紀のイギリス産業革命によって生まれた綿工業品は、従来の手織綿布に比べ大量供給・低廉であった。それらイギリスの綿工業品はシンガポールを経由して、東南アジア各地の大衆に供給されていった。こうした工業品の価格競争力を基盤に、シンガポールは東南アジア諸地域との貿易関係を拡大・強化することができた。
②    イギリス自由貿易:関税・港湾使用料を徴収しない【自由港】としてシンガポールは存続した。これによって、イギリス領でありながら、多様な国籍・出自の商人たちを引き寄せることができ、その結果、特にアジア人商人たちによるローカル交易の拠点として発達を遂げた。アジア人商人たちによって、シンガポールから東南アジア各地に【イギリス綿製品】が輸出され、それと引き換えに、多様な【東南アジア産物】がシンガポールに輸入された。

・シンガポールの中継貿易
シンガポール貿易はイギリスと東南アジア各地をつなぐ中継貿易が基礎となっていた。
イギリス【綿工業品】⇒ シンガポール【綿工業品】⇒ 東南アジア各地
東南アジア各地【一次産品】⇒ シンガポール【一次産品】⇒ イギリス
そのほか、インドのアヘンもシンガポールを経由して、東南アジア各地に輸出された。
シンガポール貿易は東南アジア各地との域内交易を基盤として成長した。
19世紀末以降、このイギリスと東南アジアを直線的につなぐ域内交易に変化が現れた。

**4.域内分業の展開**
欧米工業国の一次産品需要が高まると、東南アジアでは対欧米貿易+域内貿易が成長した。
・19世紀の東南アジア島嶼部における欧米向け一次産品輸出の成長
⇒錫鉱山やプランテーションの労働力として中国やインドの移民流入+現地住民の商品作物栽培の拡大⇒【市場経済化】が発生した。
・19世紀の東南アジア大陸部における食糧生産と対アジア輸出の成長
大陸部諸国のデルタ地帯の開発が進展⇒米、塩干魚といった【食料生産】が増加し、一部がアジア各地に輸出⇒一部は東南アジア島嶼部の【銀鉱山】や【プランテーション】に供給され、移民や現地住民の【食料需要】を満たした。
・シンガポールの東南アジア域内交易
東南アジア大陸部の米や塩干魚が、シンガポールに輸入された。
それら米や塩干魚は、シンガポールからマレー半島(錫鉱山)や蘭領東インド(プランテーション)に輸出された。
シンガポールと東南アジア各地域との間のローカルな東南アジア域内交易が発達した。
シンガポールを中継した、大陸部から島嶼部への食糧の供給がなければ、島嶼部における欧米工業国向けの一次産品輸出の成長もうまくいかなかった。
欧米の需要(原料が欲しい!)→アジアの需要(食糧が欲しい!)=【需要の連関効果】
19世紀末のシンガポールをハブとした東南アジア域内交易


第13回 日本経済の変容

### 概要
17 世紀から250年間にわたる江戸幕府の管理貿易体制(いわゆる鎖国)の状態にあった日本は、19 世紀の後半に西洋諸国の進出により貿易を自由化しました。アメリカ、イギリス、フランスなどの西洋列強との間で結ばれた不平等条約により、日本は国際貿易を拡大させ、工業国向け産品の輸出によりグローバル経済に統合されました。その後、殖産興業により工業化を達成した日本は、アジア地域に工業品を供給し、躍進を遂げました。本講義では19世紀後半から20世紀初頭の日本経済の国際的な発展について学びます。

### 1.日本経済の貿易自由化
- 17世紀半ば、江戸幕府は貿易を4つの口(対馬、長崎、薩摩、蝦夷)に限定し、海外貿易の徹底管理を開始しました=いわゆる鎖国。ただし、完全に閉じていたわけではありませんでした。長崎・出島のオランダ商人や薩摩経由の琉球ルートでヨーロッパやアジアの産品が輸入されていました。基本的には経済は自国内生産・消費で営まれていました=輸入代替。
- 1853年、アメリカ・ペリー提督の黒船が浦賀に来航し、1854年に【日米和親】条約が締結されました=アメリカとの外交関係が樹立し、「開国」となりました。
- 1858年、アメリカ大使ハリスとの交渉で江戸幕府は【日米修好通商】条約を締結しました。
- 1899年の条約改正まで、西洋諸国との条約モデルとなっていました。
- 沿岸諸港の開港(開港場)、自由貿易の原則、領事裁判権などが規定されました。
- 外国人は開港場を拠点に約40キロの範囲を自由に移動できました=国内商業旅行は禁止されました。
- 日本の【関税自主権】を認めず。輸出入関税は従価【5】%の低関税が課せられました。
- 外国工業品の流入を止められず、日本国内産業の保護・育成の妨げとなりました。

- 西洋商人・企業の進出
- 開国後、西洋商社が開港場に支店を置き、貿易・金融・郵送業を展開しました。
- 商社は西洋諸国の綿工業品を輸入し、日本の茶や生糸を輸出しました。
- 商社の国際貿易決済をサポートする国際銀行が金融業務を拡大し、商品輸送にかかわる汽船会社・保険会社も営業拡大しました。
- 外国人商人にとって、日本国内市場は未知の世界であり、自ら商売のため内地に出向くことが禁じられていました。
- 日本人・仲介商人の役割:西洋商社や西洋商人が輸入した【綿織物・毛織物】を国内市場で売りさばき、それと交換に輸出品【日本の生糸や茶】を外国商人に引き渡しました。
- 外国商人は日本人仲介商(売込み商・買取商)なしには商売が成り立ちませんでした。
- 日本人商人にとって有利な商取引条件が形成されました=【非関税障壁】が成立しました。
- 日本経済は「閉鎖経済」から「開放経済」へと移行し、世界貿易の成長と相まって日本の国際貿易も成長しました。
- 1860年~1914年 年平均成長率 輸出11.3%、 輸入 14.1%

### 2.日本経済の産業化と貿易促進
- 明治維新(1868年)により江戸幕府から明治政府へ統治体制が転換され、近代国民国家の形成へと進みました。熾烈な国際環境の中で、独立を維持するためには、工業化・産業化による国民経済の発展が必要でした。
- しかし、1860年代~70年代は内戦や政治システムの整備に手間取り、経済政策は進まず、1880年代以降に日本の「近代的経済成長」が開始されました。
- 「殖産興業」:欧米列強の【政治制度】、経済システム、【技術力】を学び、国内産業を促進するために明治政府が採用した一連の政策スローガンです。
- 国内の【製鉄業】、【鉄道敷設】、その他インフラストラクチャーの整備が進みましたが、政府主導での産業育成の多くは失敗に終わりました。
- 「輸出振興・輸入防遏」:日本経済の世界経済における地位を高めるためには、海外に売れる商品の輸出を促進し、海外からの商品輸入を減らし、その商品を国内生産する必要がありました。特に、【綿工業品】・毛織物・【砂糖】の輸入代替が目指されました。

- 産業育成の成果
1. **綿紡績業**:1880年代以降、大阪を中心に、民間企業による綿紡績業(綿糸製造)が発展しました。渋沢栄一のイニシアティブで設立された【大阪貿易会社】は、大型の機械を導入し、原料は【中国】から輸入した棉花を用いました。それに引き続いて大規模紡績企業が相次いで設立され、日本の綿産業の発展につながりました。紡績業⇒綿布製造⇒綿衣類製造
2. **製糸業**:開国後の日本の輸出産業をリードしたのは生糸でした。ヨーロッパにおける蚕の病気や中国の太平天国の乱によって、世界の生糸供給量は減少していました。そこに、日本が生糸を輸出するようになりました。生糸輸出をさらに発展させるため、西洋式の機械を導入し品質向上も図られました。主な産業は群馬の富岡製糸場や長野の諏訪地方で発達しました。
3. **石炭業**:石炭は蒸気機関のエネルギーとして世界で需要が高まっていました。日本には豊富な炭鉱が存在しており、そこで石炭を製造・輸出しました。1880年代には、【高島炭鉱】、三池炭鉱、【筑豊炭鉱】で産出された国内石炭が、開港場に供給され(外国船舶の燃料炭)。また、アジアの貿易拠点であった上海、香港、シンガポールに日本産の石炭は輸出されました。アジアの蒸気船輸送をエネルギー供給で支えました。
- 日本石炭は高品質で、上海、香港、シンガポールの市場では【50】%のシェアを得ました。

### 3.日清・日露戦争による国際秩序への挑戦
- 19世紀末の東アジアの国際秩序:中国清朝を中心とする華夷秩序・冊封体制に対して、西洋列強を模範とする日本の近代国際秩序が挑戦しました。
- 日本は近代化、自国経済の発展、国際的な地位の向上、周辺アジア地域への日本の影響力の拡大を目指しました。

- **日清戦争**
- 1880年代に日本が東アジアの国際経済における影響力の拡大

を目指し、朝鮮半島に進出しました。朝鮮半島は中国清朝の影響下にあり、清朝と日本との間の外交・軍事衝突が頻発しました。
- 1894-95年に日清戦争が勃発しました。明治日本政府と清朝との間で起こった戦争で、日本が勝利しました。
- 戦後処理として【日清講和条約】が結ばれました。
- 清朝からの朝鮮の自立+【台湾】が日本領に+清朝から日本への賠償金。
- 賠償金を用いて日本は銀本位制から金本位制に移行しました。
- 日本、台湾、朝鮮の間の貿易が拡大しました。
- 日本の工業品輸出、朝鮮の【米】輸出、台湾の【砂糖】輸出。
- 日清戦争後、中国では清朝の支配体制が動揺し、西洋列強による利権の搾取や各地での反乱が頻発しました。これが1911年の辛亥革命につながりました。

- **日露戦争**
- 日清戦争後、対外膨張を進めた日本はアジアでの勢力拡大を狙うロシアと衝突しました。
- 1904年に日露戦争が勃発しました。満州・朝鮮の利害をめぐって日本とロシアの間で起こった戦争です。
- 1905年にポーツマス条約により終戦しました。日本による韓国の保護国化、ロシアの満州からの撤退が定められました。ただし、賠償金の支払いはなく、日本政府にとって戦争経費は膨大でした。日露戦争後、日本は朝鮮の植民地化と満州への進出を進めました。
- 1914年に第一次世界大戦が勃発し、西欧諸国の経済停滞が起こり、アジアにおける工業品供給の不足が生じました。工業化を進めた日本がアジア市場に工業品を輸出し、産業発展と貿易成長を遂げました。

### 4.アジア域内貿易への「開国」
- 19世紀後半の日本の「開国」は、西洋列強との貿易自由化だけでなく、アジア諸国に対する「開国」でもありました。

- **華僑商人**
- 近世からアジア各地に移住しつつ、商業活動を行ってきた中国商人=華僑商人が、日本の開国とともに【神戸】や【横浜】に進出しました。
- 日本産品の中国への輸出、アジア産品の日本への輸入が拡大しました。
- 日本の海産物【寒天、ナマコ、海苔】の輸出は、華僑商人たちが牛耳りました。
- 日本の輸入品:中国からの【綿花】輸入、台湾・東南アジアからの【砂糖】輸入、朝鮮からの【米】輸入。
- 日本経済の産業化(輸入代替+工業品輸出促進)のためには、生産体制の拡充だけでなく、貿易・流通業の主導権を華僑商人から自国商社・商人に取り戻す必要がありました。

- **国際マーケティングの展開**
- 日本外務省・通商局は、世界各国に置かれた【日本領事館】を通して、世界の市場状況を調査させ、それを【領事報告】として刊行しました。世界各地の貿易、金融、商業、農業、工業など多岐にわたる情報が掲載されました。
- 民間企業はその情報をもとに、海外市場で「売れる」商品を生産し、輸出を拡大する試みをしました。(1882年~1924年に出版)
- 三井物産、三菱物産、伊藤忠商事といった商社が【領事報告】を活用して、海外市場との販路を拡大しました。

- **同業組合の形成**
- 日本の生産者は小規模経営が多数であり、これら生産者のアジア市場向け輸出+アジアからの輸入は華僑商人の活動に大きく影響されました。
- 例)輸出品価格が不当に安く買いたたかれてしまい、生産者利益が十分に得られないことが産業発展の足かせとなりました。
- 対抗策として、小生産者たちが【同業組合】を形成し、華僑商人たちの流通支配からの脱却を目指しました。日本では細分化された産物・産業ごとに多くの【同業組合】や商工会が形成され、生産+流通(輸出)を日本人の団体で組織しました。
- 例)綿業という同一産業内に輸出先や製品別の同業組合がいくつも形成されました。日本棉花同業会・輸出綿糸布同業会・対印綿織物輸出組合・日本綿織物工業組合連合会・大日本紡績連合会など。

### 琉球大学 「経済の歴史」 第14回 戦後の世界経済・アジア太平洋地域の経済発展


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**概要**

第二次世界大戦が終結し、アジア・アフリカ諸国は西洋列強の植民地体制からの独立と国民経済の発展を目指した。その後、日本の高度成長に続き、アジアNIES、東南アジア、そして現在まで続く中国の経済発展が連続して起こり、アジア太平洋地域がグローバル経済の成長を牽引するようになった。本講義では、アジア・アフリカの独立と国民経済の形成、アジア太平洋地域を中心としたグローバル経済の再構築の過程を学ぶ。

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**1.アジアの植民地の独立と経済**

- **19 世紀~20世紀前半**:アジアには西洋列強が植民地体制を構築
- **第二次世界大戦**:日本軍が西欧諸国に勝利し、アジア諸国の民族に独立の機運を植え付けた。1945年の終戦直後から南アジア・東南アジアで独立運動・戦争が展開された。

- **東南アジア**:
- **アメリカ資本主義・西側陣営**: マレーシア・シンガポール・タイ・フィリピン・ベトナム共和国(南ベトナム)
- **ソビエト社会共産主義・東側陣営**:ベトナム民主共和国(北ベトナム)、カンボジア、ラオス
- **第3世界**:インドネシア共和国は1950年の独立以降、東西冷戦からは距離を置き、アメリカ陣営にもソ連陣営にも属さないアジア・アフリカの第3世界の主導国を目指した。
- **1967 年**:資本主義陣営の国々は対共産主義の政治同盟として【東南アジア諸国連合(ASEAN) 】を結成した。
- **1965 年~1975 年**:アメリカのベトナム内戦介入によるベトナム戦争が勃発。北ベトナムの勝利によって、南北を統一したベトナム社会主義共和国の成立。
- **1991 年**:ソビエト連邦の崩壊により東西冷戦は終焉を迎えた。
- **1995 年**:ベトナムがASEANに加盟し、東南アジア域内の経済連携が強化された。

- **南アジア**:
- **1947 年**:イギリス領インドは、インドとパキスタン(現在のバングラディッシュも含む)に分かれて独立した。
- **分離独立の背景**:インドのヒンドゥー教 ⇔ パキスタン・バングラデシュのイスラーム。インド・パキスタンの融和独立を説いたマハトマ・ガンディーは宗教対立の中で暗殺された。
- **1971 年**:パキスタンからバングラディッシュが分離独立。現在まで、インドとパキスタンの間では核開発やテロを巡る対立が続いている。

- **輸入代替型工業化**:
- **輸入代替型工業化とは**:それまで外国から輸入していた製品に【高関税 】を課すことで国内市場を保護し、自ら消費するものは【自国内生産 】で生産することで工業化を果たすこと。
- **インド**:19世紀~20世紀前半のグローバル化の中で、植民地化と西洋経済による搾取を受けた。インド経済を復活させるためには、グローバル化の影響を排除する必要がある。保護貿易・輸入代替型工業化による経済発展を目指した。

- **東南アジアにおける民族資本の形成**:
- 植民地期に創立された【外国籍】の企業を買収し、それを民族資本の形成に取り組んだ。
- **マレーシアの【ブミプトラ】政策**:多民族国家であったマレーシアでは、土着民族の【マレー人】の社会・経済的地位の向上を狙って、1970年代以降に優遇政策がとられた。例)企業や役所の雇用において、マレー人を一定の比率以上採用する。

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**2.日本の高度成長**

- **1945 年~1950年**:日本はアメリカ占領体制の下、戦後経済への復興をすすめた。
- **1951 年**:サンフランシスコ講和条約によって、アメリカ占領は終わり、日本は国際社会に復帰した。
- **1954 年~1973年**:日本は飛躍的な経済規模の拡大を経験した=高度経済成長。

- **高度経済成長の要因**:
1. **【高い貯蓄率】**:多くの日本国民が貯金を蓄える傾向にあり、その貯蓄資金による銀行の投資が、企業によるさらなる生産体制の拡充に用いられた。
2. **国内需要**:3種の神器【テレビ・洗濯機・冷蔵庫】を、すべての国民が買い求めた。これら家電製品に代表される大きな【国内需要】が、生産と消費の好循環を生み出した。
3. **国際経済の安定**:アメリカを中心とした西側資本主義陣営の経済体制が安定しており、【ブレトンウッズ】体制の下、日本円の為替は1ドル【360】円で固定。
4. **安価なエネルギー**:1950年代初頭までは日本国内の炭鉱で産出された石炭が主流。高度成長期には大型タンカー輸送の発達によって、海外から安価な石油が輸入された。

- **1968 年**:日本の国内総生産GDPは西ドイツを追い抜き、アメリカに次ぐ世界第2位へ。
- **1973 年**:変動相場制へ移行したことで、日本円はドルに対して大幅に円高へ。その後、1980年代にかけて日本の輸出競争力が低下していった。第1次石油危機(1973年)、第2次石油危機(1980年)によって原油価格が高騰し、外国資源に依存する日本経済にダメージを与えた。⇒高度経済成長の終了。

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**3.東アジア・東南アジアの工業化**

- **アジアNIESの台頭**:
- 1960年代以降に急速な工業化を遂げ、1970年代以降には世界経済における重要性を大きく成長させたアジアの4つの新興工業国(Newly Industrialized Economies:NIES)=【シンガポール・香港・台湾・韓国】をアジアNIESと呼ぶ。
- **アジアNIESの工業化戦略**:
- **輸出指向型工業化**:自国の市場にとどまらず、世界市場への輸出を狙って工業化を進める。特に、【開放的】な経済政策を採用し、外国からの【投資】を呼び込み産業発展する。
- **【開発独裁】**:経済発展のためには政治的安定が必要だという考えの下、国民の政治参加の権利を抑制する独裁制のこと。アジアNIESの国々では経済発展を着実に進めることで、その独裁制を正当化し、人々の反発を抑えることができた。

- **東南アジア経済の発展**:
- 輸入代替型工業化の課題:【保護貿易】政策によって貿易成長が停滞し、外貨や【海外投資】が欠乏した。東南アジア諸国は自国資本だけでは重化学工業まで発展させることはできず。
- **1970年代以

降**:外資系企業の誘致を積極的に進め、アジアNIESを含む外国の投資を誘致した。生産拠点を持つ企業は多くの東南アジア諸国に進出し、工業化を進めた。
- **1990年代**:ASEAN域内での工業化が進み、アジアNIESに続く新興工業国(NICs)として、タイやマレーシアなどが台頭。

・1970年代以降の貿易成長 東南アジアの多くの国々で開放的な経済政策が採用され始めた。 輸出指向型の工業化が目指され、1980年代後半になると【プラザ合意】による 日本円高によって、東南アジア諸国の輸出競争力の向上と貿易の急成長が起こった。 タイやマレーシアでは産業構造が軽工業から【 中間財】工業へと高度化した。 3 ⇒ さらに中間財をアジアの後発工業国から輸入し、完成品を製造・輸出する 【加工貿易 】が大きく成長した。
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**4.中国の経済発展**

- **1978 年**:中国共産党の改革開放政策により、国家の中央計画経済から市場経済へと移行を開始した。
- **中国の改革開放政策の主な特徴**:
- **市場経済化**:農村経済の自由化、農業生産の自己管理と販売の自由化などを進めた。1980年代以降には外資系企業の誘致政策を強化した。
- **特区政策**:中国沿海部に特別経済区(SEZ)を設立し、外国資本の誘致と地域経済の発展を図った。代表的な地域は【経済特区】と【社会主義市場経済】。
- **輸出指向型成長戦略**:外貨の獲得を目的に輸出を推進し、国際的な生産拠点としての地位を確立。

- **2000年代以降**:中国は急成長を遂げ、世界経済における大国となった。2008年の金融危機を受けても安定した成長を続ける中で、【独占貿易】の対策や【多国籍企業】の施策を推進している。

4.中国経済の転換
・計画経済期
1953 年~1978年:毛沢東政権は、計画経済による経済発展を目指した。すべての生産体制
は国家の管理下に置かれ、人々の生活物資や財産についても国家が分配することとなった。
・改革開放政策の実施
1979 年、広東省と福建省に【経済特区】が設立され、貿易と投資が解放された。
これを契機に、中国は計画経済を放棄し、市場経済を取り込んだ経済システムの構築に向か
った=【社会主義市場経済】
1980 年代の経済拡大:毎年、農業と工業の生産高が10%成長し、国民の実質所得も2倍に
増加した。特に、膨大な人口が工業生産のための安価な労働力の供給に役立った。
1989 年の天安門事件:中国共産党の一党支配に反発した学生運動を、中国政府が武力で弾
圧した事件。多数の死者が発生し、国際社会は中国政府を非難した。外国投資も縮小し、中
国経済は一時的に低迷した。
4
貿易の成長:1979年の293億ドルから2014年には4兆3千億ドルへ貿易総額は成長
国営貿易会社による【独占貿易】から、【多国籍企業】
による自由な貿易体制へ転換した。
外国投資の拡大:2014年・海外⇒中国へ1千400億ドル 中国⇒海外へ1千200億ドル
GDPの成長:1979年の2600億ドルから2015年には11兆ドルへ増加した。
世界第2位の経済大国 ⇔ 一人当たりGDPはいまだに先進国に及ばない。
・WTO加盟
2001 年に中国は世界貿易機関WTOに143番目の加盟国として参加した。
中国はWTOに加盟したことで、さらなる貿易自由化、サービス市場の開放を進める必要が
生じた。⇒ この市場開放によって、単に中国から世界市場に製品が輸出されるだけでなく、
膨大な人口に基づく世界の消費大国に変貌していった。
・中国主導の自由貿易協定
東アジア地域包括的経済連携RCEP:ASEAN、日本、韓国、中国、インド、オーストラリ
ア、ニュージーランドの間で締結された自由貿易協定(2022年1月開始)
中国は環太平洋経済協力TPP(2018年開始)には参加しておらず、RCEPを主導すること
でアジア太平洋地域の貿易自由化を主導することを目指している。

5.アジア太平洋経済圏の発展パターン
(1)雁行がんこう形態論による工業化
一国の工業化は、最初は【労働集約的】な軽工業の産業から始まる。その後、技術
力の向上や資本の蓄積によって、高度な【重工業】の産業へ段階的に発展していく。
このプロセスが、一国から他国へと波及し、先進国と【後進国】の間の経済関係
が緊密になっていく現象を指す。
このプロセスを、雁かり(カモの飛行形態)に見立てて、雁行形態論と呼ぶ。
1970 年代から80年代のアジアでは、日本が先頭となり、それを【アジアNISE】
や【東南アジア諸国】が後追いすることで、アジア地域全体の経済発展が進んだ。
高度成長により日本の産業は軽工業+重工業へ多角化・高度化
⇒ 日本よりも労働力が安い韓国や台湾に軽工業が移転
⇒ 日本からの技術移転や投資によって韓国・台湾の産業も多角化・高度化
⇒ 労働コストが安い東南アジアに軽工業が移転 ⇒ ・・・同様のプロセス・・・
アジア諸国の産業間で相互依存が進み、地域全体の経済発展が促進される。
5
(2)アメリカ経済モデルの拡大
1991 年に東西冷戦が終結⇒ ソ連は崩壊し、中国やベトナムも市場開放を進めた。
アメリカ・モデルとは・・・
【市場経済】システムと【民主主義】をグローバルに拡大させ、アメリ
カを中心とした世界経済の成長を促す。1990年代から2000年代のアジア経済に影響した。
・貿易自由化:1995年に世界貿易機関による自由化・アジア太平洋経済協力(APEC)・環
太平洋経済協力(TPP)など
・金融自由化:【IMF】と【世界銀行】という国際機関が主導す
るワシントン・コンセンサス = 発展途上国は援助を受け入れるのと見返りに、財政改革
や金融市場の安定を実現しなければならない。
発展途上国は国際援助を受け、またアメリカ・モデルのグローバル市場から利益を得ること
で、経済発展を進めることができた。
1990 年代以降の中国も、アメリカ主導のグローバル経済の拡大にアクセスすることで、世
界有数の生産大国として経済発展を遂げることができた。
しかし、2000年代後半(2008年の世界金融危機後)はアメリカ・モデルも力を失い、現在、
世界経済は旧制度・モデルの崩壊と、新たな成長モデルの模索という新局面に入りつつある。

**まとめ**

- **アジア・アフリカの独立**:西洋植民地体制からの脱却と独立によって、各国の経済発展が加速。
- **日本の高度成長**:戦後日本の急速な経済発展とその後の経済変動。
- **アジアNIES・東南アジア**:工業化と経済成長戦略、特に外資誘致と輸出指向型戦略。
- **中国の改革開放**:市場経済への移行とその影響、特に輸出指向型成長と特区政策の成功。

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この講義では、アジア太平洋地域の戦後経済の発展過程とその要因を体系的に理解し、地域ごとの経済戦略の違いを比較することができます。


第15回 エネルギー革命・環境と世界経済
講義の概要
グローバル化と国際貿易の成長は、世界中の国々の経済活動を刺激し、飛躍的な経済発展を
もたらしてきた。その一方で、経済規模の拡大に伴って資源の枯渇、森林破壊、大気汚染、
地球温暖化などの環境問題が深刻となっている。国際貿易の成長に伴って発生した環境問
題について学ぶ。
1.経済と環境
人間の経済活動は地球上の資源エネルギー(土地、水、動植物、労働力など)に基づく。
しかし、地球上の資源には限りがある(資源の制約)。
経済学では、いかに人間が限りある資源を活用し、生産活動を最大化するのかということを
研究する。
18 世紀のイギリスで発生した産業革命以降、人間の技術力は飛躍的に向上した。
⇒ 過去200年で人間は世界中の資源を徹底的に利用し、経済を成長させてきた。
⇒ 人間の経済活動が自然環境に多大な負荷を与えるほどに拡大した。
例)大気・水汚染、砂漠化、洪水、原発事故、オゾン層破壊、地球温暖化・・・
対策:代替資源への切替(石油→風力)、技術革新による汚染物質の除去(放射性廃棄物の
処理)、汚染物質の使用禁止(フロンガスの禁止)、国際条約による協力体制(地球温暖化に
対処するためのパリ協定など)
・共有地(コモンズ)の悲劇
多数の人々が利用できる【共有資産】は、常に過剰利用や乱獲により
【資源枯渇】を招いてしまうという経済学の法則
共有地の悲劇の例
ある村に村人全員が利用できる牧草地があり、村人はそこで牛を飼っている。
ある村人Aが牛の数を増やし、それにより自家消費以上の乳製品を市場で売り大儲けした。
⇒それを見たほかの村人も次々と牛の数を増やし、乳製品の販売から利益を得た。
⇒村は豊かになった一方で、牧草地に牛が増えすぎたため、草が減り始めた。
⇒村人Bは牛の数を減らさなければと考えた⇒しかし、自分が減らした分、ほかの村人が
牛を増やして利益を得るならば意味がない⇒誰も牛を減らすことができず、共有地は荒廃
1
し、牛を飼えなくなった村は崩壊してしまった。
現実には、地域コミュニティによる【相互監視】や【互助】の仕組みによって、
資源管理が行われ、共有地の悲劇は回避される=コモンズの統治(エリノア・オストロム)
地球環境問題も共有地の悲劇としてとらえることができる。
地球はすべての人が共有している ⇒ 皆が好き勝手に利用すれば崩壊してしまう。
共有地の悲劇の防止策:所有権の確立、政府による規制、環境税・炭素税の導入など。
2.エネルギー転換と資源輸出経済
・エネルギー資源の転換
19 世紀以前・バイオマスの時代:人類社会のエネルギー消費はバイオマス
=【動植物資源】がベースとなっていた。
19 世紀~20 世紀初頭・石炭の時代:【産業革命】による工業化の結果、石炭
が新たなエネルギー資源として利用され始めた。蒸気機関を動かすのに石炭は不可欠
=【化石資源】の時代へ
20 世紀以降・石油の時代:欧米や【アジア】の国々で経済発展が進み、工業化
のために大量の石油がエネルギー資源として利用され始めた。
・オイルトライアングル(石油の三角貿易)
20 世紀後半になると、東アジア(日本、アジアNIES)の工業化・経済発展が進んだ。
アジア諸国の経済発展は、中東からの大量の石油輸入によって可能となった。
中東産油国【石油】⇒ 東アジア【工業品】
⇒アメリカ・西欧【工業品(武器)】⇒中東へ
東アジアから欧米市場に【工業品】が輸出され、東アジアの中東からの
【石油輸入】は欧米から中東への【武器輸出】によって決済された。
オイルトライアングルは、欧米の金融市場の拡大、アジアの経済発展、中東の紛争状態と密
接に関係しつつ発展した。
[次ページ図]
1973 年・1979年の石油危機:第4次中東紛争の発生に伴って、石油輸出国機構OPECが
石油の輸出価格を大幅に引き上げた。
1 バレル[3ドル]→[11ドル](1974年)→[36ドル](1979年)
日本は石油輸入と消費を減らすために、資源節約型の技術革新を進めていった。
例:自動車産業では、基礎素材をより軽量の樹脂に切り替え、ガソリン消費量を減らした。
2
図 東アジア・中東・欧米間のオイルトライアングル 1970~80年代

東アジア
【金融市場】
の発展
経済発展
工業化
【地域紛争】
の頻発
欧米
中東
工業品 武器 石油
3.開発地域の環境破壊
資源開発が進む新興国では、無秩序な開発による環境破壊が深刻になっている。
以下は東南アジアの資源輸出と環境問題
・インドネシアの錫鉱山における環境・社会問題
世界の電子産業を支える東南アジアの錫生産は、同時に現地の環境や社会に悪影響を与え
るという負の側面がある。
①採掘現場での労働災害 ②露天掘りによる森林破壊 ③沿岸海底での違法採掘とサンゴ
礁の破壊、沿岸漁業の崩壊
・インドネシアの炭田
近年のインドネシアでは石油を代替する燃料として石炭の採掘が拡大している。
炭田があるカリマンタンでは、熱帯林を切り開いた露天掘りによって石炭が採掘され、掘り
つくした後は荒れ地となっている。深刻な森林破壊の一因となっている。
・アブラヤシ栽培の拡大
1970 年代以降、【マレーシア】と【インドネシア】ではアブラヤシの
栽培が急拡大し、重要な輸出産業に成長した。
⇒ 【熱帯林】を切り開いた広大なプランテーションで、アブラヤシの単一栽培
⇒ 森林破壊と生物多様性の低下
+【農薬】の多投による土地・水源の汚染も懸念されている。
・煙害問題
プランテーションの開拓のための火入れ ⇒ 大規模な森林火災 ⇒ 深刻な煙害
3
スマトラ東海岸のアブラヤシ農園で発生した火災による煙害が、対岸のマレーシアやシン
ガポールを毎年のように襲っている。
しかし、それらアブラヤシ農園の経営には、マレーシアやシンガポールの資本が流れ込んで
いる。国境を超えた環境問題と国際経済関係が絡み合う、複雑な状況となっている。
4.フェアトレード(公正取引)の拡大
公正取引:【発展途上国】の資源や製品を適正な価格で継続的に取引・貿易する
ことによって、途上国の経済弱者の【生活改善】と【環境保護】を目指す。
フェアトレードを実施できるのは、フェアトレード認証を受けた企業・団体に限られる。
・フェアトレードによる生産者援助
世界市場の価格変動や需要の増減によって、途上国の生産物は不当に安く買いたたかれる。
⇒ 途上国の農民や手工芸品生産者たちの生活は、先進国の企業によって搾取されている。
例)コーヒー:アフリカの農民によって生産されたコーヒー豆は、非常に安く買いたたかれ、
飲料になるまでに多数の仲介業者による中間利益が追加される。最終的に、先進国では原価
の100倍以上の値段でコーヒーが販売されている。
⇒コーヒー豆の生産者に利益を還元しなければ、コーヒーの生産自体が停滞してしまう。
仲介業者を介さずに、コーヒー栽培者から消費者に供給・輸入する⇒ コーヒー栽培者は労
働に見合った利益を得ることができる。消費者も消費するコーヒーの出所や質を知ること
ができる。
・フェアトレードによる環境保護
環境保全基準に従って生産された商品のみを扱うことで、環境保護を促進する。
例)バナナ:南アメリカの熱帯林を切り開いて企業によるバナナ農園がつくられている。企
業農園のバナナではなく、地元の農民が持続可能な農法で生産したバナナを取引・貿易する。
⇒ 環境配慮型のフェアトレードの拡大による企業農園の停滞、森林破壊の抑止。
その他にも、農薬の規制、適切な水源管理、遺伝子組み換え作物の禁止、外来種の導入禁止
といった条件を満たした生産物が、フェアトレードで貿易されている。
問題点
・フェアトレードを宣言している企業でも、実は全商品の3%程度しかフェアトレードに基
づいた商品を扱っていない場合がある。
・フェアトレードの組織が大規模化して、再び中間搾取の構造が発生してしまう。
・フェアトレード自体が成長するほど、供給過剰+競争激化によって産品価格が下落する
⇒ 生産者の利益が十分に確保できない。


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