【哲学とは何か】人間と哲学の知20211021

【哲学とは何か】
 辞書的意味において、哲学とは、考える学問といえるのではないか。根本原理を探求する学問である。現代の学術分野的には、こんぽんから統一的全体的に省みる人生観・世界観の理論的基礎の知的探求とされる。プラトンにとっては、運動と解釈され、インド哲学においては、ダルシャナ(みること)とされる解釈もある。
 哲学と私の関係であるが、何を思ったのか私の名前に「哲」がついている。切っても切れない漢字であり、無意識において、哲学と常に対峙している状況にある。よのなかの「哲」という感じをもった人たちを集めて、哲学を語ったら、どのようになるのだろうか。中には、意味するところが重すぎて、名前を変えた人もいるのではないか。とにかく、屁理屈でも何でもいいから、いろいろ考えてみようというスタンスを持っている人が多いのではないか。単純明快に疑念を持ち、盲目的に信じることや考えることが哲学的な敗北を意味する意識をもっているが、人生には制限時間があるので、無限に思考しつづけることを、放棄し、短絡的に結論化することが多々ある。
日常においては、紛争、論争、クレーム、もめごとによく出くわすが、むしろそれを好む場合もあるが、根本原理を探求するところまでいくことはほとんどない。例えば、最近では、ある経済系の教授のオンライン授業では、実質的に顔出しを強要していることに対して、教務係に顔出しを強要することについて、大学としての方針を伺ったところ、その話が、担当教授に伝わり、後日、授業でさらに20分ほどその理由について解説をして頂いた。その教授は、強要しているというクレームに憤慨し、怒りをあらわにされており、教育的配慮や受講生の反応により表現方法を変えることなどのご反証があった。哲学的に言えば、ヒトの嫌がることをすることが、強制にあたるのかという点を考えることを求めていたのであるが、教授側の都合のみで語られたその理由については、論点解決に至っておらず、この方がいかに人格者であったとしても、アウフヘーベンすることは無いという判断にいたった。これが、あるいみ、私から見た人間同士の哲学的限界を感じた瞬間であり、暴走する権威に対する虚無感とこの方から受ける授業情報に対して、哲学的な懐疑をもって情報整理するという新しいテーマを見出した瞬間である。顔とは何か。哲学者「レヴィナス」 (https://biz.trans-suite.jp/20129)によれば、「他者が私と対面する状況」を表す。また、「顔は他者のたしかなあらわれである。他者の顔はわれわれに共通でありうる世界と絶縁している」とされ、オンライン授業で、半ラジオ的な受講スタイルでは、レヴィナスによれば、顔無しでは、他社のたしかなあらわれがみられず、絶縁性の欠如に納得されない経済学者がいるということを哲学しているところである。

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